【小説】所有物

女性を所有したいと思ったことはあるだろうか。
まるで幼い頃、猫や犬を自分のペットにするみたいに自分だけを待っていて欲しいと思ったことが。
僕には未だあるだろうか。

そのキスは、あまりにも長くて息苦しい時間になった。

彼女の細い指先は僕のジーンズの前ポケットにたよりなく引っ掛けられていた。
僕はというと力の限り、でも彼女が壊れないように彼女の後頭部をしっかりと押さえて離せなくなっていた。

妻と出会って惹かれあい結婚したそのずっと前ですら女性を所有したいなんて思ったことはない。
”幸せにしたい。””いつも笑っていて欲しい。”
人を愛する事でいつでも僕の中に平和的にそんな気持ちは躰の底から浮かび上がって、いつの間にか躰の中を埋め尽くしていくものだった。

浅はかで貪欲で自分勝手なこの気持ちは、”怜華”にしか向けられることがないのだ。

午後11時。
蒸し暑い熱帯夜。まとわりつく湿気を払いたくて僕は、クーラーをつけた部屋で仕事のあれこれに頭を巡らせていた。

怜華はいきなり僕の事務所であるマンションへ小さな愛車を走らせて訪れた。
「今日しかない気がする。今しかない気がする。」
にやけ面で僕にそう言う彼女は、洗い髪も乾かぬままに家を飛び出た様子だった。

彼女はいつでもそうだ。

唐突で突拍子もない。

いなくなったかと思うと、楽しそうにニヤニヤして僕の前でイタズラをはじめる。

怜華はいつでもニヤけた顔しかしない。

満面の笑みや大爆笑なんて見た事がない。

いつでもすこし微笑むか、ニヤニヤとイタズラっぽく笑う所しか見た事がない。
8年以上の付き合いがあってもそんな物だ。

僕には、その顔しか見せていないのかもしれない。

そう思うとやけに悔しくなるので、いつも怜華の笑顔を見る時には、そんな事は考えない事にしている。
怜華にとっての最高の笑顔は、このふざけたニヤけ面なのだと。

どこへ車を走らせるのかと思って助手席に乗り込む。

「明日も仕事だし奥さんが心配するから、そんなに時間はないんだけど。」

僕はできるだけ仏頂面で、できるだけ無表情な声で怜華に問いかけた。
どんな女性に対してでも、こんな態度をとる事はない。妻でさえも。

フリーランスで仕事をしている僕に定時など存在しない。
それを知ってか知らずか、彼女はフフっと、笑いをこぼした。

「大丈夫、もう着くよ。暁人くん、タバコ吸う?」

「禁煙、知ってるだろ。嫌味かよ。」
無愛想な僕に相反して、怜華はニヤニヤ笑いながら、旨そうにタバコの煙を呑んだ。

午後11時15分。
人気のない道路の傍らに怜華は車を停めた。

「ここ、暁人くんの所から近い場所。見つけたの。
でも、今日どうしても来たくて。暁人くんに教えたかったから。」

そこはとある大きな用水路だった。
昨日から今日の夕方まで降り続いた雨のせいで水嵩は増して濁流といっていいほどの水が轟々とながれている。

「目を瞑って何が見える?」

ただでさえ暗くて何も見えないのに目を閉じろと怜華は言う。

大人しく従う事にした。

いつだってそうだった。

僕が疲れた時に怜華は察するかのように不意に表れては、僕の想像力も常識も発想も超え、まるで朝食でも作るみたいに僕を”ゼロ”にする事をしてくる。

目を閉じて、轟々と流れる水の音に身を任せているうちにここ数ヶ月のゴタゴタが全部消えていくようだった。

ふと目をあけて深呼吸する。
目を閉じている瞬間は、まるで今にも濁流に飲み込まれるかのような恐怖感があった。
だけど、不思議と僕は穏やかな気持ちになっていた。

「タバコ、一本くれよ。」
怜華は予測していたかのようにタバコのフィルターを僕にむけて、得意げな顔で待ち構えていた。

彼女と繋がったあの日から僕の過ちは始まっていたのかもしれない。

初めて見た時には、何も思わなかった。ただすこし内気で控えめで、だけど真っ直ぐ芯がある子だと思った。まさか大学の同級生である僕と一夜をこんな形で過ごすような子には、思えなかった。
そんな思いも、怜華と接していく中で払拭していった。
大胆な事が得意で、いつでも掴み所がなく、周りが騒いでいてもどこ吹く風。そんな雰囲気の子だった。
僕の周りの男どもは怜華を特別魅力的だと考えている奴はいないようだった。
怜華はどんな子かと聞かれた時、”マイペースな子”と言う奴がほとんどだった。

僕が想像する怜華の部屋は、いわゆる”古着屋”みたいな匂いがしてゴチャゴチャと物が多い。
そんなイメージだった。

彼女の部屋は意外にも物が少なく、なんだかわからないけど花の香りがしていた。

そんな小さな部屋で僕と怜華はお互いのすべてを飲み込むように求めあった。

「暁人くん、アタシは暁人くんの事、ぜーんぶ知ってるんだ。」

僕の上で高揚した彼女の顔はいつものニヤけ顔とは違う何かが漂っていた。
彼女が腰を動かすたびにどうしようもない快楽が溢れてくる。
彼女もまた同じようにそのリズムに合わせて小さく声を漏らしていた。

美人とはいえない、だけと初恋の誰かに似ている。

彼女の顔をみて僕はそう思った。

全てが煩わしかった。
彼女のその眼差しも、言葉も。
今はただ、この空間にある濃すぎる空気に身を任せたかった。

「暁人くん、ずっと一緒にいてくれないかな?」

事が終わった後、以外にも彼女は弱々しくそう吐き出した。

「ごめん、それは無理。」

自分が思っているよりも空間に大きく響く声が緊張感をたかめた。

クスクスと笑う怜華の声がその緊張をやわらげた。

「そうだね。そうそう。そう言うだろうって分かってた。もう一回しようか。」

いつものニヤけ面をのこして、彼女は僕の下半身をいじり始めた。

僕には、何もできなかった。
特別な事は何もなかった。

月日が流れた今も、怜華は僕にこんなにも情熱的なキスを僕に向けている。

離れないように、でもいつでも離せるように。

僕だってあの日から何も変わらない。

怜華の全てが欲しい。世界中の誰の目にも触れないように怜華を僕だけのものにしたい。
あのニヤついた奥にある弱々しい部分も全部。

「暁人くん、アタシが欲しい?」

目も合わせずに怜華は掠れた声で僕にそうささやいた。

遠くで流れてくる水を眺めながら僕はもう一度深く酸素を吸った。心臓がひどくうるさく、耳の奥で鳴る。

「僕には、奥さんがいるから。それに。。。」

それに僕は、君が怖い。

いつでも大切な事は怜華には伝えられない。

大切な事を伝える前に怜華はクスクス笑いを初めてしまうから、鼻から僕の言葉なんて聞く気がないんだ。
僕の全てを見透かしている怜華の前では、なすすべがない。
僕にとって怜華はあらゆる意味で特別だ。特別だからこそ、僕みたいな平凡な人間になぜこんなにも執着するのかもわからない。まるでからかわれている気分だ。その気分を味わうたびに僕は、怜華に怒りすら覚える。

午前0時

僕たちは怜華の小さな愛車にのって事務所へ向かっていた。
到着すると僕は怜華が駐車するのを待っていた。ハザードランプをつけたまま怜華は、僕を見た。
「暁人くん。ついたよ。降りないの?」
情けなくなった僕は、思わず笑ってしまった。
なにもかもどうでもよくなって僕は、怜華にたずねた。
「あがっていかないの?」
まだ離れたくない。怜華のその特別な空気で僕は肺をいっぱいにしたい。あの時の弱々しさをもう一度見たい。

今日しかない、今しかない。怜華の言葉が脳裏をよぎる。僕だけを見て、世界中から怜華を遠ざけたい。僕の所有欲は一気に加速して、いまや息も荒く怜華の手を握っていた。

「だらしがないなぁ。」
ニヤニヤと笑いながらそういう怜華の雰囲気に今にも倒れそうになる。こんなにも冷静さを失う事が僕にあるだろうか?もう、なんだっていい。

「いつもの日常に帰る時間」
怜華は冷静にそう言い放った。
なんだか永遠の別れのように感じた。
怜華はいつでも、突然表れて突然消える。今までだって。
この8年間だってずっとそうだった。だけど、今日はどうしても怜華を離してはいけない気がした。
その気持ちと裏腹に怜華は僕のシートベルトを外した。
車を降りようとした僕に怜華は、”最後だ”と言わんばかり僕の手を握りかえした。

「手、離さなければ、離れる事なんてなかった。いつでも手を離すのは暁人くんだったよね。」

僕は怜華の手を離した。
8年前だって僕から手を離した。

所有したい気持ちと彼女に飲み込まれる恐怖に耐えられなかったから。僕には、そうする事が精一杯だった。

遠ざかる車のランプをみながら僕は、自分勝手にも

「怜華。どうか幸せになってくれ。」

小さな声でつぶやいた。

「あ、怜華!結婚したみたい!」

妻の明るい声に僕は洗面台から顔を上げた。

妻の掌でヒラヒラと踊る暑中見舞いは、同時に結婚の知らせが書いてある怜華からの手紙だった。そこには、微笑む怜華と、どこにでもいるような男が映る写真が印刷されていた。

「怜華って、結婚しないか、すごい個性的な人と結婚すると思っていた。この人もけっこう変わった人なのかな?」
明るく話しかける妻に、微笑みを返すのが精一杯だった。
写真の中で微笑む怜華のように。

結婚の知らせを聞いた妻は早速、怜華に電話をしている様子だった。

「暁人?ああ、今いるよ〜。仕事?まぁ続いてるって感じじゃないかな?」

その声を尻目に僕は、後ろでで玄関のドアを閉めた。

真夏の日差しが痛いくらいに僕の肌を刺激していた。
コンビニによりタバコとライターを買った。効きすぎた冷房が僕の汗を冷やした。
人工的な小川が流れる遊歩道に申し訳なさそうにかけてある。灰皿の近くのベンチに僕は腰を下ろしタバコに火をつけて一吸いした。
あの日、怜華と行った用水路のように轟々と流れる川の音は聞こえない。

妻にバレないようポケットに忍ばせた暑中見舞いを取り出し眺めてみた。

まじまじと見る怜華の写真は、なんだかひどく老けて見えた。
彼女と求め合った日、キスをした日から数えれば途方もない日々が過ぎたから無理もない。

ただ僕には、彼女に漂っていた眩暈がしそうなあの魅力はもうないような気がした。

不意に僕の携帯電話がふるえた。

「暁人くん、手紙ちゃんと届いたみたいでよかったです。奥さんも元気そうだね。赤ちゃん無事に産まれるといいね。」

相変わらず、素っ気ない文体が怜華からのメッセージだと分からせた。
「旦那さん、素敵な人だね。お幸せに。」
メッセージの前半、僕は嘘を打った。メッセージの後半、僕は本心を打った。

暑中見舞いからは、なんだかわからないが花の香りがかすかにした気がした。

遠くから、子供の遊ぶ声が聞こえた。

僕は買ったばかりのタバコごとすべて灰皿に捨てた。


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