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『Mr.マクマホン:悪のオーナー』を観ました

配信スタート後、全6回を一気見。圧巻のドキュメンタリーシリーズ。こうした作品のアプローチに対しては好き嫌いあれど今年のNo.1と言って差し支えないのではないでしょうか。


日本でこうした作品を作るのは恐らくは無理だと思われます。巨大帝国アメリカだからこその炙り出せる力があります。特にインサートしている映像がとにかくピンポイント過ぎて、よく見つけてきたなと思わされる映像ばかりです。そうした過去映像のインサートの使い方一つにしてもドキュメンタリーとして帯びる説得力が段違いに違います。中には中継カメラが入っていない試合映像では海賊版のような画質の映像が出てきたり。どこからそれを見つけたんだというような映像や、その事件の時に舞台裏で映像が回っていたんだ!?というような映像が沢山出てきます。言ってまえば裏ビデオのような映像が凄まじい的確さを持ってインサートされていきます。ドキュメンタリーの説得力って過去映像のインサートによる力でもあるのだなと感じさせられます。

WWEを巨大帝国にしたビンス・マクマホンのキャリアを描くドキュメンタリー。
エピソード1ののっけからビンスの性加害問題に触れられる。本作でのインタビューシーンはその性加害の問題が明るみになる前に収録されているものであるということがこの作品の大前提であることが触れられる。

それが急遽エピローグであるエピソード1の冒頭に挿入する必要があった。そしてこの性加害の問題こそがこの作品のプロローグになることがあらかじめ予見された構成になっている。
こうした現在話題になっている社会問題を最前に持っていっても、あくまで本編はとても丁寧に、これまでWWEの光と影、そして暗部となってきたエピソードを非常に丁寧に向き合って描いている。

全6話。とにかく訴訟が多い。アメリカという国をよく現している。1エピソード毎に揉めてきた内容は「現在どうなっているのか」という総括があったり。
まあとにかくビンスは様々なことに揉めてはのし上がってきた。

過去には州ごとに異なるテリトリーで団体は存在していたが、マクマホンの欲によってWWEはその不文律を破った。テリトリーを超えてWWEを大きくしようとした欲。それこそが隆盛の第一歩であったことも非常に丁寧に解説されていく。

当時はナショナリズムのプロレスをやっていた。
アメリカ人vs外国人。政治情勢をそのまま取り入れていた。
非常にセンシティブな表現だ。国旗を燃やしたりして憎悪の感情を引き出す。しかし実際にアメリカとイラクの関係が悪化すると、リング上の描写も変えなくてはならない。常に世相と隣り合わせだったことがよくわかる。
対立構造の原点はナショナリズムなのだということがよくわかる

『レッスルマニア』が誕生した背景にも『スーパーボウル』の成功例がある。現在では定着したメガイベントの誕生もビンスによってディティールが語られていく。

3回目となるレッスルマニア、どうしたらより世間に訴えかけられるイベントになるのか。ハルク・ホーガンvsアンドレ・ザ・ジャイアントで行くしかない。背中を痛めているアンドレを口説くために映画撮影の現場に赴いたり、あの手この手で実現するために動いていったことがよくわかる。ホーガンの証言も非常に貴重なものになっている。

著名なキャストを駆使して拡大を図るのもあのシンディ・ローパーを起用したことでその路線の原点を感じる。

面白いのはネクストホーガンとして超えるスターが中々現れなかったことをビンスがインタビューで語っていることだ。アルティメット・ウォリアーも筋骨隆々ではあるが、ホーガンほどプロレスが好きではなかったと語られているし、レックス・ルガーもまたホーガンほどの存在感には及ばないことが語られる。ホーガンにあって他のレスラーにはないもの。それが炙り出されていく。それはトークの力なのか、はたまたプロレスの技術なのか、カリスマ性なのか。この世界でトップになるための総合値とは何なのかを考える上で非常に興味深いエピソードになっていると言えるだろう。それほどまでにハルク・ホーガンが唯一無二であることが明かされる。

ステロイド使用による裁判。実際にステロイドを使用したとされるレスラーのモンタージュが凄まじい。
あのレスラーもあんなレスラーもステロイドを使用していた。映像で出てくるレスラーのほとんどは早いうちに死んでいった。リック・ルードだけが腰フリをしていて、その存在は極めてファニーではあるが、皆が筋骨隆々のトップスーパースターになるために身体に負担を強いることを選択したのだろう。そのモンタージュに出てくるレスラーのほとんどが一世を風靡したトップ選手であるという認知で間違いない。
「もっともっと大きく! 」そんな願望が形となったスーパースターたち。ステロイド大国アメリカの暗部が集約されている

「ステロイドの使用により45歳以下のレスラーがこんなに亡くなっているのはおかしいと思わないのか?」
ビンスは記者に問われる。WWEとしては関係がないという一貫した回答を続けるが、記者はそれでも問うてくる。
しつこく質問をする記者に、リングで圧をかけるキャラクター「Mr.マクマホン」が垣間見える。記者の顔スレスレにまで寄り、凄まじく罵る。なんて恐ろしいシーンなのだろう。恫喝と説明と回答のスレスレがそこにはある。

この辺りが何がビンスで、何がキャラクター上のマクマホンなのか、分からなくなってくる。つまり判然がつかない。
判然がつかない人間であるということが鑑賞していると徐々に感じられるようになってくる。境界性を失っているのではないのか。

WCWとの月曜テレビ戦争も過激化していく様子が描かれている。テッド・ターナーの仕掛けによってWCWは『マンデー・ナイト・ロウ』を多分に意識した『マンデー・ナイトロ』を展開。
WWEは録画放送なのをいいことに、WWEの試合結果をWCWの放送内でネタバレさせていくという驚愕な仕掛けさえ行なっていく。WWEは視聴率でWCWに差をつけられていく。
さらに多くのスターがWCWに引き抜かれていきます。引退すると思われたホーガンでさえ、WCWの資金力によって移籍をしていきます。
さらにホーガンをヒール転向させることで、nWoを誕生させ一大ムーブメントへ。ビンスは当時、廃業を覚悟したということをインタビューで語っています。
自分が作った創造物を奪われた挙句、それ以上の価値を創出させられ、自分たちが潰される可能性があった。
視聴率の伸びは過激なWCWの軍配に上がっていく。時代のムードは過激さや不謹慎なことが求められている時代になっていきます。

この不謹慎さと悪趣味が歓迎された90年代後半という空気感。
それをこの作品は見事に編集で構成していきます。確かにこんな時代があった。日本でも悪趣味が歓迎されていた。深夜のテレビは今では放送されないような内容も放送されていた。
悪趣味な表現が沢山あった。そういう時代だったのだ。

コンプライアンスの定義がはっきりとしてきた現在に対して、コンプライアンスがなかったことを突き詰め表現をしてきたことが形になっていたのがこの90年代後半の時代だった。
過激さが「品がないこと」に転換することもあった。
インタビューに答える既にリタイアしたスーパースターたちが後悔している感情を抱いていることが印象的だった。
プロレス的に実力があるスーパースターも女性蔑視でアジテーションのパフォーマンスをしていた。
悔恨の言葉で語るインタビュー。プロレスは時代を現すものだとも言うが、ここまで悔恨の感情を持っているのだとは知らなかった。

私はこの頃の時代からWWEを見始めていた。
深夜の地上波テレビで放送される。日本のプロレス団体の演出のどれとも違う内容に興奮させられた。娘vs父の構造に確かに興奮していた。しかしステファニーには過度な負担がかかっていたことがわかる。我々ファンもそうした負担を強いることに加担していたのではないかも感じさせるものがある。

90年代後半よりアティチュード路線と呼ばれる過激で低俗な演出を取り入れていく時代。
ウケれば「何でもあり」が誇大化していくことによる弊害。
一方でスターも生まれてくる。
ストーンコールド・スティーブ・オースチン、ザ・ロックの台頭だった。

とにかくこの作品を見ると、トップのポジションが空けば「誰かがそれを埋めに来る」という自然現象とも言うべきことが常に行われているということに気付かされる。
トリプルHが座るべき玉座に、トリプルHが謹慎したことでオースチンに白羽の矢が立つ。オースチンは観衆を手玉にとるアドリブ力に長けていた。
聖書を引用していたジェイク・ロバーツをモジったオースチン第3章16節。聖書の取り扱いは慎重にしなくてはいけない。
だがオースチンのセンスがここに極まると言うべきか。
一個一個のワードチョイス、間やタイミング。オースチンは抜群だった。
過激さを表現したECWでそのセンスを垣間見せていたオースチンがWWEに移籍して一気にハネた瞬間だった。
「ファクター」と「間」が噛み合った時に、観客はここまで心理的に操られるのかと思わされる。意図していないところにスターは生まれる。

逮捕歴のある曰くつきのマイク・タイソンの起用もオースチン爆発のファクターになった。オースチンはタイソン相手にも一歩も引かなかった。格下に見られない振る舞いを終始していたのが映像でもわかる。

圧倒的なスター性を感じさせるザ・ロックも誕生する。
ロックは「こんなことを言ってみたい」と都度、首脳陣に自ら提案をしていったことが本人から語られている。本人のアイディアが本人の才能を開花されるファクターになることもある。

WCWに移籍したスターたちに代わるキャストが誕生し、アティチュード路線がハマっていった。
WCWのnWoはマンネリ化していき、WWEのDXが支持されていく。
人気のチームが出来れば、もう一方でそれを意識するチームが出来る。
新鮮さと過激さの闘いが月曜視聴率戦争で展開される。

さらにビンスは自分自身をピエロにする才能を持っていた。
悪のオーナー、Mr.マクマホンに扮してストーンコールドと抗争していく。
会社の上層が殴られる。世間はそれを求めていた。偶像なのか実像なのか分からない「Mr.マクマホン」はこの作品のタイトルにもなっている。

引っ張れるスターの台頭と過激な路線でライバル団地WCWを買収してこの視聴率戦争にビンスは大勝利します。
チャーター機で派手に打ち上げをしては次の日には日常業務に戻っていた。その狂気性が何気なく明かされてくる。
ビンスは余韻に浸ることなく、次へと次へと移行していく。そのスピード感が凄まじいです。

アメフトに進出して失敗したことも描かれます。バックステージの様子を見せたり、選手のキャラクターを際だたせたり。手法はWWEの経験によるものです。
しかし試合内容が酷かった。大コケをします。手法だけスライドしても、内容やクオリティが良くなければ観客は離れる。ショービジネスの根幹を垣間見ます。

そしてこの時代の過激路線が、身から出た錆として後に様々な訴訟となる要因になっていきます。
ビンスの下半身のスキャンダルというのは主にこの時代の価値観から生まれた錆だと感じました。
不倫、家族間抗争、娘の結婚など全てをネタにしていく商魂が凄まじい。

娘のステファニーがリング上のキャストに登場するようになりますが、「アバズレ」と観客にコールされるようになるのは今、思えば正気の沙汰ではありません。
ステファニーも当時のことをインタビューで答えますが、やはりこの人はビンスの娘なのだと感じる要素が多分にあります。

妻、リンダの目の前で他のキャストとキスをする展開など、気が狂ってることを展開していました。
リンダ、シェイン、ステファニーなどがどう感じていたのかが語られます。私はそれを作り物として提供していても、当人たちに何らかのショックがあったのだと映像を見ながらに感じました。

息子であるシェイン・マクマホンのエピソードは最もグッとくるものでした。
凄まじい家父長制の中で、父に認められんと、時に共闘し、時に自ら対立してリングに上がる。
高いところから落とされたり、ガラス片に投げられたり、凄まじい受け身を取ることで、観客の興奮を引き出したシェインだが、その根底にあるものは「父親に認められたい」というマクマホン家の呪縛である。
ステファニーとの性格の違いが家業を引き継げないファクターとして上がる。
ボスが優しければ、それはつけ入れられる。ボスは非情な性格でなくてはならない。
ビンスはそれすらもリングでネタにしていく。
ファミリービジネスではあるが、あまりに過激なファミリービジネスをしている。
WWEを引き継ぎたいのであれば、私を追い出すしかない。ナイフを渡して、それで私が刺せるのか?と問うたとエピソードが語られるが正気の沙汰ではない。
シェインはマクマホンファミリーの中で良心が最もある男なのではないだろうか。優しい顔に見える、シェインの複雑な心境を語るインタビューに感情が揺さぶられる。

オースチンは自身の扱いへの不満と、負傷によってあっさりとリタイアしたのも非常にクレバーな幕引きをしたのだと感じますし、ザ・ロックも映画界に活躍の場を移行しました。
この二人は特に自身の価値をキープしたまま、体がぶっ壊れていない貴重なスターだと感じます。

オースチン、ロックの不在で新たなスターを作らねばならない。
そこで全く色がなかったジョン・シナが巡業バスで披露したラップをリングでやったら大ウケだったというのもいい話だ。何が人気になるキッカケになるか分からない。スターがいなくなれば、また新たなスターが現れる。そうしたショービジネス自然の摂理を垣間見ます。

演出の不慮の事故で亡くなったオーエン・ハート。
家族との無理心中をしたクリス・ベノアの死にも向き合う。

オーエンが亡くなった後に番組を続けるべきだったのか。
ベノアの一家心中は頭部のダメージによることが原因なのでは?と様々な知見での検証と視点の交錯がなされる。
プロレスによる痛みを多角的に見つめさせる。頭部から落とされる技が連発するモンタージュは、それだけ身体にダメージが残る職業なのだという印象を与えるに十分な説得力を帯びている。
とても恐ろしくなりました。

ビンスは役柄と自分が混同していく感覚になるというエピローグ。

私は『ジム&アンディ』というこれまたNetflixで見られるドキュメンタリーを思い出した。
ジム・キャリーが役柄に入り込みすぎて、元の自分に戻ってこられなくなる映像が挿入された衝撃的なドキュメンタリーだ。

ビンスはMr.マクマホンとビンス・マクマホンは違うものだと一貫して言い続けている。
しかし他の出演者はそれが同一化していると口を揃えて言う。自意識と他者からの視座が異なりすぎている。

虚実皮膜、その光と闇を入り混じりながらも現在はアップデートされた価値観と人員とビジネスによって今も存続されているWWE。このアップデートと価値観の刷新の改革を行えたことが素晴らしいと感じます。
と、同時に性加害をはじめとする過去のやり過ぎた表現については改めて別の考察や検証が必要とも感じます。

「事実は小説よりも奇なり」とのことわざがありますが

鑑賞後は現実でもなければ小説でもなく、そのどれもが入り混じったこの世界にしかない彼岸に着地させられるような感覚です。

私は学生プロレスのドキュメンタリーを取ることで、映像作家のキャリアをスタートさせました。
プロレスが題材だったからこそドキュメンタリーを選択できたし、プロレスがドキュメンタリーとして扱うに相応しい題材だったからこそ、もっとドキュメンタリーが好きになりました。
自分の出自を垣間見て考えても、この魑魅魍魎の世界に魅せられた身として異論はあれど、この作品が今年のNo.1だと感じました。

追記
見終わってしばらく感じるのはビンスの存在がタブー化していることに必然があることです。

日本ではジャニー喜多川の存在はもはやタブー。国内のジャニーズ出身者の多くは彼の性被害に関することに口を閉ざしました。ジャニー喜多川を取り上げることが出来たのは英国BCCという海外メディアです。つまるところNetflixのドキュメンタリーチームという報道機関が言わばプロレス側の人間でないからこそ切り込めた着地点にもなっているというのがミソだと感じます。

この作品は踏み絵にもなっている。
ビンスの創り上げてきたプロレスに興奮してきた自分に楔をするような感覚がある。ビンスに向けられた刃がこちらにも向けられていく。

蝕まれたレスラーたちのその裏側の感情を想像したのだらうか。酷使する肉体に「もっとやれ!」と願っていたのではないか。同罪とは言わない。しかし罪の意志が降りかかる。改めてプロレスのビジネスは因果なエンターテインメントスポーツである

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