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純文学の純は純喫茶の純理論

文学と純文学の違いは、


喫茶と純喫茶の違いである


と 整理するとわかりやすい。



そんな時、


喫茶にする?それとも純喫茶?


という、あの、対決の時のレスラー仮面(ボギー)のポエムの素晴らしさ、深さがわかってくるのである。あれは、


喉乾いた?お腹すいた?じゃあその即物的な欲求を満たそうか?

=喫茶にする?


それとも、

私と、内面をさらけ出しあい語り合ってくれる?

=それとも、純喫茶?




そういう、言葉にならない相手への気持ちを、相手が自分のことをどうおもっているのか、それを知りたいんだという欲を、店選びというシーンにかこつけて憚りながらも口に出した、それも端的な台詞で表現したものであり、


だからレスラー仮面渾身のポエムたりえ、敵を感動させ得ているのである。


※いや、これ言ったのジャガーさんだっけ?あと例文対決だっけ、ポエム対決だっけ?そこは忘れました、すみません。


詳しく言うと、


純喫茶というのは、喫茶としての純粋性・環境としての芸術性を極限まで突き詰めたものである。

その俗世からの超越故に究極の自然たりえ、つまり純喫茶はどこまでも主体を浮き立たせる背景たりえる。


その結果、


純喫茶は、客、つまり主体としての人間が自己に向き合う、あるいは連れ(大抵は親友や恋人)に向き合うという場を提供するものとなっている。



純文学も、この、客(読み手)に全てが委ねられるという意味では全く同じだと言えよう。


あなたのこれまでの、感動にうちふるえた、純文学の読書体験を思い出して頂ければ、この、純喫茶の純は純文学の純理論はご理解頂けると思う。



ところで最近純喫茶というのはとんと見かけない。


おそらく今ロンハーマンカフェとかニコライバーグマンカフェとか、そういうおしゃれカフェがかつての純喫茶に市場的な意味で取って代わられているのであって、


まあそんなとこには行ったことがないのでよくわからんが、おそらく、かつての若者が純喫茶に足繁く通ったのと同様、コロナ前はおしゃれな若者たちが通っていたのだろう。


そこにいることで、純喫茶がそうであったように、客の心に何か優しいことが起きるのであろう、美しいものが去来するのであろう、と、思っている。


しかしそもそも純喫茶にも行ったことはない。外観をみたこともない。




したがってこれらは全部想像で書きました。ハナミズムに対するアンチテーゼだ!みたいなことを言いたかったんです。おしまい


2021.3.7一部誤記修正 風呂上がりだらだらタイムに一気に書いたんで抜け漏れダブり等ありました、はんせい

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