人間失格という言葉について
太宰治氏の作品数編と坂口安吾氏の「不良少年とキリスト」を読んで
注意として、
・専門家ではない。
・評論家でもない。
・太宰氏についてさほど詳しくもない。(表題にしている「人間失格」の内容も詳しく覚えているわけではないなど)
そんな人間が、ただ、太宰治という人がこういう人だったんじゃないか、と自分と重ねながら思ったことを書き連ねただけのものになります。大した発見はないと思います。ただ、太宰氏がこんな人だと感じるから、私はこの方が好きだなあ、というしみじみした思いを綴っただけのものです。ご了承ください。
私は、太宰治という偉大な文士を、近しい者に感じられる。一部分、一側面だけであると冷静なる私は判ずるが、それでも、何だかその振る舞い、思い、言葉について、私は自らのこころの最奥に存在する小さなものと同じものを見てしまうのである。
私は時折、死を夢見る悪癖がある。自らの価値がこの世の何物にも劣ると感じ、無価値でありいっそ邪魔物であると、己を排したくなるのである。
太宰氏が真実何を思ったが故自死を試み続けたのか、それは私には永遠分からぬことではあるけれど、きっと彼の人のそれもまた発作じみた、他人からすれば取るに足りず、そして当人にとってさえ、過ぎ去ってしまえば同じように取るに足りぬ類のものであったのだろうと予想している。否、夢想している。偉大なる者を己に重ね合わせ満足したがる卑しき己の夢想である。彼の人は玉川にて情死を遂げたが、これが失敗していればまた、それまでのように数々の作品を発表していたのだろうと思う。死ねなければ生きる他なく、彼の人の場合生きる為には書かねばならぬ。そうして親しい者に莫迦めなどと言われながら生き、また発作を起こして自殺を試みるということを繰り返していったのだろう。
彼の人はコメディアンであろうとしたがそれになりきれなかったと、坂口安吾氏は「不良少年とキリスト」にて語った。
これこそが、その差、その理想と現実の隔たりこそが、彼の人の苦悩で、「失格」たる所以なのではないだろうか。私は「人間失格」をぼんやりとしか覚えていないため、(そりゃそうだろう)(そんなわけないだろう)様々あるかもしれないが、私はただ書き、語りたいだけである。私は研究者でも、評論家でも専門家でもない。ただ、昔から文字と、そこに映る愛しい(カナしい)ものを愛するだけの凡人に過ぎない。しかし、私は太宰氏を「あたりまえの人間」と評した坂口氏の言に大いに頷き、己を重ねては語りたくなるのである。
人を苦しめるのは、結局のところ“理想”というものだと私は固く信じている。私の悪癖が顔を出すのは、いつだって「本当は今ごろああしていたはずだったのに」という、“理想の自分”を思い描いた時だからである。人から言われて苦しむのも、結局はこの“理想”との差を指摘されていると感じて苦しんでいるのである。
「もっとできるはずだった」「もっと有意義に過ごせた」そういう理想と現実との差に、“居もしない理想の自分と比べて不出来な己”を感じるのである。そうして己に失望して卑下して落ち込んで、その後は己への攻撃を始めるのである。私が考えるに多くの人は一定の攻撃を終えれば快方に向かうのだが、どうにも――私はこの性質を“生真面目”あるいは“頑固”と称すが――この性質を持つ私などはいつまで経っても気が済まず、かくなる上は自らを消すしかない、とまで思いつめるのである。
夢を見るだけ、或いは現実を見るだけのどちらかだけならば、またはほどほどに妥協すればよいというのに、私は酷く夢想家で、だというのに正しく現実を理解できてしまうから、その上で夢を取ってしまては自死の概念にとり憑かれるのだ。
太宰氏を不良少年と称するのには全く同感で、彼の人や私は精神的に未熟なのだ。理想を持つくせに、己の力量を無視してしまう。けれど現実もある程度見えているから、己の不甲斐なさを恥じる。またもともと無理をしているものだから調子も何もなく、梅雨から真夏にかけての天候のように不安定だ。
太宰氏の理想は(坂口氏の言が真実ならば)“コメディアンであること”だったのだろう。それも、彼の人の場合“真の”や“完璧な”、ひょっとしたら“他の人と同じような”なんて枕詞が付くようなものだと考える。根拠はくだらない、私の理想にもそういった枕詞をつけたくなるからである。具体的に、その枕詞には何が含まれているのかというと、簡単なことだ、“常に”と置き換えればよい。
彼の人はきっと、“楽しいひと”でありたかたのだろう。「楽しい」というのは、「満足している」ということである。詰まらない気持ちの時に何をしてもパッとしないが、前向きとか明るいとか満たされているとかの時は何があっても楽しかったりおおらかであるものである。
自分でも、周りから見ても、「楽しくて満たされて哂っている」、そんな自分を夢見ていたのだろう。
コメディアンとは笑わせる者で、笑うとは最も単純な幸せの形である。自分も皆も笑って幸せ、今ではフィクションにおいてさえ希少なほどの大団円。そういったことができたら。そんな若き(或いは幼き)理想を抱き続けたのではないか。それは良識であり、最善の形そのものである。
――おれは元気だヨ、幸せだヨ、心配すんな、ほら、お前も笑え。
と、苦しさを隠して笑って見せるような不器用で弱虫な優しい少年こそが、太宰の本質なのだと、そうだといいと思っている。
彼の人が死んだのは、“理想”に負けたからだろう。再び坂口氏の言葉を借りるが、人間は決して勝たず、ただ負けないのだ。それが限度であり、そのくらいがいい塩梅なのだ。
理想に完全に勝ることなどできはしない、それができるのは本当の神とやらであって人間ではない。
かといって、負けることは死である。生きるには戦い続け、往生するまで戦い切れば喝采だ。それ以上を求めるものは、それ以下となり最後には消えるだけだ。利口で賢明なる人々は、それを分かっている。しかし我々のような者は、愚か(坂口氏曰く「まっとう」)故にそれ以上を求めては疲れそれ以下になり消えかけることを繰り返すのである。
結局のところ、成長とか発展とかいうものにはこれが必要なのかもしれない。ただ、大いなるものを求める者は大いに疲れ、己を知る成熟した者は自己の器量の範囲でやりくりする事に優れており、疲れても立ち直りが早いのである。要はふり幅の問題である。ふり幅の大きいものを人は躁鬱だと言う。決して、ふり幅が大きいから大成するというものではない。コツコツやる者も精進を続け、それと時運が合致すれば大成するのである。努力し続けた人は最後満足できずとも、それは時運のせいであり「間が悪かった」ただそれだけなのである。
太宰氏は大いなる理想を求めた。そしてその理想を常識であると思ったのではないだろうか。少なくとも私は、他者の苦労や負の面を詳しくは分からないから、誰もかれもが常識人で大層偉く見え、その善い部分が普通と思い込むのが正せないでいる。
もちろん、他者にも悪い部分があることは知っているし理解もしている、しかし、それは私の嗚呼間に永住しないのだ。これは性善説を信じている故、或いは愚かさ故としか思えない。騙されてもけなされても、時が流れてふと気が付けばまた関わろうとしてしまう。つまり、私の頭はお花畑なのである。常の私は、悪い事を考える頭がないのである。ふと懸念を抱いても、すぐさま花の匂いで誤魔化し誤魔化されてしまうのである。ひょっとすれば、「走れメロス」などのユーモア溢れる作品が生まれた時の彼の人の心情はこんなものであったかもしれない。
閑話休題。
とにかく、太宰氏は大いなる理想を己の常の姿とするべく生きた。諦めようとしても、一度どこかへ置いていても、ポンッと現れてせっついてくるのが“理想”というやつである。そのくせ、自分から歩み寄って来てはくれないのである。そうして開いた間の大きさこそが、己に返ってくる苦悩の多さとなるのである。
「人間(他者)」にはできるものができない、どうしても詰まらない、こんな自分は人間ではない。人間になるための試練を受ける資格すらない。“人間失格”だ。
……と、こうなるのである。いや全く、上手い言葉だとつくづく思う。
結局のところ、生まれたての人は「動物」であって「人間」ではないのだと思う。人は皆、「自分の思う人間像」に成れるようにしているのみである。他人から見れば十分に人間で、それ以外の何物でもないとしても、当人からすればまだまだ「人間」ではないのである。故に「人間」でない者、「人間」を名乗るに足らぬ未熟者。それこそが「人間失格」という言葉の意味だと、私は思うのである。
だからこそ、苦悩する人々は彼の人に共感し、彼の人を愛するのだろう。まだ「人間」に成り切れぬと苦悩する我々の先輩として、彼の人の著作、そして彼の人の人生は寄り添ってくれる。
人よ、人間失格であれ。人間に成る為に生きて戦え。その戦いの果てにこそ、「己が人間であった」、そんな事実が残るのだ。