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ひとりに慣れることから始まる隠居生活の戒め!

「ひとりを楽しむ」というテーマを何度もこのNoteで戒めているのは、そのことについてまだまだ悟るまでに至っていないからだ。
サラリーマンとして組織の中で揉まれて生きた期間が長かったことも、ひとりに馴染めない要因なのなのだろうかと思ってしまう。


孤独を楽しむ最後の人生とは?

ひとりと言っても私の場合は夫婦二人で生活をしている。
理由は様々でも知人友人の中には完全にひとり暮らしの人も少なくない。
その点私は強い孤独感を持っているわけでも人が恋しいと言うわけでもない。
ただ日常の中でひとりの時間が長いというだけだ。
その長い時間をどのように過ごせば、最後の人生に相応しいのかと考えているだけだ。

孤独を感じる時

定年退職と同時にほぼ全ての人脈がリセットされたのは、生きるための仕事に必要な人脈だったからに相違ない。
隠居生活に入ればそれらの人脈は必要なくなったというより、その人脈の誰もが私を必要としなくなったということだ。

先ずはそのことを受け入れ、その後は多くの人脈を宛にせず、そしてまた宛にされずに生きていくことが望ましいのだろう。
既に数年そんな生活を送っているのだから今更自覚するまでもないが、さもしくもいまだに心のどこかで多くの人と繋がっていたころの楽しさを忘れられずにいるようだ。

人生をさかのぼると私はこども時代も孤独だったはずだ。
世代的には珍しいひとりっ子だったからだ。
今の時代ならひとりっ子も珍しくはないが、私がこどものころひとりっ子は周りににいなかった。

既に記憶はないが家ではいつもひとりで遊んでいたはずだ。
それでもうっすらと記憶に残っているのは、同年代の友達がいた隣の家に毎日のように遊びに行って帰る時の寂しさだ。

そう考えるとこれは高齢者の退行の始まりなのかもしれない。

見極めなければならない自我

営業職で人生を送ったというだけで、私は元々社交的な人種ではない。
小さい頃は人見知りをし、人格形成が確立された年齢に達したころも表に出ることはなかった。

しかしそのおかげで大きなトラブルもなく人生を歩んでこれたと言ってもいいだろう。
人にはそれぞれ生まれ持った性分や、生まれ育った環境で芽生えてくる自我があるはずだ。
これまでもそんな性質から外れることなく生きてきた。

もちろんこれからも同じような生き方をする方が楽に生きることができると考えるべきだ。
そう考えればひとりで孤独な日常が私には似合っている。

もくもくと孤独に何かに打ち込む人生だ。
それなのにたまに違う人格が表れるように心をざわつかせるのだ。
もうどんな情報にも惑わされる年齢ではないと思っているが、実際は偶然目にする短い言葉にも影響されているのだろう。

だから自分の心に違和感を感じた時は、一度立ち止まって戒めることも必要だと思っているのだ。
最後の人生を楽しむためにも度々自分を見つめ直したい。

受け入れることの重要性

自分の現状を受け入れることは人生を楽しむ上では重要だ。
しかしそれは簡単ではなかった。

自分が隠居生活を送っていることすら最近まで受け入れることができなかった。
それなのに受け入れなければならないことは多くある。
例えば自分の能力だ。

孤独と同時に自分の能力を受け入れれば、未来に期待することもなくなるからだ。
サラリーマン時代の能力は私だけの能力ではなく、多くの人脈による力も大きかった。
社交的ではなかったが、前に出ようとしない私なりの性分が与えてくれた多くのご縁によって得た能力だったのだろう。

自分ひとりの能力は思っていた以上に小さいということを受け入れ、変化の見えない日常をコツコツと楽しまなければならないと言うことだ。

「希望を持って期待せずに」を肝に銘じなければならない。
希望は長期、期待は短期という尺度から成る言葉だ。

あくまでこれは隠居生活を送る私自身への戒めだ。

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