親の認知症の苦難から抜け出せたのは!
この前も書いたが私の50代は人生で最も大変だった。
子育ても終盤で、経済的に大変だったことに加え同居の母親が認知症になったからだ。
大変だったのは経済的なことだけではなく、精神的にも追い込まれることになったからだ。
母の認知症は人生最大の試練だった
当時は「この先俺の人生はどうなるのだろう」と思っていた。
母の認知症を通して家庭内で何度も事件が頻発し、私たち夫婦の危機でもあった。
母の認知症初期
同居していた母が認知症になったことで問題は起きたが、それは今だから母親が認知症だったと言えることだ。
私には兄弟がいないので親の責任は一人で追わなくてはならないと考えていた。
三人の子育てがやっと終わりかけた頃に問題は起きたが、その後認知症になった母親と同居するということがどんなに大変なことなのかを思い知ることになる。
認知症だという診断が下されたのは母が少しおかしいと思いかけてから何年もしてからだ。
認知症は少しずつ進行していく病で、特に最初のうちは分かりづらい。
認知症にありがちな、ものがなくなったり被害妄想が少しずつ激しくなっていったのは、おかしいと思い始めてから数年経ってからだ。
それまでの事件は非常にわかりずらい、世間ではよくありそうな嫁姑問題などが多かった。
例えば母が自分の兄弟に電話をして嫁の悪口を言うといったことだ。
嫁の悪口だけではなく息子である私にも徐々に風当たりが強くなっていった。
それまでは近所でも嫁の悪口は絶対言わないという信念を持っていたはずだったにもかかわらずだ。
認知症と診断してもらうために
「これはやはりおかしい」と思いかけたのは被害妄想が強く表れてからだ。
畑に置いていた農作業の道具を取られたと、近隣の人の実名を上げて言ったものだから私も黙ってはいられず母を窘めた。
被害妄想は徐々に激しくなり、とうとう「前に貸した着物を早く返してくれ」と近隣の人に直接電話をしてしまった。
たまたまその家が親戚だったこともあり、私が謝ってその時は事なきを得た。
もう放っておいたら何をしでかすか分からない状態だと思い、病院で認知症の検査をすることにした。
それまでも行きつけの医師に相談したことはあるが内科だったこともあり、もう少し様子を見ることを勧められていた。
この時母を連れて検査に行ったのは脳神経外科だった。
そして診察室に通され問診が始まる。
医師は母を座らせ、その後ろに立っていた私を見て「お母さんの様子はどのような症状ですか?」と尋ねた。
私は「えっ?」と言ってしまった。
本人を前にして「母の被害妄想が酷い」などと答えられるはずはないだろうと思った。
私は母の血圧が高いことを理由に検査をしてもらうと言って連れてきているのだ。
そして診察前の問診表には認知症の検査をしてほしいと書いていたはずだ。
私が戸惑っている様子を見かねた年配の看護師が「お母さんはこちらで血圧を測りましょう」と言って母を部屋から連れて出た。
この医師は認知症の患者を知らないのだろうかと疑ってしまったほどだ。
検査は簡単な問題を出して記憶が正常なのかを測る程度のもので、血圧の方が問題だという診断だった。
その記憶テストから判断すれば、まだ認知症だと結論づけるには及ばないといった診断だった。
母がほとんど間違わずに答えてしまったからだ。
私は「それでは困る」と医師を説得した。
もちろん被害妄想で起きた事件のことも話し明らかに普通ではないと訴えた。
何とか認知症だという診断書を頂いた私は近隣の家々を回った。
「母は認知症なのでご迷惑をかけるかもしれませんがよろしくお願いします」といった周知のためのご挨拶だ。
私たち夫婦は共働きだったので、母一人家にいて何が起こるか不安だった。
後で考えるとこの時ですらまだ認知症初期だった。
認知症中期に入ってからの事件
母の認知症は徐々に進み事件も多くなった。
「鍵がなくて家に入れないとお母さんが困っているのですぐに帰ってきて」と近所の人から電話が入ることも度々あった。
家に帰ると母が引き出しという引き出しを全部引っ張り出してもの探しをするようにもなっていった。
被害妄想で作り出された犯人が近隣の人から家の中に変わっていった。
犯人が家族になってからはものがなくなる頻度も上がっていった。
仕事から帰り探し物を手伝って何とか探しあ当てても、犯人が家族だと思っている母はまた違うところに隠すのだ。
なくなるのは現金、通帳、年金手帳、印鑑などだ。
知らない間に銀行に電話をして通帳を再発行していたり、年金が振り込まれていないのはなぜだと怒ったりしていた。
事情を知らない銀行員が困って支店長に報告し、たまたま仕事で面識のあった私に電話してきたのだ。
そのうち毎日時間に関係なく何かがなくなるようになった。
深夜2時とか3時に探し物を始めるようになり、探し物が出てこなければ二階で寝ていた私たちを怒鳴るようになった。
ちょうど年齢的にも仕事の責任が重くなりストレスをためていた時期だ。
そのうえ睡眠不足も重なり精神的にも限界が近づいていた。
そんな時に起きたのが以前も書いた「すぐに帰ってきてー殺されるー」と言って妻が電話をしてきた事件だ。
その事件の1か月後に妻の髪の毛が抜け始めた。
強いストレスによる抜け毛だ。
妻は仕事にも行けなくなった。
ウイッグで対応したが最終的にはすべての髪が抜け落ちたのは上のNoteで書いた通りだ。
当然のように妻は家を出るといったが、経済的な理由から私はその望みも叶えてやれなかった。
妻がよく耐えてくれたものだとその当時のことは今でも感謝している。
認知症後期になって救われたこと
その後脳梗塞で倒れた母は入院した。
リハビリを終えても左半身麻痺で車いす生活を送ることになってやっと母を施設に入れることができた。
どれだけ認知症が進行していても五体満足では入居させてはもらえなかった。
この時に担当していただいたケアマネージャーの方には心から感謝している。
それまで担当して頂いた何人かのケアマネージャーとは明らかに違った対応をしていただいたからだ。
私たちの経済的事情も考慮して施設を探していただき交渉もしていただいた。
公的施設ではなく私立の施設を勧めていただいたのも私たちの状況に合わせた融通が利くからだった。
計算上母がこの先10年生きるとすれば、施設入居費は約2,000万円かかることになる。
そのうち母の年金で賄えるのが半分だから1,000万円は必要だ。
そのことも私の不安材料の一つだった。
子ども3人を私立の大学に行かせた後で余裕がなかったからだ。
結果的に母は施設に入居してから一年で亡くなった。
今考えると一年だったから何とかやってこれたのかもしれない。
親不孝な言い方をすれば、母は私たちのことを思って早く逝ってくれたのかもしれないのだ。
そして母が施設に入居してからの一年間が、今の私たちの幸せを守ってくれることになったと感じている。
施設に入ってから私が面会に行くと、母はいつも連れて帰ってくれと私に懇願した。
その度に私は嘘を言って施設を出たが、ある日外に出た私に施設の人が聞いてきた。
「お母さんが不安になった時、深夜によく女性の名前を大声で呼んでいるのですがその方は誰かなと思いまして…」
母はひとり息子の私ではなく妻の名前を呼んでいたのだ。
「頼りない息子よりも信頼できる嫁を頼っているんだろう」と家に帰ってから妻に話した。
誤嚥が増え食べることが困難になってからは私も優しい言葉をかけ、腰をさすってやったりした。
気丈な性格の母とは何度も喧嘩をし、特に認知症になってからは鬼になったような言葉も浴びせかけたが、母の人生が終わろうとする頃になってやっと親孝行の真似事ができたのだ。
精神的に追いやられた私も、髪を全部失くした妻も一時は認知症になった母を憎んだが、最後に優しい気持ちにさせてくれたのも母であった。
妻の髪も元に戻り私たちの幸せな今があるのは、母の最期の一年のおかげだ。
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