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自律とは「助けて」が言えること

エドカフェ  No.18  自律した子どもが育つ場づくり

自分でなんでもできるのが自律?

「自分で考えて自分で判断して自分で行動しろ!」というのは簡単。
裏に「人に頼るな。迷惑かけるな。しっかりしろ。」そういうプラスアルファがついてないか?
困ったとき「助けて」と言える受け皿があってこそ自分で考えて自分で行動できる。それこそが自律。

まわりを信頼してないと、「助けて」は言えない。
比べられない安心感の中で違いを認め合って尊重し合って対等につながってこそ信頼できるようになる。

「受け入れる」という言葉に敏感になった出来事

ある日大空小に重度の自閉、発達障害などいっぱい診断名をもった不登校の子が転校して来た。
その子が秋頃になって教室でみんなと1日過ごせるようになった。
「みんなといっしょに1日過ごしたよ。6年生この子をばっちり受け入れてるから安心して。」校長も何度も確認して「母ちゃんさぞかし喜ぶだろうな」と思いながら渡した連絡帳。
しかし母からは「”受け入れる”という言葉を見たとき、またいつ”お化けが出たー”と学校に行けなくなるか不安になった。」と返事が・・・。
先生たちは頭がーん!って殴られて地面の底何キロから這い上がれないくらいになった。

その子は1年生の2週間で学校行けなくなって、それから苦しい中裁判を起こして、裁判で戦いながら6年生のラストの一年で大空小に転校してきた。そんな苦しい思いをしてきた母ちゃん。
「受け入れる」ってわたしたち全然抵抗なく使っていたけど・・・。

その後「”みんなの学校”は障害のある子たちをたくさん受け入れている学校です。」ってメディアに書かれた。「受け入れる」はよい評価として使われていた。でも・・・
受け入れるの反対は?受け入れない。誰が?もともとあった集団。もともとあるものの中に違うものを入れてあげる。これが「受け入れる」
それから「受け入れる」という言葉にわたしたちは敏感になった。組織をまとめる側はあたりまえに使う言葉。でもこれは対等じゃない。受け入れる側と受け入れられる側に分断される。
それぞれが違ったひとりひとり。それが集まって集団になる。ここで自分がつくる自分の学校、みんなの学校が生まれた。
受け入れる受け入れないという意識ではなく、自分と違う相手から学ぶ。受け入れるとか理解するとかでなく、その友だちから学ぶ。知ろうとする。

「空気読めないのはどっちや?」事件

子ども同士は分かり合えるものを本来もっている。それを教師の指導が奪ってしまうことがある。大空小ではいっぱいやり直しをした。

ある日自閉症のゆうたと別の子がボールを取り合いをしていた。
「俺の出番だ!」と思った新任の先生がそこへいき、
「君、空気を読みなさい。ゆずってあげなさい。」と言った。
大空のあたりまえとまったく違ったあたりまえがぶつかった。
その子はボールをバーン!と床に投げつけて出ていった。ゆうたは「やったあ!」と言ってその先生に「大好き!」と言った。
そこにいた女の子たちが校長室に「校長先生出番!」と言いに来た。
「あの先生空気読めって言うけど空気読めないのはあの先生じゃん。」と。「あんたらなんで先生に教えてあげないの?」と言ったら「あの先生は大空に来てまだ1ヶ月もたってない。子どもに先生まちがってるって言われて明日休んだら困る。」「なんであたしに言いにくるの?」「学校中で1番年上だから。年上から言われるならまだましやろ?」って・・・。

このことが放課後職員室で話題に。
「それってぼくのことですか?」「ほかに誰かおる?」ってみんなで笑った。「大丈夫大丈夫。今から変われるから。」「こんな学校一年でやめてやる!」って絶対思っていると思った。一年たってもやめなかった。「なんでやめへんの?」「校長先生って人をいじめることに生きがいもってませんか?」
わたしらは何度も何度もやりなおししてこれがあたりまえの空気があるから子どももそうなる。

「お前空気読めよ」って「お前は健常児やろ?相手は障害児やろ?健常児は障害児に譲らなあかんやろ?」ということになる。先生はよかれと思って障害児を守ってやれと思って言う。ゆうたはその先生大好きになる。でもそれって違いを格差にして子どもに教えている。この子とゆうたを分断してるよね?こんな毎日。みんないっぱいやり直しをしました。

すべて職員室でオープンにする。一見新任の先生を非難してるようで、これ、今まで自分らもやってたよな。今の自分はどうやろ?わたしらこんなの何回やり直してたかわからない。そんな話をする。お茶を飲みながら。
「これでええんかな?」「うまくいきへんな。」そう思うから人の力借りられる。それが自律。「これでよし」って安定したら次にくるのは崩壊。

子どもから自律を奪わない大人になるには?

「ああしろ!こうしろ!ああでもない。こうでもない。」って先回りばかりする大人に限って、失敗したときは助けず「ほら見ろ!言うこと聞かないから。だから言っただろう!」となる。

「どう思う?」のたった5文字。これさえ出れば。
でも「どう思う?」って聞いておきながら「それはあかんわ!」ってつい言ってしまう。

この子がどうしたら安心するかはこの子に教えてもらうしかない。
「教えて」「なに困ってるの?」「私にできることある?」その子に聞くのが1番早い。ただ信用していない大人には言ってくれない。

いつもそこに黙っていてくれる大人。困ったらすぐ聞ける大人。

教える育てるはまず無理!
授業を機関車に例える。初任研で「運転手は誰?」と聞くとほとんどの若者が「先生」と答える。「子どもは?」「お客さん」と。
でも子どもが育つためには、子どもが運転しないと。先生は石炭をくべる係。でも気づいたら先生が運転しちゃってる。いつのまにか子どもはお客さんになっている。(正解はどこにもないのだけど・・・)

100人いたら100様。「教えて〜」って子や「いらん」っていう子や・・・ だから一人の価値観ではだめ。いくら経験豊富と言っても、未来の予測不可能な社会を考えたら、一人の先生にはノミの点ほどの経験値しかない。みんなで360度から見る。

今私としゃべって「オッケー」って元気に言ってた子が別の職員のところに行って、「あした休む」と言う。「なんで?」「校長の顔見たくない。」そんなことばっかり。ここで「ごめんな。迷惑かけて。」なんて思ってたら人が困った時「私行くで」ってならない。うまくいかなくてあたりまえ。そんなのみんなお互い様。そうやって補い合う。

一人で仕事はできないのが自己否定でなくあたりまえ。そう納得したら人の力を活用できるようになる。そう思える大人が自律した大人。
「一人で生きていけない」「できないのがあたりまえ」が大前提 

「教えない授業」ということばが一人歩きしてしまうとうまくいかない。
教えることがいけないんじゃない。「教える」ことで自律をうばってないか?が問題。
「ゆとり教育」のときもそうだった。「ゆとり教育」がすべてダメなんじゃなくて、ゆとり教育をうまく活用できなかっただけ。それと同じこと。

自律を阻むもの・・・きまり
例えば給食の3点食べとか、デザート最後説とか。
きまりを守らせながら「自律しよう!」なんて、子どもにしてみればやってられない!



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