第一回 神の在・不在

・・・第一回は「神が存在するか否か」についてです。
哲学の典型問題であり、カントのアポリアにも数えられていた気がする。さっそく行きます。


注意点:読者様には、以下の点を認知した上で読んでいただきたいです。

①筆者はほとんどの学問について高校卒業程度の知識しか有しません。
 →ゆえに、用語や学説の理解が拙い、または誤っていることがあります。
 →もし思うところがあれば是非指摘して欲しいです。
②社会通念・常識に反することも書きます。学問なので。
③かなり乱文です。(あくまでも暇つぶしなので)アイデアのメモやブレインストーミングに近いです。


<自説>
 正直、神など居てもいなくてもどちらでもいいと思う。(この「いい」は、「ありえる」と「許容できる」の二つの意。)そもそも、なぜ神の存在を問わねばならないのかを考える。すると、大体以下の場合に分けられる。

①倫理道徳・宗教の根拠として神を必要とする
②世界の起源の説明として神を必要とする

他にもあれば教えてほしい。

①について:

(はじめに) ①においては演繹的・帰納的に神の存在を証明しなくても、カントの言った「要請」のように、「存在すると仮定する方が有益」であることを証明すればよい。

 ①-a 神が存在すると仮定する。
 仮に神がいるとしても、ある道徳規範が神によって与えられたことは保証されない。例えば、神がいるとしても、預言者がその声を聞いたことは嘘かもしれないし、ましてや聞いた通りに聖典を書いたという保証もない。
 つまり論理上は、神の存在は道徳・倫理規範の根拠たり得ない。


 (補足)しかし、ここで神を「全存在の根源、全世界の創造者」ではなく、「我々が住んでいるこの宇宙の創造者」として捉えると、少し話は変わってくる。以下の段落では、神を後者の意味で捉える。
 神の詳細がわかれば、哲学や人々の世界観に間違いなく影響が及ぶだろう。というのも、何らかの方法でこの宇宙の創造者の姿を確認できたとすると、その特徴が、何らかの思想の根拠、ヒントになりうる。
 それが人に似ていたなら、私たちはおそらく客観的に(事実として)特別であり、かつ私たちは何かしら人間が思いつくような目的のために作られた可能性が高いといえる。
 それがカエルに似ていたなら、おそらくこの宇宙においては全動物は平等だとか、あるいはカエルは神の子だとか人々は考えるだろう。このように、神の発見は思想の根拠やヒントたりえる。ただし、こうした神の見た目や言動は自然科学によって調べられるものであり、哲学の仕事ではない。このことについては、次の「補足」で詳しく書く。
 また、既存の宗教の多くの聖典に世界の起源についての記述があるから、その答え合わせとして、神の存在やその特徴は各宗教の説得力を多少は左右するだろう。しかし哲学的な(厳密な)思考においては、それは偶然に過ぎないと懐疑できるし、また少なくとも神の在・不在、その特徴以外の記述については「答え合わせ」は成されないので、その説得力を(大いには)強化できない。


 ①-b 神は存在しないと仮定する。
 神がいないとしても、道徳や倫理の規範の根拠付けはできる。プラグマティズムであれ超人思想であれ、功利主義でもなんでもいい。

a,bより、神はいてもいなくてもいい(許容できる)

②について:
 大体、「神が世界を作ったのか否か」という意味の問いになるが、これがカントの言ったアポリアにあたると思う。いてもいなくても説明がつく。そもそも、世界の起源は無限に生成される概念である。たとえば、現在の宇宙を創造者Aがつくったとする(有神論的起源論)。しかしそのAは、偶然によって生まれたものとする(無神論的起源論)。ところが、その偶然が起こる場は、創造者Bが用意したらしい…… てな訳で、キリがない。考えても仕方ない問いであり、答えは「どちらでもいい(ありえる)」。


 (補足)上段の補足同様に、「現在我々が生きている宇宙の創造者」としての神を考えたとしても、これは自然科学の分野であり、論理的思惟のみで答えられるものではない。論理的思惟では、既存の知識を基に「論理的破綻がないか」しか確かめられない。超然とした概念は論理性を無視できるので、哲学では扱えない。ウィトゲンシュタインが言いたかったのもこのことかも(『語り得ないものについては沈黙しなければならない』)。こうした意味においては、神がいるということもいないということもありえる。



だいたいこんな理由で、神はいてもいなくてもいい。

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