スマホ依存症からの脱出 ( デジタル・ミニマリスト )
やはり僕はスマホ依存のせいで少しメンタルの調子を損ねている気がする。
仮に深刻なうつ症状が100だとしたら1ぐらいのレベルではあろうが毒は毒だ。
スクリーンタイムがそんなに長いわけではない。1日平均2時間も使っていない。
そのうち1/3程度は仕事関係のスクリーンタイムだし、もう1/3程度は必要なスマホ利用だと思う。だけど残りのパーセンテージが問題だ。
何が一番悪いかというとやはりSNSだ。具体的には今はよく使っているNote。ちょっと前は1日中趣味としてやっていたQuoraだった。
SNS利用はメンタルに確実に悪い影響をもたらしていると感じる。いいねが付けば一瞬は嬉しいが、次々に心は餌を求め、誰にも構ってもらえないときに毎回毎回痛みを感じる。
だが逆に全くSNSを使わず、自分の文章というものを世の中に残さなかったらどうだろうか。どれだけ頑張って生きても何一つ最後には残らない。そんな生き方も嫌だ。
もちろんゲーテやトルストイや村上春樹でもない限り、僕ら一般人が世界に何を残そうとそんなものは一瞬の彼方に世の中から忘れられてしまう。だが僕にはそれが耐えられない。なので「この世界に生きた証を残す」という自己満足の幻想に浸っているのだ。(せめて夢でも見させてくれ)
僕は昨日から、仕事終わりにはスマホを一旦家に置いて出かけている。タイムロッキングコンテナやスクリーンタイムの制限機能も良いが、一番良いのはやはりスマホを置いて出かけることだ。
そして前に設定した「二台目のオフライン・スマホ」でいまこの文章を書いている。インターネットにつながっていないスマホはなんとも穏やかで、依存症を発症させる要素なんかカケラもない。心安らかだ。
ホーム画面に戻ってもSafariもXもNoteもQuoraもない。清々しい気持ちだ。
そしていくつかの書籍を持ち歩いている。最近買った文庫「デジタル・ミニマリスト」も。
何故スマホに依存してしまうのだろう。
注目されたい
大事なことを人に伝えたい
孤独になりたくない
退屈や痛みを紛らわせたい
ドーパミン中毒にかかっている
デジタル世界の中で永遠に生き続けたい
さまざまな複合的な理由があるのだろう。
デジタル・ミニマリストには僕らがテクノロジーによって「魂を抜かれる」という表現がされている。
僕はデジタル・ミニマリストになりたい。ここで重要なのはミニマリズムというのは最小限主義のことであって、全くデバイス利用を根絶せんとするわけではないということだ。そもそも現代で土台そんなことは不可能だ。