エッセイはドヤ感で出来ている
エッセイは嫌いじゃない。
エッセイを書く人に憧れる。
僕もエッセイストみたいになりたい。
何気ない日常に、自分だけの視点で世界を見て、ウィットに富んだことを言い、人を笑わせたり、うならせるのだ。
だが多くのエッセイから多少なりとも感じるのは、ドヤ感だ。
人を笑わせてやろうとか、私はこんなにおもしろい視点て世界を見ています的なアピール感を感じざるを得ない。
たとえどんなに巧妙に隠していても、どうしても隠しきれない、その香り。
このドヤ感が少ければ少ないほど、優れたエッセイだと思う。だがそれが全くゼロのものにはお目にかかったことがない。
なぜエッセイはドヤってしまうのか? それが宿命なのかもしれない。
エッセイは「うまいこと」を言ってなんぼだ。うまいことを言わないとエッセイの役目を果たせないし、うまいことを言えばどうしてもドヤ感が生じる。
小説のように物語が訴えかけてくるのではなく、訴えてくるのは著者という個人だ。これもドヤ感の原因だ。
そもそも日本人はウィットやユーモアというものに慣れ親しんでいたい。なのでどんなにエッセイが上手い人でも、まだ背伸びしているのではないだろうか。
もしくはこう感じるのは、僕自身の羨望によるものなのか。