他人の言葉とじぶんのあたま。ショーペンハウアー「読書について」を読んで
先日、この記事を読んだ。
ショーペンハウアー「読書について」/自分の言葉で話すということ
気づけば、ぼくも「読書について」を読んでいた。
帰り道のカフェで、通勤途中の電車の中で、ぼくは自分のあたまと、少し距離を置けたきがした。ショーペンハウアー監督が、試合中にもかかわらず、ぼくを無理やりピッチの外に出して、「ほらほら、ゆうまくん、試合状況はどうなっていると思う?」と問いかけてくるようだった。
必死に自分でボールを追いかけていたつもりだったが、外からピッチを見れば、"他人"がいっぱいだった。他人の言葉で、他人の思考で、他人の「よい」でいっぱいだった。じぶんの頭で考えていないことを発見した瞬間だった。
読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。
「じぶんで考える」ことをしないことは、エネルギー的にも楽だし、「みんなの考えと一緒」という安心感もある。だけどそうやって、みんなと一緒の安心感の中で漂っていることは、日常の思考を他人任せにしていることになる。
ツイッターで、Facebookで、「いいね」「ぼくもそう思う」「そうだよね」「それは重要だ」、そうやって、外の言葉と外の思考で、埋め尽くされて、考えているようで考えていない。他人に、自分で考えることの代わりをしてもらっている。気がつけば、じぶんの仮説もなく、他人の仮説で、他人の言葉で理論武装した「考えたふり」ができあがる。
日常の思考を他の誰かに任せることには、まさしく「人生の主体性」を、じぶんではないよくわからない他人に任せていることに、他ならないのではないか! そのことに気がつき、愕然とした!
何かしたいと思う気持ちも、悔しいと思う気持ちも、もしかしたら他の人の目線なのかもしれない。だとしたら、ぼくの、じぶんのことばとは、思考とはなんなんだろうか。
胸がそわそわする。ちょっと泣きたい気持ちにもなる。
だけど、すこしだけ、じぶんのことがわかった気もする。
悩むのではなく、じぶんの頭で考え、行動したい。
そう思えている時点で、いい本に、よいタイミングで出会ってよかったと思う。ありがとうございます!
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