昨今の学歴vs中身バトルについて
皆さんこんにちは。
先日僕の在学する武蔵野大学アントレプレナーシップ学部(EMC)にwakatte.tvさんが訪れ、学部調査として1本動画を制作して下さいました。僕はwakatte.tvさんへのコンタクト等一切関与していませんが、友人が苦労してこの機会を創り出していたこともあり、公開を非常に楽しみにしていました。
そして2月10日、実際に動画が公開され即座に視聴。動画に映りたくなくて画角外に逃げ出そうとする自分が結局映っていたり、普段仲のいい友人や先輩・教授の方々が話していたりととても楽しませて頂きましたし、EMCの価値を改めて実感しました。これはEMCの素晴らしさを伝えられている!そう思いました。
しかし、現実はそう簡単ではありませんでした。
EMCへの賞賛という期待とともに閲覧したコメント欄では、むしろEMCやwakate.tvさんへの批判的なコメントが多いように感じました。以下その例です。
「案件じゃん」
「完全な馴れ合い」
「学部長がゴマすりしなければやっていけない学部」
当然肯定的なコメントもありますし、批判的というのは僕が感じただけでコメント主に批判する意図があったとは限りません。
ただEMCのいち学生としてはこれらのコメントに対して苛立ちを覚えました。お前ら裏で努力してた人間がいる事知らねぇだろ。EMCの価値・羊一さんら教授陣の想いを知らねぇだろ。何も知らないくせにお前らの尺度で彼らを推し量るなと思いました。
しかし冷静になって考えるとそのコメントが出てくるのも仕方がないのかなとも感じました。外部から見えるEMCの姿は限定的かつ動画として脚色されていますし、自分から見るEMCには内集団バイアスが働いています。実際EMCの悪い所なんていくらでもあります。
確かに見ようによっては案件に見えるし馴れ合いにも見えるしゴマすりにも見えます。というかそれもきっと事実の一部なんでしょう。実際wakatte.tvさんの知名度を利用して認知度向上やブランディングを図っているわけですしね。
といった事を考えたりして、これを深掘りしていきたい気持ちもあるのですが(また別機会に!)それ以上に僕はwakatte.tvさんとEMCの在り方に重なるなと思い”学歴vs中身”バトルについて今回の件も受けていろいろ考えたので、そっちの方を語っていきたいと思います。
僕は、wakatte.tvさんは前者寄り(の見せ方)、EMCは後者寄りの立場かなと勝手に思っていますが、実際の所それらはどちらが正しいとかではなくてあくまで物事を量る指標でしかないんですよね。この2つを同格として考えるのであればこれは1次元的な良し悪しの話ではなく2次元的な話。学歴という軸と中身という軸が完全に別物として存在している。と言えるでしょう。もっと言えばその基準は他にも数多くあり(立地・費用など)、それぞれの基準の解像度を上げれば新たな基準が無数に現れます。さらに不可抗力的な外部要因も影響してきます。だから大学選びは非常に複雑で不安定なものです。
少し話が広がりすぎてしまいましたが、要は学歴と中身という二項対立で考えている時点でズレているという事です。時には分析のフレームワークとして有効ですが、それを全てとしてしまうと浅い理解に留まってしまいます。僕の理解が深いとは言いませんが、少なくとも学歴vs中身としか考えていない人よりかは深まっているでしょう。何をもって深いとするかにもよりますが。
ちなみに二項対立だけで考えた場合は、僕は学歴を推します。比率は4:1くらいで。なぜなら社会に於いて高学歴である事のメリットが大きすぎることと、中身派でよく語られるなにを学ぶかが大事という論ですが、それで言えば高学歴にあたる大学で学べる事も他の大学同様唯一無二です。だからその論では偏差値基準の差異を示せていません。よって学歴推しです。
ただ、学歴推しの僕の学力は凡で大学も凡です。正直。これは僕が勉強を甘えた結果に他なりません。普通にバカです。
まぁ僕の話はさておきこの二項対立に関してはそんな風に思ってます。だから結論としては学歴も中身もどっちもいい方がええやん。というお話です。なんでそう互いを非難するのか。
多くの人に当てはまる理由としてあるのが、学歴→中身はマウンティング、中身→学歴は自己正当化ができるからでしょう。人は自分の選択を正当化する生き物で、それは自らの優位性=報酬で劣勢=被害になります。だから人は報酬のために、被害回避のために、自分を上げて相手を下げようとするのです。全然関係ないですが優劣って対義語なのに、優位性に対して劣位性って言葉は全然使われないですね。僕が言葉に触れてなさすぎてそう感じるだけかもしれませんが。
話を戻しますが、大学進学の議論に限らずそれは人として自然な姿なので批判するとかはないです。ですが、僕は大学名=自分の価値だとは思っていないのでそんな醜い争いからは抜け出すべきだと思っています。大学名はいづれ過去の自分の実績になります。「自分の」実績として評価されますが、過去の実績は「過去の」自分のもので、「今」の自分のものではないです。いつまでも過去に縋っていたら、今の自分を見失ってしまいます。というのが僕の考えです。過去に縋る事も意図的に選択できれば良いものだとも思いますがこの場合は足枷にしかなりえない。そう思っています。
しかし、二次元的に考えたとしてもその2つの軸は条件が違います。学力には絶対的なな上下が存在しますが中身にはそれが存在しません。中身の良さは完全に個人の主観に依存しており流動的なものです。そのためこう在るのが正解という絶対的な指標は存在せず、個人個人が自らの正解を創り出すことになります。二項対立だけで語る人はその理解も足りていませんね。そこで出る結論は絶対的な正解ですが、それはあなただけの絶対なのです。これは僕もそうですが、そんな浅い思考と議論をして答えを出せるはずがない。思い上がってバカしてるだけですそれは。
ですが実際問題学力等の社会的良さは普通に人間にとって実際とても良い道の一つです。なぜならその良さが即ち社会的評価に繋がるから。きわめて合理的な正解への道が、多数派で多くの人から支持される正解への道がそこにあるのです。そりゃあ良い選択になりえます。だから個人がこれを正解とすることが多いのです。この選択は他のどの選択とも同様に素晴らしい道の一つなのです。だから個性という言葉で否定されてはなりません。そもそも個性を謳いながら一つの在り方を否定するというのが可笑しな話です。
ただ、個性を謳う人々が言いたいのはそういう事ではないでしょう。それは「社会的正解=絶対的正解というバイアスを外せ」ということです。この点は僕も非常に共感できます。人は正解があるとその正解を絶対視し盲目的になります。正解の絶対化は軸を持てるという良さがある一方、悪く言えばそれは思考の放棄にあたります。社会的正解という正解に囚われ、思考を放棄することは、自己を放棄し畜群になるのと同義である。そんなことを言いたいのではないかと思いますし僕も言いたいです。というか、僕が言いたいです。
だからこそ「社会的正解=絶対的正解というバイアスを外せ」という論を僕は支持しますが批判もします(否定ではない)。これはあくまで僕個人の感覚ですが、彼らはこの論を絶対的な正解であると思っているように感じます。「人間は多様であって然るべき」という正解です。これは一見全ての個性を尊重できているようで特定の主義主張を絶対とする人々を排斥しています。いわゆる寛容のパラドックスです。
でもこの論の目的が論に沿った行動をさせる事ではなく、自らの進む先に対してより深い思考を促すことであれば、この論は間違いなく正解として機能していえるでしょう。とは言いましたが実際はこれが目的でその目的は達成されているのだと僕は思います。言語化されるとその背後にある無数の要素が集約され見えなくなってしまいます。だから安直な正誤や善悪の定義は危うい。でもそれをしなければ何も選べない。これは今の流れの話に留まらず、大学選択における善悪の基準ましてや人生全ての瞬間・事象に当てはまります。ここまでさんざん正解はないと言ってきましたが、厳密には正解がないことが唯一の正解なのでしょう。なんとも難しい話です。
などといろいろ語りましたが、つまり言いたいことは変わりません。絶対的な正解が存在しないのだから、自らの力で正解を創造しよう。自らの善以外の基準を外して考えてみろ。ということ。規模が大きい話になってしまったので大学進学の基準の話に戻しますね。
学力も中身も立地も費用も、それを細分化して見た英語力も国語力も数学力も、取れる資格も得れる経験も学べる学問も、全てただの基準にすぎません。そこに善悪の意味をつけるのは自分自身。その善の先に選ぶべき大学がある。というのが結論になります。至って当たり前の話です。
僕の場合はとにかく自由な事。制限されないことが善でした。だから社会のレール以外の道を知りたくて、最もいろんなものを見れる東京が善くて、定型的な座学を学ぶのが嫌で、今までの世界(高校時代はサッカー一筋)とは全く違う世界を見てみたくて、EMCを選んだ記憶があります。だから学力的に凡でも、社会的評価が高くなくても(正直EMCは評価されてきているがそれがなかったとしても)僕は僕の選択が正解だったと思っています。
自分語りになってしまいました。でも僕の話をイメージしやすくはなったと思います。結局は意味づけなんですよね世の中。究極世の中は何も無いというのが真理だと思ってます。もはや無いという言葉が適切なのかも怪しくて、虚無とか虚空とか無とかそこら辺の概念の究極体みたいなイメージ。でもそこに「在る」「無い」という概念が生まれて、「在る」には物質的に「在る」ものと物質的には無いけど確かに「在る」ものみたいな分解がされたり、という作業が繰り返されて様々なものに意味づけがされます。その結果が今の世界。そしてその解釈は個人に委ねられています。だから世界の姿は如何様にも代えられます。それは大学進学と同じです。僕の語彙が悪すぎて伝えられているか不安ですが、AIに聞いた感じ理解できてそうだったので、分からなければAIに聞いてください!
自分語りの次は哲学的な自論になってしまいました。こんな蛇足が続く前にそろそろ切り上げようと思います。構成とか考えず思うがままに書いたnoteなので、とても読みにくい文章だったと思いますし締めも適当ですが、最後までご一緒下さりありがとうございました。不定期ですがまた気が向いたときに投稿をしていこうと思います。それでは。