広島の機動力野球信仰のルーツとは?
野球ファンに広島の野球スタイルについて聞くと、ある程度知識のある方なら「機動力野球」と答えるのではないでしょうか。
それほどまでに定着した広島の「機動力野球」ですが、近年それが悪い方向に振れて出てしまっているように感じます。
それをとりわけ感じさせられたのが、昨年の日本シリーズでしょう。
ソフトバンクの強肩捕手・甲斐を前に6連続盗塁死と、不名誉な記録を樹立し、自分たちの野球は「機動力野球」でありそれを貫いて勝たなければならないと、意固地になってしまっている部分が表出してきています。
ここまで広島が「機動力野球」を信仰するようになったのには、何が起因となりどのような背景を持って今日まで時を経てきたのか、について本noteでは探っていきます。
1.起源
広島の「機動力野球」の起源を遡っていくと、球団草創期まで遡ることになります。
球団発足当初は、地元出身選手もしくは他球団から放出されたロートル選手ばかりでしたが、そんなチームにスター選手が加わったのが1953年です。
松竹の球団消滅を受けて、いまだにNPB記録であるシーズン161打点という記録を持つ小鶴誠と、前年63盗塁を決め盗塁王に輝いた金山次郎が広島へ移籍してくることとなりました。
スター選手の加入した広島ですが、それでもリーグ内では相対的に戦力のない状態が続いており、そのような局面を打開するために取られた方策が「機動力野球」という方策でした。
前年盗塁王の金山を中心に、小鶴も33盗塁も決めるなど、前年リーグダントツワーストの44盗塁に終わったチームが、リーグトップとなる174盗塁を決めました。
チーム成績も前年の6位から4位へと浮上するなど、一定の成果が見られ、ここが広島の「機動力野球」の原点になったと考えられます。
2.低迷そして萌芽
そのまま広島の伝統となるかと思われた「機動力野球」ですが、そうもいかなかったようで、1955年にリーグトップの盗塁数を記録した後はチームの低迷とともに盗塁数も低迷を迎えます。
日系選手の平山智や後に監督としてチームの黄金期を築き上げる古葉竹識など、俊足がウリで盗塁王のタイトルを獲得する選手もいましたが、チーム全体の意識としてはまだまだ薄かったのでしょうか。
その風向きが変わったのが、1968年の根本陸夫監督就任と考えられます。
この年に広島は創設後初のAクラス入りを果たすのですが、盗塁数も前年の66盗塁から大きく数を伸ばし104盗塁を記録しました。
そこから根本が監督の期間であった1972年途中まで、山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之ら後の黄金期を支える主力たちがよく走り、4年連続で三桁盗塁を決めています。
根本の監督時代に、山本浩二・衣笠祥雄らを鍛え上げ、1975年の広島初優勝時のチームの土台を築いたことはあまりに有名ですが、「機動力野球」の礎もここにあったわけです。
3.開花
根本の退任後は、1972年~1974年から3年連続最下位とチームは再び低迷し、盗塁数もこの間年々減少し、1974年にはリーグ5位の49盗塁にまで落ち込んでしまいました。
そんなチームを変えたのが、J・ルーツ監督でありその後任の古葉竹識監督です。
1974年のオフには、チームの抜本的な改革のために大がかりなトレードを何件も敢行していますが、その中の一件で地元出身で俊足がウリの大下剛史が東映(現日本ハム)よりトレード移籍で加入し、機動力を生かせるような体制作りが行われます。
また、ルーツは特に「機動力野球」を奨励しているような様子は見受けられませんが、古葉は自身が機動力を使えるようになったことで選手生命を永らえたことから、「機動力野球」を推進していきます。
以上のように、機動力を生かせる環境や選手が整ったところで、根本の築いた礎との融合が生じ、1975年にチームは劇的な初優勝を飾り、盗塁王を獲得した大下を中心に盗塁数はリーグトップとなる124盗塁を記録しました。
ここで「機動力野球」が大きな成果へと繋がったという認識が生じたわけです。
その後も、年によっては低迷を見せることもありましたが、古葉の見出した高橋慶彦や山崎隆造を中心に盗塁数は三桁を記録する時が多く、1979年・1980年・1984年・1986年の優勝の際には必ず盗塁数は三桁を数えており、「機動力野球」は広島の野球の一つの代名詞となりました。
4.再低迷そして復活
広島の野球の代名詞となった「機動力野球」ですが、古葉の退任後もそれは受け継がれ、阿南準郎・山本浩二・三村敏之が監督の時代にもリーグトップもしくは三桁の盗塁を決めています。
しかし、2000年代のチームとして大きな低迷期を迎え、それとともに機動力も低迷を迎えます。
主力野手の高齢化と、それに取って代わるような選手が出てこなかったが要因と考えられますが、この間は「機動力野球」は失われてしまっていたわけです。
その潮流が変わり始めたのは、2010年の野村謙二郎監督の就任からでしょう。
自身が俊足をウリにする選手であったこともあってか、監督就任時に「機動力野球」の復活を掲げ、チームの低迷こそすぐには断てませんでしたが、実際にリーグトップとなる119盗塁を決めました。
その野村政権の下で成長した、機動力を使える丸佳浩・菊池涼介らが十分な打力も身に付けた末に、2016年に25年ぶりとなる優勝を遂げ、かつ盗塁数も118を数え、見事に「機動力野球」の復活となりました。
5.歴史的に見る「機動力野球」信仰の要因
上記より、広島の「機動力野球」の歴史の変遷をたどってきましたが、広島の強さには機動力が共にあったことが分かります。
という点から、「機動力野球」信仰の要因としては、広島の強さの源泉が機動力にあると錯誤を起こしているのではないかと考えられます。
1975年の初優勝と、2016年の25年ぶりの優勝時の前年とのデータの差異を見ると、得点力が大幅に改善されており、強さの源泉はこの得点力という部分にあるのではないでしょうか。
日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめblogさんからデータをお借りし、一番右の得点力の傑出度を見ていくと、1975年の初優勝を境にして大幅に得点力は変わっていますし、2016年もそれまでより大幅に得点力を伸ばしていることが分かります。
得点力の改善の中には、当然機動力の向上という要素も含んでいるでしょうが、機動力だけで得点を奪うことはほとんどできないため、結局は打力の向上の方が得点増に寄与すると考えるのが自然ではないでしょうか。
確かに広島のチームとしての強さと機動力にはそれなりの関係はありますが、あくまで一要素に過ぎず、根本的には機動力を含めた野手力の傑出という点が強さの源泉であるという点は頭に入れておかなければならないでしょう。
最後に参考資料として、広島の年度別の盗塁数と順位をグラフ化したものを貼っておきます。