高校演劇が再び映画化!『水深ゼロメートルから』評論
今回は新作映画評論。
ということで、2019年に開催された第44回四国地区高等学校演劇研究大会で文部科学大臣賞(最優秀賞)を受賞した徳島市立高等学校の同名舞台劇を映画化した青春群像劇。
『水深ゼロメートルから』を見てきましたので、こちらの感想を語っていきたいと思います。
ここからはネタバレ注意!!
『水深ゼロメートルから』について
基本データ・あらすじ
基本データ
監督 山下敦弘
原作 中田夢花 村端賢志 (徳島市立高等学校演劇部)
脚本 中田夢花
出演者 濱尾咲綺 仲吉玲亜 清田みくり 花岡すみれ
あらすじ
青春とはいったい何か?
元々は高校演劇
今回鑑賞した『水深ゼロメートルから』は先ほど紹介したように、元々は徳島私立高校演劇部が2019年に第44回四国地区高等学校演劇研究会で披露した作品を、映画化リメイクした作品だ。
当時現役高校三年生で演劇部の中田夢花と、顧問教師である村端賢志が脚本を手掛けたこの作品は、その大会で「文部科学大臣賞」を受賞した。
本来であれば翌年、2020年の全国大会で上演される予定だったが、コロナウィルスの大流行で上演することが出来ず、苦肉の策として顧問村端が知人の映画監督とオンラインで協力し、映画として作品をYouTubeにて公開することで、世間に今作が知れ渡っていく。
ちなみに、こちらはyoutubeでも鑑賞できるので、今回の作品と比較しても面白い。
その後、商業演劇としてリブートされ上演されるなど、『水深ゼロメートルから』は高校演劇という枠を超えて、広く知れ渡っていく。
その後2020年の、こちらも高校演劇から映画化され話題となった『アルプススタンドのはしの方』に続く、高校演劇を劇用映画にリブートする企画の第二弾として、『水深ゼロメートルから』に白羽の矢がたつことになる。
という過程を経て今作は劇場にて上映されることになったのだが、ここから僕が今作を見て感じたことを書いていきたいと思う。
砂の積もる水のないプールとは何か?
今作は高校演劇が原作ということで、「青春とは何か?」ということを深く考えさせられる内容になっていた。
今作のメインキャラは4人の女子高生。
阿波踊りを子供の頃から踊ってはいるが、最近スランプになり踊れなくなったミク。
校則で禁止されているメイクをしていて、周囲の友達よりも少しだけ派手なココロ。
この2人は体育の授業で赤点を取り、補習を代わりにプールの清掃を山本先生に命じられている。
そして、水泳部だけど、なぜか部の遠征に参加していないチヅル。
さらに前水泳部部長のユイもここに加わる。
この4人が夏休みの水のないプール。
そこに溜まったプール横グラウンドから運ばれてきた砂を掃き取る清掃をしながら物語は進んでいく。
この設定からも明らかなように、おそらく高校演劇では、この「プール」ワンシチュエーションで物語が完結していたように思われる。
さて、今作はこの4人の女子高生が「青春」ならではの悩みを吐露し合いながら、進んでいく。
ミクは阿波踊りの「男踊り」を子供の頃から踊ってきたが、心境の変化から人前で踊れなくなってしまったこと。
ココロは「女性として可愛くありたい、だからメイクをする」
でも、それを校則で禁止されており、その締め付けに苦しさを覚え先生に反発する。
チヅルは水泳部でも実力者ではあるが、昔の水泳仲間である楠が、野球部に入り実力を発揮していく姿と全国大会に出れない自分を比較し、すっかり自信を失う。
ユイは先輩としてチヅルに再び水泳という競技と向き合ってほしいと願う。
基本的に今作品は「女性である」ということ、しかも高校生という多感な時期に発生する「悩み」を抱える問題を描いている。
そしてその根っこにある原因の一つとしてあるのは「男」と「女」の違いだ。
この作品の上手さとは、「位置関係」だ。
プールはグラウンドの隣にある。
グラウンドで主に「男」=「野球部」が練習する際、砂が舞い上がり、それが水のないプールのそこに積もっていく。
このプールを彼女たちの「心」とするならば、その「心」に積もる「悩み」「苦しみ」は「男」たちから運ばれてくるものとも言える。
例えばミクに関しては、すっかり女性になってしまった彼女が、男と同じようにサラシを巻いて「男踊り」を踊ることで、性的な好奇の目にさらされることが、踊れない原因として挙げられる。
でも「男踊り」を踊り続けたからこそ、それを諦めたくない。
このせめぎ合いで彼女は苦しむというわけだ。
ココロは、基本的に「女性は男性より弱い」ことを受け入れている。
だからこそ、自分の価値を高めるために「化粧」をして「女性としての価値を高める」ことで男性と互角になれるという考え方をしている。
チヅルは昔の水泳仲間である楠が、野球でメキメキと頭角をあわわしていくこと、それに負けているという劣等感を抱き、自分の努力がバカらしくなっている。
唯一ユイはチヅルとの関係性で、彼女は自分よりも実力のあるチヅルを気にかけている、そのことが大きな気掛かりであり、彼女自身の悩みの大部分は作中では描かれない。
しかし、演者である花岡氏は、だからこそ自由に自分で想像を膨らませる余地があったと語っており、確かに作中最後の彼女の表情から、彼女のプールに積もった砂とは何か? そんなことを想像させられる。
先ほどから繰り返しにはなるが、今作はそんな4人が水のない砂の積もるプールで互いの抱えるものを吐露し合い進んでいく。
そこに教師である山本が作劇にスパイスを与える。
特に中盤のココロと山本のやりとりは一つの見せ場だろう。
「校則」という縛りで、多感なココロを縛りつけようとする山本。
そこに負けじと言い返すココロ。
ちなみにこの場面、山本を演じたさとう氏は「勝敗はご覧の通り」とパンフレットで述べているように、完全にココロに論破されたと暗に認めている。
この山本というキャラも味わい深くて、確かに作品を見ていると、彼女が旧友と電話をしているシーンからも分かるように、彼女も彼女でかつては「おかしな決まり」には反発する、いわばココロと近しい存在であったことが描かれる。
だが教師として生きていくうちに、つまり「教師という立場」というものを演じていくうちに変化していったのだ。
ただ、この「メイクは禁止というルールだから守りなさい」というのは、確かに押し付けられているココロは、その理由が不明瞭だからこそ従えないと反発する。
これは納得はできる。
しかも高卒で社会人になった場合、今度は「マナーとしての化粧」みたいなことが平気で言われるようになる。
ただ、理不尽なルールというのは世の中にはあって、それこそ山本のようにサービス残業のような仕事を押し付けられる環境も、現実にはあるわけで。
それに対して反発をするより、それを受け入れる方向に心境をシフトさせることが、社会で生き抜く方法論として、僕には大人として、ある種の処世術としても理解できてしまう。
確かにココロからすれば筋は通ってないが、世の中には筋の通らないことがたくさんあることを突きつけるという意味で、そして悲しいかなそういう現実がこの先の彼女たちには待ち受けているのだ。
そういう意味では山本の全てのセリフはむしろ、これからの現実の縮図として大人には特に刺さるのではないだろうか?
そして、この理解し合えない価値観のぶつけ合いで苦しむことも、また意味のあることなのかもしれない。
「意味」と言えば、これも印象的だが、プール清掃に意味を見出せない4人。
つまりいくら掃除しても「グラウンドから砂がくる」だからキリがない。
これは、ごもっともだ。
ただ山本は「意味がないと思うから意味がない」と告げる。
(ちなみにこのシーン面白いのが、本来補習として掃除を命じられているミク、ココロがここにいないことだろう)
確かに「意味のないことに意味があった」そのことに気づくことが人生ではあるし、でもそれはきっと「今」ではないのだ。
そしてこの作品で描かれるやりとりの全てが「後に振り返り価値」がある経験として彼女たちの心に刻まれるのではないか?
意味は「後」にわかること
ここまで、作品を見ていて表面上で語られるやり取りを振り返ってきた。
特に「性差」「女性」というジェンダー的な面が表層上では多く語られる。
もちろん、これを当時の現役女子高生たちが書き上げ、演じたことは驚くべきことだ。
だが、この作品が本質として描きたいのは、そういうことではないのではないか?
つまり「青春」の悩みとか、心の落ち着きのなさ。
そこからくる他者とのわだかまり。
それらは決して「解決」することはないのではないか?
この作品で彼女たちはそれぞれに、自分の抱える「悩み」を打ち明けるし、ぶつけ合う。
だが、それらに明確な「答え」のようなものは出ない。
つまり作中で描かれる1日の中で、結局のところはお互いに納得してないし、分かり合えてはいないのではないか?
つまるところ青春とは「このプール清掃」と本質的には変わらない。
水のないプールに無制限に飛び込んでくる砂。
それら全てを取り除くことは不可能なのだ。
彼女たちの「心」に降り積もる「悩み」それらもまた、全てを無くすことはできなければ、その根本の原因を取り除けることでもない。
つまりプールで起きている現状のように、それらを取り除こうとしたとで、それらは不可能であり、意味がないことなのかも知れない。
それは「心」の「悩み」も同様だ。
それら全てを取り除こうとしても、その掃除のために語り合おうとも、結局全て取り除く事は出来ない。
先生である山本はある意味で、その「取りきれない」ことを受け入れている。
でも彼女たちは違う、それらを取り除きたいと願うし、それらに向き合おうとしているのだ。
それは今すぐに「意味がある」ことではない。
でも彼女たちの人生で、きっとこれから、この「プールでの時間」は「意味を帯びてくる」ことなのだ。
心に積もる、終わらない砂に抗い続けたこと、それは「後」には「意味がある」のだ。
「映画」としての凄み!
そしてこの作品のラストで、それら全てを洗い流すように降り注ぐ「雨」が降る。
これは舞台では決して出来ない、映画だからこそできる演出だ。
ミクは雨に打たれ、ここまで抱えてきた砂を一旦全て洗い流す。
そして力強く踊りの構えを見せる。
彼女がこの後、「阿波踊り」の本番で再び「男踊り」を踊ること出来たのか?
それは描かれない。
だけど、この場面ではきっと、一旦は悩みを全て洗い流すことができたのだろう。
あえてこの先の本番を描かずにこの場面で締めくくることにこそ、今作は意味がある。
この先、「踊れた」にせよ「踊れないにせよ」
この瞬間にミクが一旦悩みから解放されたこと、そのことには「意味がある」からだ。
もちろん、それがこの先にどう繋がるのかは別問題だ。
しかしながら、今作はこのラストまではは、ほぼ「プール」のワンシチュエーションで進み、舞台での作品の見せ方を何となくは想像できるように作られている。
もちろん映画かということで野球部の姿などは描かれるが、それもあくまで彼女たちから見れば背景として描かれているだけに過ぎない。
ただラストシーンは、ただ「舞台」を似たように「映画化」しただけではない。
「映画だからこそ」の演出になっており、ある種の強制的に「悩み」を洗い流す雨として機能している。
こうした言い方で正しいのかわからないが、そしてこれはいい意味でいうが、「雨」が降ることで、この作品の登場人物ではどうしようもない、強制力として「雨」が降ることで映画として綺麗にまとまったようにもみえる。
ある意味で映画の凄さをまざまざと感じされるラスト。
作品のラストに至るまでは、これのベースが「高校演劇」であることに関心させられ、「ベースがいいから映画として成立している」と思わされるのだが、最後のこの演出が、これぞまさに「映画」だと観客に「映画の凄さというもの」を突きつけてくる。
このラストがあるからこそ、この作品は「確かにベースの舞台が素晴らしい」だけど「映画として素晴らしい」と「映画である」という部分が特別に際立ってくるのだ。
そしてこれこそが今作を「映画化」した最大の凄みなのだと言える。
まとめ
ということで『水深ゼロメートルから』
これを見ていて感じたのは、このストーリーを練り上げたのが、当時の現役女子校生であることの凄さだ。
ある意味で当時彼女が抱えてたであろう悩みをここまでさらけ出すような作劇を、見事に物語に落とし込んでいるのには脱帽するしかない。
そして「その悩み」の本質性。
つまり、「それは決して終わりはないものである」
この事を表す舞台装置として「水のないプールにたまる砂」それを「掃除」することに当てはめたことがすごい。
しかし、最後にはきっちりと「映画だからできる演出の力」で納得のできるラストに昇華させている。
このラストがあるからこそ、この作品が「映画」であることの凄さも際立っているのだ。
ということで今作品は「原作」である「高校演劇」の凄さを感じつつも、「映画」としての凄さも味わえる、一度で二度美味しい作品になった。
少なくとも僕の中では2024年に見たことを忘れない、素晴らしい映画になった。
今後もまだまだ宝の山のように存在する「高校演劇」の映画化作品を見せてほしいと思う。
ということで『水深ゼロメートルから』
個人的には非常にオススメの作品なので、ぜひ映画館で鑑賞してみてくださいね!!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?