コミックマーケットを語ってみると | 共同幻想としてのコミケ
ここから話は一気に重くなっていきます。
コミケの共同幻想に関してはこの回で締めくくりたいと思うのですが、ここであらためて「宮崎勤」のことについて触れておきます。
「宮崎勤」のことに触れると、オタクはロリコンという定番のコメントかと思われそうですが、それは違います。「宮崎勤」は「解離」を説明するのにこれほど好都合な存在はいないからです。
解離意外にも共通点が多くありました。
これは同人活動を始めた頃と「宮崎」事件がかぶるので、同人ファンの反応やこれらの人たちから受ける印象になにか強く引っかかるものがずっとあって、この事件に関することは機会があれば調べてもいました。
「宮崎勤」の精神鑑定は「解離性同一性障害」という診断が下されています──複数人の専門家による鑑定では違う診断結果もでていますが。少し前には多重人格と呼ばれいた障害の一つですが、個人的には解離性は間違いないとは思いますが、人格障害の方が強いという気がします。
総合失調症──以前は分裂病──の傾向もあるかも知れませんが、おかれている状況においてはそういう精神状態が正常な人にも出てきますのでこれは違うと思います。
個人的には今で言うところの「サイコパス」──専門用語にはありません──つまり反社会的人格障害の方が近いように思います。幼女を殺していますが、ペドフィリア(小児性愛)の要素は強く感じません。
なにより心に引っかかっていたことは「解離」という現象です。
くり返しになりますが、行っている当人と現実の認識が一致しないことを示しますが、これが「コミケ」に関係する人々にも共通点として強くあったのです。
「宮崎」の場合は、逮捕されてすぐに自白したそうですが、全部話したからもう帰って良いでしょうと話したそうです。この一言はとても印象的で今でも記憶に強く残っています。
宮崎事件を取材した記事には今ではあまり見受けられません。
自分の犯した罪と現実の認識が一致せず、まるで人ごとのように平気で自白するという「解離」です。同人を語り続けていると絶えずこの問題が存在します。それほど至る所で出会うことでもありました。
こういう「乖離」ではなく、「解離」が激しい人は「困った人」でもあるのですが、話をしていると特徴的なことがあります。
それは言葉のキャッチボールがまともにできないことです。
実際に経験していますが、せっかく会話をするわけですからなるべく話を盛り上げたいといろいろな話題を相手に振ります。ですが自分の関心のない話題にはまったく無関心というよりも、無反応になって投げかけた言葉が相手の体を素通りしているかのような錯覚をおぼえるときがあります。
普通ならば興味や関心のないことはうなずくなり適当に話を合わせるなどしますが、自分の関心のあるチャンネルでしか他者と関わろうとしないところが顕著にあります。
ですから例えば同人イベントで話が盛り上がって意気投合しても、一歩、イベント会場から出て分かれてしまえば、誰かが事故に遭っても、それが目の
前の出来事でもあっても救急車を呼ぶとか助けるとかはまったくせずに、平気で知らない人の顔で帰って行くようなところがありました。
これはあながち誇張ではなくて、実際に活動中に困ったことがあって、そのときに関わっていたものから「他人事だから」とはっきり言われた経験があります。もちろんこの関わっていた人が当事者だったのですが、その当の本人が「他人事」だとは何事かと怒ったことがあります。
これらの出来事や他にも無数にあるのですが、「宮崎勤」の「解離」と非常に近いものです。正直なところ、良く言われるロリコン云々はあまり関係はありません。
また、「困ったひと」たちの特徴に本人たちには自覚がありませんが、人から嫌われていることです。これも「宮崎」と共通点が多いところです。
「宮崎勤」もアニメの同人誌を発行していましたが、態度や言動から仲間
に嫌われ、1回だけの発行で終わっています。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになったそうですが、ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていたそうです。
このような話は同人関係では良く聞く話ですし、「コミケに集う人々」でも
書きましたが、偽装サークルや自らは作品制作しないで同人作家へ依頼して
作るサークルには特徴的に多いことでもありました。
長くこういう人たちと接してきましたが、さらにいうと、漠然とした被害者意識がある人が多いですね。「宮崎」も取り調べの記録を見ると、そういう言動が散見できます。自らが加害者であるにもかかわらず、当事者意識がとても薄くて不当な取り調べを受けているかのような感じです。
そんな「コミケ」ですが毎年繰り返されるのが、一般参加者のスキルの高さで無事に終了したとか、とにかく「コミケ」は素晴らしいというような「コミケ」礼賛のことばかりが流れています。
普通は、今年はこんなこともあってちょっと残念だったや、マイナスの面もあるはずなんです。前回は開催中に死人も出ていますし、それらの事実が今後どう伝わっていくかは興味あるところです。
実際には、毎年運営側が禁止している「徹夜組」の存在があるのですが、一度もなくなったことがないし、コスプレでのトラブルもなくなったことがありません。「黒子のバスケ」の脅迫事件は有名ですが、人気ジャンルにはここまで大きな問題ではないですが、小さなトラブルは良くあってコミケスタッフによって取り押さえられるということも実際にありました。
今はネット情報やバラエティー番組などで「コミケ」が取り上げられることもあるのでまったく関心のなかった人も参加するようになりました。それが故のトラブルも発生しているらしいのですが、これらを全く指摘していなくて、昔から言われている「コミケ」の素晴らしさばかりを伝えてきます。
あら探しをしている訳ではないですが、運営側から入ってきた生の情報ですし、いろいろなところからこういう情報が入ってくる。ですが、一度たりとも「コミケ」礼賛情報に疑問を持たないどころか、より強固に同じ情報を繰り返して故意に広めているようなところがあります。
そこから窺えるのは「コミケ」は誰からも注目されている絶対的な存在でなければならないというような感情が強く見受けられます。
一種の共同幻想を作り上げて守り固めているようにも感じられますね。
昔に一度、どうして「コミケ」が好きなだけではいけないのかと質問したことがあったほどです。
この質問に答えはなかったのですが、カルト宗教とまでは言いませんが、普段生活していて、一度や二度はしつこい宗教の勧誘を受けたことがあると思うのですが、これらに非常に似ていると感じました。
自分たちの支持する「コミケ」は誰からも注目されている。
なによりも優れたイベントに自分たちは参加しているという、自負と自意識が突出して存在しています。こういう心理構造も、新興宗教に多く見られます。
批判する気など全くなくてただ同調しないだけでも批判と受け取られるようなところもあって、いつも反応が感情的です。それは今も続いているようで、アニメや同人誌、即売会の規制の話が流れるとネットではすぐに「世間のオタク叩きが始まった」というような反応が返ってきます。
ですがそもそも世間はそんなに「オタク」に関心を持っていません。
これは「宮崎勤」事件の時もそうでした。
あれほどの異常な事件であっても、案外すぐに忘れてしまうものですし、この時はまだ「コミケ」は世間に知られていませんでした。
「宮崎勤」が「コミケ」に参加経験があったことからマスコミなどが作り上げたイメージでもあったという印象が強いですね。ですが仕事場での雑談で一時はそうしたイメージで「オタク」が語られていたときがありましたが、すぐにこの話題も消えてなくなりました。
「オタク」の話題だけに執着しているほど世の中の人々は暇でもありませんし、世間ではいろいろな事件がおこっているからです。
1990年におこった湾岸戦争などの話題のほうが大きかったですし、長く続きました。「オタク」の話題に関してはとても短いものでしたし、「オタク」の話題を好んでいたのはまだ社会に出ていない学生たちでした。学生たちはなにかとこの話題に触れていましたね。
それと後はPTAのような世の中のことを知らない専業主婦のオバサンたちくらいです。面白いのは女性サークルや女性の同人ファンたちはこのイメージを作り上げるのに一役かっていたところがありました。
それでもいまだに、なにかあると「オタク」叩きと過敏な反応を示す人が多くいます。当時からずっとこの問題を見ている人間からすると、「オタク」叩きをしているのは「オタク」自身であるかのように見えます。
それは「コミケ」も「オタク」も世間からずっと注目されているいう一種の自意識過剰さが原因のように思います。
それが故の被害者意識でもある。
青年期に良くおこる「対人恐怖症」の心理の裏には、この根拠なき被害者意識があって、自分は周りの人々から注目されている、それほど重要な人物であるという一種の逆転した心理が隠れているものです。
ですから寝癖一つや片方のまぶただけが時々二重になってしまうとか、そんなばかげたことは誰も見ていないし気にもしていないのに、極端に気にして恥ずかしがったりするのです。
自意識過剰さとは自分自身を誰よりも過大に評価し、それにとらわれてしまうことからおこる心理機制です。
それが故に、ほんの少し女性と目が合っただけで自分のことを好いているとか、人々の雑談が自分の悪口に聞こえたりと誇大妄想と被害妄想が混在するようなことになります。これと同じ心理構造が隠れていると感じます。
世間の話題の中心には絶えず「コミケ」や「オタク」の話題が居続けているかのような誇大妄想とも、被害妄想ともとれる心理が隠れている。自意識過剰さが「コミケ」という共同幻想のベースとなっているのでしょうね。
この自意識の過剰さは、コミケに関わっている人たちはなにか正体の分からない「エリート意識」のようなものを持っているところからも窺えます。
この心理を利用して、「オタクは知的エリート」と持ち上げて商売に繋げているような人までいます。見え見えのおだてに簡単に騙されてしまっているのも一つの特徴です。
そのエリート意識とは、現実の世界から「コミケ」や「同人」というものを
切り離すための装置である「解離」によって守られています。その守られているものは思春期や青年期に特徴的な、「全能感」です。
その「全能感」の正体というものはなにかというと、自分はまだ何ものでもないから何者にでもなれる、輝かしい未来が待っているという根拠なき「全能感」です。これは学生時代の「モラトリアム期」と同じなのですが、それが学生ではなくなくなっても長くずっと引き摺っている。
今で言うところの「中二病」ですね。
では「コミケ」をどのようなものとしてとらえているのかというと、一言で言ってある種の「学園祭」としてとらえているいるようなところが強くあります。
同人誌を作るのも「出版ごっこ」「作家ごっこ」「編集者ごっこ」や「評論家ごっこ」というように、コスプレは「アイドルごっこ」というように、ごっこ遊びの心理が根底にあります。
明確に口には出しませんでしたが、厳しいプロの世界で活動するよりもゆるい同人の世界で楽しくかつまたお金も稼ぎたいという本音が見え隠れしている同人作家が多かった。
これは「コスプレ」でも同じで、何万人という観客の前にたつアイドルでは
なく、数十や数百人の前のアイドルで良いというのがある気がします。なによりも厳しい視線に我が身をさらして、傷付きたくないという心理があると思います。
これは「BL」ファンの女性の心理と同じで、現実の世界の恋愛を描くだけで傷付いてしまうという、自己中心的な肥大した自我を持つ人に特徴的な「傷付きたくない症候群」とでもいえる心理です。
これはもう実際にサークルで活動していただけに痛切に感じ取れるところです。コミケに参加してさえいればいつまでも学生気分のままでいられる、学園祭に参加し続けることができるという感じが強くありました。
いろいろなサークルがありましたがとにかく専門用語が飛び交っていましたね。その行為が素人が専門家ぶりたいそのものでした。
なにもそんなことを専門用語でいう必要がないことや、とにかく見せびらかすかのように知っている知識を話します。その知識がただしければまだ良いのですが、けっこう間違っていることが多くて底の浅さを露呈していることの方が多かった。
「オタク」というのは、言わばマニアごっこをしているようなものです。
だからあれほど「なりすまし」や「虚言者」というものにとっては居心地が良い場所でもあったのだと思います。
一度も、同人関係者の言うことがただしかったことがないというほど、「噂」が強く信じられていますし、とにかく「噂」が好きですし飛び交っています。ねつ造としか思えない情報ばかりが広がっていました。
これが僅かの人数ならばそれほど強く信じられもしないでしょうし、調べて
から正確な情報を得ようとする人もいるでしょうが、これが何万人も同じことを話す人が一同に会するようになれば間違っていても真実の物語になって
しまう。
この構造は一般の社会でも同じです。
顕著に表れていたのが平成も終わってしまいますが、「昭和」から「平成」
へと元号が変わってしまうときに、別の元号が社会に広まっていて信じられ
いたことなども良い例だと思います。
特に「コミケ」関係では疑問を差し挟みにくいというのもあって、一度も訂正されることはありませんでした。脅迫的にこの疑問や真実を排しようとします。
間違ったことが分かれば、それは初めからなかったもののように誰もその話題に触れようとしなくなるだけです。価値観を共有できるものにとってはとても楽しいのでしょう。しかしこの学園祭の雰囲気を共有できないものにとってはまったくつまらないもに過ぎません。
これらが反映されているのが、絵が稚拙でも、同人誌も素人さを前面に出しているタイプの同人誌は好意的に受け取られて売れる傾向にあり、プロに近いようなそつなく上手く作る同人誌は人気が得られにくいという側面がありました。
だから時々プロの作家が同人誌を作って「コミケ」参加しても、はるかに
質の劣るアマチュアの同人誌とくべて、頒布部数で負けてしまうという現象がおきるのです。
今は商業参加が認められていますから分かりませんが、昔はプロ作家の同人誌は人気があまりありませんでした。
念のために少し説明しておけば、「モラトリアム」とは元々が経済学用語で
いうところの債務履行の余裕期間です。
それをアメリカの精神分析学者の「エリク・H・エリクソン」が「アイデンティティ」という概念を、エリクソンの心理社会的発達理論を提唱した時に、青年期をこの「モラトリアム期」という時期として提案しました。
それを日本の精神分析家で精神科医でもあった「小此木啓吾」さんが、青年が大学を留年しつづけ、その後も定職につかない傾向の増加を分析し、彼らを人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま、大人になることを拒否して猶予期間にとどまる「モラトリアム人間」と呼んで広く広がりました。
アニメ監督の「押井守」さんはこの「モラトリアム」と呼ばれる言葉をアニメ作品で多用しています。
もともとアニメ作品にはこの「モラトリアム」の心理が潜んでいるところがあると思いますが、すでに亡くなっていますが「小此木啓吾」さんがもし同人とアニメの関係を分析されたらどう分析されるのかと個人的には関心があります。
「モラトリアムの制度化」としての高学歴化が社会的背景にあるのですが、
そんな「モラトリアム期」も今では貧困のために崩壊しているとも言われています。
この問題はある意味複雑になっていくのかも知れません。
ただこの「人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま」の人間は、
すでに大勢いると思いますし、増えることはあって減ることはないと思います。この「可能性を保ったまま」からくる「全能感」は容易に人は手放す
ことができません。
この強力な武器を奮うことで、「貧困」という底なし沼に沈みながらも浮かぶ術を全て手放してまでこの「解離」で全能感を維持しようと努めます。
また孤立という新たなステージに追いやられてくると全ての物事が妬ましくなっていくようです。
当時、プロ漫画家の中で比べても美少女を描かせたらその上をいくような者がいました。
商業出版での仕事は自分も含めて経験があるのですが、絵の上手さから一番
売れるだろうと話していたのですが、この「可能性を保ったまま」からくる
「全能感」を手放すことができずに何度も現れた目の前のチャンスを掴むことなく消えて行きました。
これはなにも彼に限ったことではないのですが、実社会には年齢がかなり上でもこういう人はいます。いろいろな人を見てきて、実際に通院するまでにいたった人もいました。
孤立していく人はここまでになりますが、「コミケ」はそういう人間たちにとってはある意味救いの場でもあると思います。
こう考えてくるとあの「コミケ」に関しての感情的な反応が納得できます。
なんらかの事件などに発展する人たちは圧倒的に人から嫌われて孤立していく人たちです。こういう人たちとも話をしたことがありますが、なにをどう転んでも自分は悪くなくてまわりが悪く被害者であると言い張ります。
被害者意識が強いのですが、これは自分の要求が通らないからというまったくもって的外れの自己中心的な考え方でした。要約すればなぜ自分は特別扱いされないのかということにつきると思います。
こういう人たちと接していると、初めて会った人にはまず相手のことを尊重
して話を進めてくのですが、絶対にこういう人たちを尊重して話を進めて
はいけないことが痛い経験を通して分かってきました。
その一つの大きな線引きが、何度もしつこく繰り返していますが「解離」という武器を持った人たちです。
あまり接したくない人たちですし、こうして記憶を探っていくと怒りがぶり返してきます。良い想い出とはなってくれませんね。