【短編】あなたの一輪〜東と西の薬草園より〜
秋になり、花の香りがするようになった。何の香りかわからない。スマホで花の名前を調べようと写真を撮ったら、バッチリその家の人と目が合ってしまった。乾燥する秋。草木の水やりも念入りにしなければならないのだろう。よその生け垣の花を手折るわけにはいかないので、花を買いに行くことにした。
スーパーや物産館だと仏花が多い。最近は、物花も多種多様ではある。けれど、もっと自分の気持ちにふさわしい卓上に飾る花を1輪買いたかった。
小雨の降る日だった。休日出勤をキリのいいところで切り上げ車を走らせると、平日よりは車通りが少なかった。九州南部の山あいの地域だ。町には本屋がなくなった。シャッター通りの代わりに売り物件や空き地が多い。けれども花屋はある。ホームセンターに寄ってもいいそう思いながら、いつの間にか車は坂を上っていた。数年前に作られた山の中腹のレンタルガーデンに花が売っているらしいとは知っていた。どこのどんな花でも良かったはずなのに、いつの間にかそこの花を買おうと心で決めてしまった。
雨の中に漂う甘い芳香。何の花の香りだかわからない。駐車場を取り囲むように、足元にトレニアの色とりどりの小さな花が咲いていた。高速道路のトイレ前の鉢植えでもよく見かけるような花だ。けれども、それだけの数咲いていたの圧巻だった。駐車場から見学用の庭園に入ると明治に建設された重要文化財の建物の威厳を損なうことなく、素晴らしい景色が広がっていた。足を踏み入れるのも戸惑うほどだ。けれども、腰あたりに矢印の看板がいくつかあって、店はその奥であることが示されていた。傘もささず、雨に濡れるので、ずっと眺めていたいような景色を足早に素通りする。
「いらっしゃいませ」
町で妖精小屋と噂されるのも納得だ。可愛らしい建物のドアをノックして声をかけると、飾り気のないエプロンをつけた化粧気のない小柄な女性がいた。歳の頃は、40歳前。愛想笑いを浮かべていたが、眠そうな顔をしていた。こんな雨の日には、客も少なくて、本当にうたた寝をしていたのかもしれない。
「花を買いたいんですが」
「花ですか?こちら売店ではないんですけど。レンタルガーデンをご希望ではありませんよね」
「売店じゃない?それは失礼しました」
どうりで小さい建物のはずだ。目の前の女性は、山の広大なスペースを使ったレンタルガーデンの管理人らしい。少し可愛らしすぎる気もするが、この山の景色には合っており、何より小柄な女性1人の管理人室と思えば、あの妖精小屋の小ささは納得だ。
「あら、今日は温泉もお休みで、売店も閉めちゃってるみたいですね。台風が近づいていますから」
「そうでしたね。失礼しました」
今朝までは頭にあった台風のことをすっかり忘れていた。花を買いたいと思うその一心で、ここまで来たのだ。
「プレゼント用ですか?」
「いいえ、曇り空で気分が暗いので、花でも家に飾ろうかと思って。ちょうどここのことを思い出したんです。この町に子供の時から住んでますが、今まで来たことがなくて、よりによって今日来ちゃいました。噂通り素晴らしい場所ですね」
人見知りの質なのに、外に人もいない気やすさからか、珍しくすらすらと話せた。
愛想笑いの下手な管理人は、無表情のまま「わかります」と謙遜もしなかった。
「私も以前は花にそれほど興味はなかったんですが、独り身でもたまに花が欲しくなるんですよね。こういう環境にいると。そうだ庭で摘んできますから。ちょっと待ってもらえませんか?あっちのレストラン『かえる亭』で」
管理人が目線で示した先には、真新しい木造のそれでいて、どこか古風な感じのする一見指定レストランとはわからない建物があった。レストランの評判を聞いていたので願ってもなかった。本日は定休日と聞いて恐縮したが、レストランのスタッフの"カエルくん"と管理人に呼ばれた男性は、愛想良く迎えてくれた。好きなハーブティーを聞かれたけれども、ハーブティーも人生でほとんど飲んだこともなく、好みもないのでお任せする。
「もしかしたら花を買うのも初めてかもしれないです」
話ながら、自分で気づいて自嘲した。慣れないことをするから、こんなタイミングの悪いことになってしまった。けれども、出されたハーブティーが体を温めてくれて、ベーコンチーズのハムサンドもとてもおいしかったので悪くなかった。
「コスモスを切ってきたけどよかったでしょうか?中には好きな色があるかなと思って。かえるくん、壁のかすみ草もらっていい。包むから」
「どうぞどうぞ」
管理にはかえるくんが返事をしないうちに壁にかけられていたドライフラワーの束を1つ外した。そうして、露に濡れて正気の溢れているコスモスと組み合わせて皺っぽい上で包んで麻ひもでくくって、無造作に渡してきた。
「どうぞ家に飾ってください」
「おいくらですか?」
「お金は要りませんよ。この庭の花は、売り物になったりならなかったりするんです。今日は売り物じゃない日です」
真面目な顔で言うが、冗談だろう。恐縮しながら受け取る。すると、1つの花が目についた。
「ずいぶん黒っぽい赤色をしていますけど、これもコスモスですか?」
「チョコレートコスモスです。ガーデニングでは人気の花なんですよ。ただ、自分で植えようとすると、結構お値段がするお花なんですよね」
花の値段をよく知らないので、コスモスの値段が高いと言われてもよくわからない。けれども、値段の高い花だと説明されるともらうのには恐縮する。目の前の管理人は悪気なく、ただの情報として説明したようだ。
「僕も雨の日に花が欲しくなることがありますよ。何か落ち込むことがあったんじゃないですか?」
雨の日には落ち込むと言いながら屈託のない様子で食器を片付けながらかえるくんが声をかけてきた。そのかえるくんの背後からはパンが焼けているいい匂いがしている。雨の日の土いきれの匂いと合わさってより香ばしい。
「はあ、まあ」
何もないのに、無料で花をもらうのは悪い気がしてあいまいに答える。何でもない日だけれど、子供の頃に飼っていた犬が死んだ日のことを車を走らせながらずっと思い出していた。その犬に手向けようと思ったわけではないけれど、飼い犬の事と同時に花を買うことを考えていたのだ。
「コスモスには花言葉とかあるんですか?」
「あるでしょうね。種類によって言葉が違うんでしょうけど、知りませんね。すいません」
そっけなく言って、管理人は自分もハーブティーを飲みだした。客の隣で食事を始める管理にも自由だ。噂とは別の意味で現実感のない場所だと思った。管理人が少し変わっている。
コスモスの花言葉は家に帰ってから調べることにして、雨足が強くならないうちに食事を平らげて、男性は早々に帰ることにした。帰るときには、さらにお土産に焼けたばかりのくるみパンをもらった。お客さんを相手が負担になるほど、過剰におもてなしするのは、果実街流だ。少し年配の人の流儀臭いけれども、あか抜けないようで、妙に果実街の人臭い変な2人だった。
家に帰り着いたときには、さらに雨足が強くなりで、窓を小さな拳で叩かれるほどの音になっていた。
調べたら、チョコレートコスモスの花言葉は「恋の思い出」だった。全くその日の心境とは違う。それでも他人から花をもらう事は悪くない。子供の頃以来だ。花を買ったことがなくても、近隣の誰かしらから花をもらったことはある。それが果実町の暮らしだ。