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「窓辺の猫」第24回 猫は作家

恐らく作家にとってデビューが遅い事は何の自慢にもならない。一方で、職人は経験を積めば積むほど作品の価値が上がる。別に世に知られるのが歳を取ってからでも構わない。絵描き職人は職人でもあるし、作家である。小説家は、作家である。音楽家は、作家である。舞台役者は職人である。料理人は職人である。

どれも芸術家ではあるが、作家と職人では評価のされ方が違っている。
感性と言うものは曖昧なもので、早くから評価された人が感受性が豊かだと言われる。
職人には、感受性の豊かさが必ずしも求められない。奇しくも経験が感受性を凌駕することが多い。
作家は、感受性が豊かでないと、作家もどきの文筆家、或いは大衆作家の烙印を押される。必ず他人の心を揺さぶらなければならない。世の中に強い衝撃を与える作品が即ち純文学である。

人間は、必ずしも芸術家ではないし、作家でもなく、職人でもない。選ばれた人間だけが感受性を持っていて、作家になることができるのだ。作家は大衆的であってはいけないが、必ず誰かに多大な評価を受けなければならない。

ここで、考えてみてもらいたい。
猫は必ず感受性が豊かである。猫は必ず作家である。故に猫の一生は常に困難だ。猫は必ず作家にならなければならない。作家でない、感受性が豊かでない猫は、生きていくことができない。猫は猫以外になれないのだ。

芸術に喩えられる見事な跳躍。常にある遊び心。遊び心と同居する怠惰性。

故に純文学作家は猫を愛でる。愛を知る。
猫における純粋性。猫ほど合理的な生き物は無い。世の中に衝撃を与えるためには、必ずしも共感性は必要ないが、物語に合理性は必要である。文豪は猫の合理性を愛する。

作家になれない人間は戦争をする。或いは戦争を止められない。感受性の少ない人間は哺乳類の中でも特に作家から離れた下等生物である。遅れて職人になる事も出来ない。人間同士からも猫からも、あらゆる生き物から見下されても仕方ない。争う人間たちは猫科の生物に睥睨される。
密猟される豹もジャガーも虎も、人の手を借りない小さな外猫も一生のうち一度も人間たちの醜い争いを見ない事は難しいだろう。

愛を知らない、地球に適応出来ない人間だ。
戦争する人間に純粋さはない。
感受性の欠如した私はいつ争いに巻き込まれ、参加してもおかしくない。
おかしな私は、以前は猫に興味がなかった。
轢かれて事切れた猫をそっと草むらの影に移動させた子ども時代。道でウジ虫に平気な顔をしても、家に帰ってシャワーを浴びた。
あの猫の凄惨な終わりは、私の終わりであっただろうに、私はその時はまだその事を知らなかった。
私は猫と暮らして猫の一生を読む。最期まで読み切れるか分からない。
短期間に多くの書籍を読む体力も精神力もなくなった。多くの作家の作品にこれから出会うことは出来ない。
代わりに猫を飼う。
作家の人物像を想像する如く猫を愛でる。
作家は猫のような人であるはずだ。
自由を愛して、多くは望まない。
縄張りの中で高い創造性を育んでいる。
どんな人間に飼われても飼われない。
気高い思想を持っている。

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猫様とごはん
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