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東と西の薬草園 10-③

 4月半ば。
 果実町にある山の中腹の"峠道の貸庭"は今花盛りである。
 駐車場から見える木製の扉の脇の細長い花壇には赤白黄色、桃色に黒色。5つの色のミニバラの花たちがお出迎え。
 一方で、扉を開けると内側には表の華やかさと打って変わって、もっと清楚な花壇が足元に広がっている。赤白藤色の芝桜。紅白のアリッサム。花弁の形が様々なオダマキの花も白や藤色、赤紫など色とりどりに組み合わせも様々だ。
 あなたの好みは一重ですか?八重ですか?
来るひとに自分好みの花を見つけさせようと、庭が問いかけてくるようだ。
生憎と今年の春は先月下旬から天候に恵まれなかった。
 矢車草の青紫の花が咲いても周りを取り囲むジャーマンカモマイルの花付きはまだ。
 しかし、昨年ほどの花のボリュームはなくても「それはそれで雨の風情に合う」という客もいた。
 エキュームのこぼれ種がすくすくと育って、ルリジサの背丈はぐんぐん伸びて葉を広げた。5月のシャガや菖蒲とはまた違った趣きの青の庭が一画には出来上がっていた。その頭上に咲く、コデマリソウの白い小花。
 雨の日は紫陽花のようで、春の日は雪柳のように白い花びらの雨を散らせる。
 花を花に喩えたのはイベント客の誰だったか。いつのまにか、スタッフも貸庭の客も今年は花を花に喩える事が常態化していた。
 この貸庭にできた新たな慣習だ。

 花の終わった樹々の斑入りの葉っぱが朝露に濡れて縞々のグラデーションを作っている。その下に広がるハーブ花壇から雨上がりのむっとした熱気に強い香り立ち上っていた。

 久方ぶりの晴れ間に、ロッジの客は自らの仮庭に朝から入り浸り、貸庭のスタッフも剪定鋏の音を響かせていた。

「ちょっと貸してごらんね。わしが伐るから」

「具体的に言ってもらえば、私が切り戻しますよ。車椅子で屈むのは大変でしょう」

 もどかしそうに口を出す野人に、「自分がやる」と遥が断ったのはその日、何度目のことだっただろうか。
 集中してちょきちょきやっていたところに口を挟まれ、鋏を止めた弾みに遥は群咲いている薄桃色のサポナリアの花壇に足を踏み込んでしまった。花壇に遥の長靴の形で緑の穴が空いた。せっかく美しい花群れの形を作っていた花壇を台無しにしてしまった事に遥は臍を噛んだ。
 チューリップ、アネモネ、ラナンキュラスは今年この富居家の別荘での野人の庭からなくなった。貸庭の植物を食べたら猫の健康に悪いという話をうっかりしてしまい、特に球根植物を猫たちのいるキャットハウス(猫小屋)から遠い場所に野人が移植してしまったのだ。

「気休めかもしれんけど、猫の行動範囲は狭いからね。ここでも少しは危険の減らせるだろう」

野人は10年前まではずっと犬を飼っていた。猫を飼い出したのはここ最近だ。それから、いつでも猫を連れて猫と家と貸庭のロッジを行き来するようになり、すっかり猫好きになったようだ。

「死ぬ前の最期のご奉公は猫様に捧げる」
と口癖のように言うようになった。貸庭での庭作業の合間にキャットハウスに立ち寄っては猫たちにおやつやおもちゃを与えるものだから、貸庭の猫たちはすっかり野人びいきだ。

 そして、猫たちのために張り切ってキャットウォークを作ろうとした野人が作業の最中に躓いて骨折してしまったのが一週間前だ。幸いに手術は必要なかった。しかし、杖でも立てないので車椅子生活をしていた。
 庭作業も大半がお預けで、椅子に座って指導するしか出来ない。昼間は孫のカエルはレストランの運営をしている。料理をするだけでなく、電話や予約の受付対応など他のスタッフと同様にやっていた。レストランにずっと寂しくいてもらうよりは、貸庭を散歩してもらった方が野人の健康に良いだろう。
 だから、昼間は遥が野人といることにした。
 80歳を超えていて、骨折して不自由を強いられても、野人の思考は庭に関しては衰えないようだ。遥は野人にじっと見張られるように作業するのは居心地が悪かった。それでも、時折、野人に声をかけて来る客がいて、視線が向かない時にはひと息つけた。

 だがそれでも、実際に休憩する暇はほとんどない。
 客用の貸庭スペース以外の富居家の別荘の植物の手入れはこの一週間遥に任されている。遠くから見ても、屋敷の窓から見下ろしても絵画のようなその世界を自分が壊してしまわないか、遥は日々おっかなびっくり作業していた。野人が作業する隣でちょっと手伝っていた時にはなかった緊張感だ。花々が生き生きとしているほど、庭の美しさが遥を刺した。
 棘のある植物が衣服や手袋を貫通して遥の皮膚を破り、また、手入れして見栄えよくなるより台無しになった気がして一つ作業するごとに気持ちが落ち込む。さらに、その落胆を継続させるいとまもないほど舞い込む仕事をこなすだけで精一杯だ。

 「スタッフを増やそう」とここ数日顔を合わせるたびに貸庭のメンバーはいう。しかし、その面接どころか、募集をかけることすらしばらくはままならなそうだ。春を前にしてスタッフを増員したつもりが、遥の見通しが甘かった。もう少し人を雇ってもいいんじゃないかと、他のメンバーは言っていたのに、他のことに気をとられて、遥が面接の数を絞ってしまったのだ。

「レンタルの問い合わせの電話!」

 受付だけお願いと本日猫の手代わりに駆り出してきた実家の母は、文字通り留守番しか出来なかった。庭作業の途中に呼び出され、遥は苛立つ。
 しかし、慣れない仕事を数日やっただけではすべてのことを、母が遥に聞いてくるのも無理もない。その母も65歳を超えている。無理を言って手伝いに来てもらったのだ。文句は言えない。後で愚痴だけ聞いてもらえばいい。
「予約でいっぱいって言って」と母に伝えても意味がないことはここ数日のやり取りで遥も学習済みだ。庭のレンタルもロッジの宿泊も茶会のイベントすらも予約でいっぱいである事は承知して向こうは電話をかけて来ている。ネットで予約サイトやホームページを見れば分かる。
 それでも直接電話をすれば、空きがあるのではないかと望みをかけてきているのだ。
 貸庭はおろか、ロッジすらキャンセル待ちなど出そうにない。梅雨時期に入ればわからないが、連日の春雷すらものともされていないのだ。 

 無料で観覧できる野人の庭もあって広々した駐車場も雨さえやめば日中にはすぐ埋まってしまう。

「すみません。空きが出てもこちらから優先してご連絡をすることは出来ないので、またご連絡をいただくしかありません。少なくとも秋まで予約がいっぱいでして。はい?冬は貸庭は見るだけしか出来ませんが、ロッジは借りられますね。ただ、レストランなども休業ですので、周辺に飲食店もコンビニもなく、ご不便をおかけすると思います。はい?イベントもやらないですね、はい。冬期のロッジのご予約をお取りすることは出来ますけど、例えば山を降りた先に川辺の旅館がありますから、そちらにご宿泊いただければ、こちらの峠道まで、送迎の車は出してもらえますよ。ただし、冬は植物の花の数も限られていますから、見どころはなくて。はい?川辺の旅館の方は部屋に温泉付きではないですね。そうです。こちらは、新設のロッジは源泉掛け流しの檜風呂です。え?クリスマスですか?クリスマス6人でご予約ですか?クリスマスに?ベッドは2つで、畳敷きにも布団は2つしか敷けませんよ。二棟ですね。わかりました。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 遥は予約客の名前と住所と電話番号を書き留めるとようやく電話を切った。その電話だけで10分以上の時間が経過していた。管理人棟に洗い場と多目的トイレをつけてもらっていてよかった。遥が電話している間に、母が野人のトイレの介助を済ませてくれていた。
 そして、「夜に電話番をする約束だから、今のうちに休憩してくる」と、遥の住んでいるロッジに退散していった。慣れない仕事を三日間。母も相当疲れている。

「もう無理だ。ゴールデンウィークのイベントは、言われた通り、霧山酒造と役所の方にお任せしよう」

 さすがにスタッフの面接を入ったばかりのハチに任せるわけにはいかない。他のスタッフは手一杯だ。5月宿泊客の対応は、山鳥が経営する川辺の旅館の方から人を借りてきて、貸庭の指導の方も農協から農業作業員を借りる。イベントは霧山酒造の夕と霞の親子に任せる。
 そして、残された仕事を、遥がやる。残された仕事とは何だろうか。回っていない仕事をすることか。清掃は契約業者に来月から任せることにした。後は、電話番や受付か。備品の補充か。雑用ばかりなのに、てんやわんやの自分が情けない。涙が出そうだ。

 香のいる川辺の旅館にあからさまに冬の宿泊客を回そうとしたが、失敗した。なかなか食い下がってくる客だった。貸庭のレンタルが目的だったはずなのに、そうまでして、ここに来てみたいのか。不便な冬山で、温泉だけを目的にクリスマスを過ごす。しかも、団体様で。それの何が楽しいのか。都会の若者の感覚が、遥にはさっぱりわからない。
 大体若い人は忙しくて、貸庭の作業にだって頻繁に来られないだろう。あるいは家族みんなで交互にやってくるつもりなのか。親戚で共有するのか。

 新作のフルーツフレーバーティーから立ち上る、紫蘇の刺激的な香りと柚子の甘やかな香り。カップに口をつけて、遥の思考は湯気のように霧散した。

「何だか忙しい時期に悪かったね。怪我してしもうて」

「いやいや、私の段取りが悪かったんです」

頭を下げたの人に、遥も反省して、頭を下げた。4日前に宿泊の予約客が来たときに、受付に誰もいないというミスを犯した。おそらく10分以上、そのまま待たせてしまった。それで慌てて母を呼んだのだ。どの棟が宿泊客で埋まっているのかいないのか、確認ミスをするのが怖い。

 野人がいないだけでも、貸庭の対応が大変になった。それだけ高齢の野人に頼りきっていたのも悪いのだ。

 新婚の霞と香たちは、新居ができるまで、貸し庭の別荘で暮らしている。
 湧水も漫画のインスピレーションを得ようとこの春はロッジを借り切り、アシスタントのハチもそれに伴ってやはりロッジを借りている。

 野人が骨折し、その介護をしなければならないカエルに今の時期に抜けられては貸庭は回らない。拡張した客棟の敷地のロッジは犬猫などのペットとバリアフリーに配慮されている。さらにヒノキの浴室で源泉掛け流し温泉が各棟についている。その新設した大人気の施設を一棟カエルたちに利用してもらい、こちらも連日泊まり込み勤務だ。万が一、ダブルブッキングのミスを犯してしまった場合には、それらの人たちに退けてもらうしかない。いや、むしろそのことをあてにしているズボラな自分が遥は嫌だった。

 連日の雨で、雨の日の山道の運転は危ないので、主要スタッフのみどりだけ、雨の日休みという変則勤務になっていた。ロッジや別荘の客室を貸しても良いが、「お客さんが待ってるのに、それは悪い」とみどりに辞退されてしまった。代わりに事務系の事やスタッフのシフト管理を自宅でみどりにやってもらっているから助かっている。遥がシフト管理をしていたら、早々に人手不足に陥っていただろう。旅館の方からスタッフを借りてくることを提案してくれたのもみどりだった。

「明日はわしも病院に行くけど、大丈夫ね?」

「どうにかやりますよ」

大丈夫かと聞かれても「大丈夫です。」とは答えられない。この仕事も3年目なのに、遥は全く自信がない。ただし、すべてを他人をあてにすることができない現状だった。

 カエルだって、仕事の合間を縫って、野人の通院に山を降りるのは大変だ。苦肉の策で、客の送迎車の運転手をしてもらっているスタッフに病院の送り迎えを頼むことになった。週5勤務だから、アルバイトから正社員に変わった。
 しかし、その送迎車の運転も土日はカエルとハチと湧水が交代で担っていた。
イベント日はロッジまで役所に町バスで客も送迎してくれる配慮をしてもらっていたから前回のイベントはなんとか回ったが、桜が咲いてからここ10日ほど貸庭の主要メンバーは休みが取れない日が続いていた。
 雨で桜が満開になる前に散り始めてもこうなるのだから、体制を考え直さないと来年は絶対に手が回らないだろう。

「雨になれば小休止よ。今がずっと続くわけじゃないからね」

「そうですね。今年も豪雨が来なければいいですけど」

 果実町の梅雨は激しい。空梅雨かと思ったら、梅雨明けに豪雨がやってきて川の水が溢れたりする。『峠道の貸庭』は川の氾濫で道が寸断される場所にはないが、山里の方が水につかってしまえば、もちろん、客が来られない。町の境目が危なかった。

「それで、悪いけど、猫たちにごはんをあげてきてよかね?夕方は客が来るじゃろ?」

「そうですね」

猫たちに首ったけな野人に遥は笑みが溢れた。

 貸庭のロッジのチェックインは夕方の4時からだ。その時間帯には貸庭の作業を撤収する人も多い。忙しい時間帯なので野人の言う通り、その前に猫たちにごはんをあげた方が無難だ。やっぱり自分は要領が悪いと遥は思った。

 忙しさに保護猫の譲渡活動を再開する目処も立たず、保健所主催の譲渡イベントに出す話も進まない。多分梅雨明けまでできないのではないか。香がそちらを担当しているが、川辺の旅館も、今は客でいっぱいだ。遥が考案した新作フルーツフレーバーティーの売れ行きが好調で、本業の方で山鳥もてんやわんやしているらしい。次の新作も秋までに出す予定であり、商品開発部は前倒しで、果実町に移ってくる準備を始めている。

 キャットハウスの中は静かだった。猫たちは、ほとんどご飯をこぼさず、上品に食事をした。野良猫だったと思えないほどだ。
 連日の雨で、飼い猫たちも飼い主が現れる事を待つ保護猫たちもひっそりとしている。1日の大半は眠り、時折追いかけっこをはじめたかと思うとまた眠る。スタッフは誰も猫たちに膝を貸す暇もなく、夜眠りが深くなった頃合いに必ず客から内線の受付に電話があった。アルバイトスタッフがまだ慣れておらず、何をどうすれば分からない事も多い。
新設のロッジの風呂場の掃除は早朝で、そのアルバイトに山まで来てくれる人もそうそうおらず、貸庭のメンバーがチェックイン前に慌てて掃除することもしばしばだ。

 何もかもいっぺんに始めすぎたと皆が後悔しても後の祭りだ。全ての予約が冬期休業後までいっぱいで、さらに冬期の宿泊客まで今日受け付けてしてしまった。どうせクリスマスに宿泊客が来るなら、クリスマスから正月まで宿泊を受け付けるという案が再浮上してしまうだろう。冬の休みが長すぎたとスタッフは言っている。他の季節に連休を分散させたいが、このご時世繁忙期にどうやってみんなに1週間ほどの休みをとってもらえるだろうか。

「霧山の夕さん、霞くんのお母さんが、4月のイベントをもう一回増やしたいって言うんですよ。それで5月終わりと、6月の茶会を外せないかって。雨で道が悪いでしょ。救急になりますけど、それでイベントの客が分散されるならいいかなと山菜料理とか風船飛ばしとか、霧山さんと役場の人でやってくれるらしいんで」

 本日は晴れでみどりが出勤してくれた。みどりは植物の知識が豊富なだけでなくお茶を入れるのがうまいから、夕方からレストランの方に回ってもらった。チェックイン客の出迎えとレストランの状態の確認を終えて、再び妖精小屋に引っ込んだ遥は、母に言うはずだった愚痴を野人に聞かせた。

「ハルさんが任せたいなら、すればいい。したくないなら、しなければいいよ。忙しいところ悪いけど、わしはやっとらしくなったなと思っとるよ。いままでは、準備運動やった」

「3年もかけたずいぶん長い準備運動ですね」
 
 野人に返事をしてから、遥は夕の提案のことを考えた。

 ゴールデンウィーク前に取りに行かないと、山から山菜がなくなってしまうかもしれない。イベントではおにぎりと山菜の定食作りをしたいらしい。貸庭ハーブの卵焼きとともに。それなら遥にも作れそうだった。手伝いが出来る。任せきりにするわけではないし、少し楽をするくらい良いのではないか。

 遥はこれまでレストランかえる亭で雑用ばかりしていた。厨房にはもっと料理上手な人が入った方が良かった。けれども、おいしい山の味は遥も山育ちだからそれなりに知っている。

 遥がつらつらと考え続けている間も、野人は今日の貸庭や猫の様子などよく話した。
 そして、別荘の野人の庭の事まで話を及ばせた。

「これは富居の会長さんから聞いたんじゃけど、山里の方に香さん達の新居ができたら、別荘の方を見学施設や宿泊施設に開放しようかと考えとるらしい。もともと重要文化財だから、その保護のために買い取ったらしい。維持費がかかるでな。その維持費は貸庭の運営でもう賄えるだろうて」

「ー見学施設ですか。それは、また、客が増えそうですね」

遥は賛同しつつも、表情は硬かった。別荘では、毎週末、カエル達と4人で映画の鑑賞会をしてきた。広い台所でみんなで料理を作ったり、思い出の場所である。それを逆に解放するとなると、感傷的な気持ちになった。
 貸庭でいい大人4人で遊んでいた日々が終わるのだという気がした。

「まあ、いいタイミングだよ。いつまでもわしがいるわけじゃない。庭のことはハルさんに任せるよ」

「私ですか?まさか、師匠の庭をわたしが?業者さんじゃなくて」

 遥は野人がいうのが別荘の庭のことだと気づき、ハッとした。遥ははっきり野人の庭の手入れは嫌だと野人が骨折した日に言ったのに、できればハルさんにと野人が譲らなかったのだ。

「富居さんの別荘の庭をわしが借りているようなものだった。それを管理するのは管理人に雇われたハルさんの仕事よ。周りとみんなでやってもいい。好きなようにしていいと言われた庭だから、ハルさんの好きにしなさい」

「わ、わたしですか?師匠の庭を私なんかがそんな」
遥の声は震えた。野人の庭を引き継ぐなんてとんでもない。遥は庭師ではない。元々ガーデニングに興味があったわけでもない。今は少しは興味が出たが、そのセンスは他のスタッフにすら遠く及ばない。貸庭のメンバーはみな、遥よりガーデニングの巧者だ。遥が引き継いでも、野人の庭が存続するより台無しにしたと言われるのがオチではないか。

二人きりの小人部屋。
管理人棟で野人は穏やかに話した。

「死んだ後のことは知らんよ。しかし、ハルさんは、大人になってここで初めて会った時に、やりたい事は何もないって言ったよな。趣味も仕事も好きな花も料理もない。代わりに嫌いなこともない。山里の人間はそういうのよ。ここはなんもない、自分にもなんもない。でもね、生まれ育った育まれた豊かな感性は誰しもが持っているものよ。それを感じられなくて、つまらない人生を送ってほしくない」

 野人はティーカップに目線を落としてやや語気を強くした。カップの中に野人は未来を見ていた。職を転々として地元に戻り、自分には何もないっていう寂しそうな遥が自由に未来の自分を育てられるささやかな空間をプレゼントしたかった。
自分が死んだ後に庭。死んだら、遥やカエルに説教もできない。つぶしたらどうしようなんて臆することはないのだ。どうせ、自分死んだらなくなるはずの庭だったんだからー。

 野人は別に遥にこの別荘地の景観美を守ってほしいわけではなかった。

「ハルさんのお茶は『日本の夜明けだ』。自信を持ちなっせ」

遥が考案したお茶は、夜明けのティーと既に親しまれていたマロウ茶と区別して、「日本の夜明け」とヨーロッパで呼ばれはじめているそうだ。遥は新しいお茶のことを考えるときにウスベニアオイの色がレモンで変わる効果を知っていたが、似ていても構わないと思っていた。どうせ、そんな画期的なお茶を自分が作ることは無理だから、何にも似ていない唯一無二は目指さなかった。

 しかし、遥の期待以上に新作のお茶には反響があった。異国の地で遠い日本に思いを馳せている人たちがいる。一杯のお茶を嗜みながら。日本のガーデナーが作った、お茶だ。趣味の園芸で生まれたというのが微笑ましく、憧れられれている。

 その幸せな時間と夢を全てを作ったのは遥だけではないかもしれない。宣伝してのは遥ではないが、遥の発想が悪くなかったのもあるだろう。どこか何かに似ていることを遥は恐れなかった。その万人に対する共感性。

「何も庭に熱中しなさいと言っているわけじゃなか。ハルさんの遊び場にしていいけん」

 野人の声音は懇願するようで、遥は困惑した。なぜ、孫のカエルでなく、遥に自分の宝を譲渡すのか。そんなの孫のカエルが嫉妬・・・は、しないかもしれない。カエルは執着心が薄いから、良かったねで終わりだろう。むしろ、断った方が悲しむかもしれない。野人はカエルの庭仕事には厳しい。薔薇ばかりでは客の需要に対応出来ないと、一人前の庭師に求めるようなことをいい。忙しいならと盆栽をはじめさせた。
 遥にはいつも親切だ。肉親と対応が違うというだけではないのだろう。厳しくすると遥が逃げると知っていたからだ。

 働いている時間だけが人生の時間ではない。遊ぶ事も人生だ。庭で遊び、自分に出来なかった理想の暮らしを野人は遥に送ってほしかった。
 職人でなくても出来る仕事はある。金を生み出す技術がある事が日本の全てではない。
遥は慣れない事でも、楽しむ事は知っている。豊かな創造性を失わないでほしい。山里にも里山にも創造性は備わっている。遥にも想像力はある。
 それが類まれなくても構わないが、想像で遊ぶ楽しみを静かな山暮らしを望む遥は持っていた。だから、野人は遥に託したいのだ。

 野人の子どもたちはこの里を去った。孫は戻って来たが、遥がいなければ束の間の数年で元の仕事に戻っただろう。少なくとも料理を仕事に出来なかった。

 網戸にした窓から春の夜風が入ってくる。客の笑い声が聞こえた。野人は自分の見る目がある事が誇らしかった。妻が死んでから生き存え、何が余生とつまらなく思っていた。しかし、今は悪くない余生と思っている。 おとなしげな若い人を諭して、二人お茶を飲む。花のある人生だ。

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