東と西の薬草園 9-③
晩秋に差し掛かっても、まだまだ暖かい10月下旬。バジリコやミントの生育が衰えず、種子取りと同時に刈り取ってしまおうと、遥たち貸庭のメンバーは久方ぶりに勢揃いで庭作業していた。秋まきの種子のスペース作りもそろそろ終わりだ。
遥とカエルと香の三人はなんとはなし野人の後ろで富居の別荘前の野人の見事な庭スペースで作業していた。
「こらこら、ここで寝ないで。花が潰れちゃう」
遥が追い払おうとすると、近づいて来ていた猫はかえって遥の足元に擦り寄りゴロンと花の上に横になってしまった。
「潰れてもよかよ。もう花も終わりだけん。それよりトゲで怪我しちゃうかもね」
野人が笑いながら近づいて来たので、遥は慌てて猫を持ち上げて、軒下の空いた鉢棚の上に名も知らぬ猫を乗せた。野人が引っかかれては大変だ。
「ほらほら、やっぱり退きなさい。そこで大人しく寝てるのよ」
しかし、体格の良いその猫は案外おとなしかった。遥がらしくなく人間にするように言葉をかけると猫は素直に目を瞑った。昼近くなってポカポカしたいい陽気である。遥も昼寝したいくらいだが、野人はまだ数時間は作業を止めそうにない。
「いいなあ。ハルさんは猫に好かれて。そのボスくん、私にはほとんど触らせないのに」
「ホント。暴れん坊だから、私も触れないわ」
手を止めて羨ましげな視線と言葉を投げた香にみどりも同意した。
しかし、二人に感心されたところで、遥はどれが暴れん坊の猫かも分からないから、苦笑したまま何も答えずに作業に戻った。
遥の頭を今占めているのは、作業の後野人にどんな説明をするべきかということだった。
香が保護猫活動を始めて、拾ってきた猫が今貸庭には8匹いる。わざわざ猫用に一番広いロッジを改装してから、完全室内飼いにする予定だった。しかし、たびたび猫たちが脱走する。中には遥が実家の猫を預かっている日に遥のロッジに侵入してきた猫もいて、実家の猫と大喧嘩を始めるところだった。慌てて、扉を閉めて双方を異なる部屋に隔離して事なきを得たが、実家の猫が咆吼を上げていた姿を思い出すと未だに胸が潰れそうになる。
そして、猫たちをたびたび脱走させているのが野人である疑いがあるのだ。
猫は外に出さずに飼うという説明は野人にもしていた。猫を可愛がった後にたまたま扉を閉め忘れた可能性はある。
しかし、先日、「どれどれ」と言いながら、扉を開けて中に入らず猫が出て行かせていた野人を見てしまい、うっかり閉め忘れとは思えなくなっていた。
それでも、「猫を出さないでください!」と叱り付けるのではなく、あくまで「猫部屋の扉を閉め忘れていませんか?」と聞くにとどめたいと遥は思っていた。いかに自然に親しむ貸庭といえど動物嫌いの客もいるかもしれないので、おおっぴらに猫を出しっぱなしにすることはできないが、従業員たちには幸いに猫嫌いはいない。大して動物好きでも遥が一番猫を捕まえる役目を負っているのは納得行かないところもあるが、ガーデニング以外にも、猫の世話など他にすることがあると気分転換にはなった。
猫たちは、おそらく1番怠惰な人間が分かるので、遥に寄ってくるのは一緒に昼寝でもしようと誘ってくるものだと思われた。
猫と昼寝したいなと思いながら、猫と自分の朝ごはんの支度をして、庭作業して、昼ごはんの支度をして、夕方猫にごはんをあげて、かえる亭で働く。ここ1週間ぐらいは、単調で満たされた日々を送っていた。
しかし、することが変わり映えしなくても、季節がめぐって、庭の景観が変わっていくように、ちょっとした事件は起こるものだ。
「ハルさん。このお野菜、どうやって食べたらいいかしら?」
「すみません。よくわかりません。珍しい野菜は難しくって。何ていう名前の野菜ですか?」
遥は作業の途中に客から声を掛けられて、目の前に差し出された緑の葉物をしげしげと眺めた。眺めたって葉物の区別など自分につかないことは分かっていたが、一応は考える振りをしなければならない。
「それが忘れちゃってね。忘れちゃ仕方ないわよね。かえる亭に持っていったら、迷惑かしら」
「食べられるんですよね?一房もらっても良いですか。他のお客さんには出せませんけど、かえる亭に来てくださるなら炒め物にして出しますよ」
カエルが後ろから歩いて来て、遥に助け船を出してくれた。
「あら、そんなつもりじゃなかったけど。お言葉に甘えるわ。来週には東京に戻るから、今日から三日はかえる亭に通い詰めようと思っているのよ」
庭作業のために日焼けの完全武装をした60がらみの女性は、さらに「先に温泉でさっぱりしてこよう」と言い残して去って行った。
その女性の姿が完全に温泉施設の中に消えるとカエルはぱくっと謎の葉っぱを口に入れた。
「うん。食べられる。美味しいな。良かったら、ハルさんも食べる?」
再び差し出された謎の葉っぱを見つめ、遥は黙ってそれを千切って口に運んだ。
「・・・うん、美味しいね」
見た目に食べられる野菜だと判断はついていたが、知らないものを口に入れるのは何となく勇気がいるものだ。その辺の野草を食べるより緊張して、遥は飲み込んでしまった後、ほっと息をついた。遥が食べ終わった頃には、カエルは謎の葉っぱの調理法を調べて考えてみると言って、かえる亭に去っていた。
最近見慣れない野菜が『峠道の貸庭』に増えてきた。貸庭には、苗木や種を無料で事務所からもらう事ができるが、これまで植えたいものは里まで降りてホームセンターなどから買ってくる人が多かった。
レストランかえる亭併設の温室では切り花や花苗、ハーブや野菜などの種子や苗の販売をしていた。販売業務スタッフは、貸庭で温泉施設を運営する会社が請け負ってくれていた。
売っているのは全て貸庭の植物というわけではなく、農協を通して農家さんに棚貸ししているものもあった。野菜などをもっと並べて物産館にしたいという話があるが、遥はあまり乗り気ではない。貸庭は観光施設ではないと遥は考えていた。"レンタルガーデン"である。借り物とはいえ、所有者がいる。
富居家の野人が手入れしている敷地とレンタルガーデンスペースには間に歩道が作られて、木製の塀も最近立てられた。
富居の野人の庭は出入り自由の観光スペースだ。富居の屋敷には監視カメラがいくつもあり、防犯も整っている。
しかし、広大になってきた貸庭の防犯はまだ改善の余地がある。珍しい園芸品種の盗難などあるかもしれない。
遥にはまだ貸庭に増えていく新しい植物たちのどれが高級品種かという知識が不足していた。その知識がいつ自分に身につくのかもわからなかった。
温室や温泉で働いてくれているパートの人が農業をしている人が多いので、聞くとたまに何の植物か判明することがあるのは助かっていた。しかし、全部が全部わかるわけではないから、カエルなどはとりあえず自分で食べて安全か確かめていた。
花はまだ良い。食べなくていいから。見た目が特徴的であれば、名前がわからなくても何科の植物か見当がつく。
しかし、野菜に関しては貸庭の利用者に食べ方を聞かれてもよくわからない。特に新しい品種の野菜に関しては博識な野人ですら調理がほぼ分からなかった。野人の専門はあくまで庭の作り方と植物の育て方なのだ。
貸庭に珍しい植物が増えたのは、果実町の副町長の杉山が、そうした愛好家向けの珍しい野菜や園芸、品種の苗を貸庭で配るようになったからだ。杉山は元は果実町の住人ではない。県庁所在地の区議会議員で数年前に副町長として果実町にやってきた。長くは農協の職員だった人物だ。実家の方で珍しい品種の植物を多く育てているらしく、それを惜しげもなく、貸庭に提供していた。遥達に渡すなら分からないものは断りようもあるが、それを直接レンタル客に配るのである。
貸庭の客たちも、遥達運営側と農協の微妙な関係をだんだんと察している人は察している。
「もう苗とかを受け取らないほうがいいのかしら」
そうやって客が口をこぼすのは、別に花が要らないからではない。花を渡すついでに、杉山が移住の話を提案してくるのに困惑しているのだ場合によっては、貸庭に植える植物の話ではなく新規就農の場所としてどこがオススメだとかいう話までしてくるらしい。そういうことに乗り気な客もたまにはいるだろうが、貸庭の利用客は保養所とか長期グランピング気分の人が多い。貸庭の客に移住をすすめることは、別荘に遊びに来ている人に借りるんじゃなくて屋敷を買いなさい!とすすめるようなもので、無粋だ。遥には杉山の行動が理解し難かったが、「移住をすすめるのが果実町の発展のため」という杉山を説得できる反論がないため静観している状態だったが、そろそろ一言何かいうべきだろうか。或いは、冬が来れば杉山の親切の押し売りも止むだろうと期待して待つべきなのか、
遥は他人の心の機微を察するのが苦手だ。話せば拗れることが多いので、よく知らない人には出来る限り話しかけたくないのに、流されて貸庭の管理人になって接客から逃れられなくなった。いや、客の相手はまだいいが、町の話し合いに巻き込まれるのは勘弁願いたかった。いくらここで生まれ育ったとはいえ、いや生まれ育ったからこそ、普段から町の催しに不参加の遥が突然町おこし事業などに関わっても誰も話を聞いてくれないことはわかっていた。遥は運動が苦手だから町の運動会に参加したことがないし、独身で子どもがいないから親子行事に関心はなく、人混みが苦手だから、地元の祭りにも小学校以来行ってない。中学の同級生とは複数人交流はあるが、隣の市の高校の同級生とは卒業以来没交渉だった。もちろん、役場の人間に直接の知り合いはいない。果実町での遥の交友関係はほぼ貸庭で完結していた。
それでコミュニケーションスキルや交渉術が身につくわけがない。むしろ、仕事以外では以前より人見知りになったと感じていた。
東から西に太陽が移動していくうちに、貸庭のメンバーは一人二人と庭作業を終えた。
「ハチさん。いい加減もういいですよ。湧水先生も漫画を少しは描かなきゃ」
「先生はやめてくださいよ」
「夕方までここにいたら、これからずっと漫画家先生と呼びますよ!」
遥は湧水たちに話しかけながら、根っこの張ったバジリコをえいやっと引き抜いた。泥が跳ねて頭から被ってしまったが、そんな事は今日は何度も経験している。麦わら帽子は暑苦しくて、昼前に脱いでしまった。湧水たちも同じなので、髪の中まで泥だらけだ。
湧水は毎日温泉に入ってかえる亭に行くので、そろそろ切り上げないと疲れて今日だけでなく、明日も漫画が描けないだろう。遥と違って湧水と九州道は重たいレンガを運ぶ作業もしていた。
香も旅館客のチェックイン時間前に戻り、客以外、野人と遥の二人になって数十分。野人がふっと背伸びして空を見た。鳶が長く鳴きながら、空を旋回しているのを見たようだったが、遥にはわかった。野人はお腹が空いたのだ。
「師匠。昼に梨のコンポートをカエルくんからもらったんです。そろそろ冷蔵庫で冷えているでしょうから、アイスでも乗っけて食べましょう。今朝は私が新生姜でジンジャークッキーを焼いたんです」
「新生姜ばクッキーてな。そりゃ、よかばい」
冷たい顔で空を見ていた野人は、ぱっと笑顔に変わって機嫌良く遥の誘いに応じた。ちょうどおやつの3時頃だろう。土で汚れた手袋をしていたので、遥はスマホで時間を確かめられなかった。気づけば、ポケットの中でスマホが熱を持っていた。気温が高かったせいだろう。本日も晴天なりだ。
野人が無造作に地面転がした鎌が太陽にキラリと光った。遥はその鎌を拾って、野人の後ろからロッジに向かった。野人は草むらを歩き慣れている。その早歩きについて行く遥の額から目にしみるほど汗が流れた。
人見知りでも、野人の機嫌は大体わかる。その理由に最近遥は思い至った。野人の心境は言葉選びに表れる。
ミツバチの羽音がよく聞こえると言っているときには、彼の心は穏やかだ。
反対に、虫の声が聞こえないと言っているときには、人間の会話が少しうるさく感じている。
明日の予定を立てる時は疲れている。
案の定、野人はアイスを食べながら、「明日はまた種まきでもしようかね。お客さんの手伝いでもよかよ」と言ってきたので、「明日はパートさんがたくさん来るんですよ。かえるくんも夕方出勤ですから」とすかさず返すと残念そうな顔を見せながらも、それでも来るとは言い募っては来なかった。きっと疲れて野人は明日は一日中寝ているのではないか。カエルに合わせて夕方来るくらいで十分だ。
遥も明日は野人の庭作業に付き合っていられない。
秋はフルーツフレーバーティーの生産期だ。栗と梨は香の実家である富居家が手掛ける飲料メーカー山鳥のフルーツフレーバーティーシリーズでもっとも人気の商品である。
実のところ、このフルーツフレーバーティーの商品開発部門を山鳥は果実町の業者に委託したいと考えていた。実際に果物が採れる場所で商品の味を考えた方がより良くものができる、果物も味も地元の人の方がよく知っている、いつか地作地産を推進したいというのが香の祖父で山鳥の創業者で会長である鷹之の長年の夢だったそうだ。
その理想を実現するためゆくゆくはフルーツフレーバーティー事業を霧山酒造に売却する。香と霞が付き合って、霧山酒造と縁づいたのは実は山鳥にとっても願ってもないことだった。だから、ひ孫の顔が見たいだの何だの言って、香に霞との結婚をせっついている。香は交際をオープンにしたのは祖父を喜ばせようという意図はあったものの、付き合ってすぐに話が進んでしまい、戸惑っていた。交際を楽しむ余裕がないのか、ろくにデートもしたことがないらしい。なのに、結婚だ。
霧山酒造は来年度から、山鳥のグループ企業になるがフレーバーティー事業の売却はまだ先の話だ。
霧山酒造は今年薬用酒の製造をはじめたばかりで、その開発費用を山鳥から出資してもらっていた。元々果実酒を売っていたが、その効能を明確にして売るのだ。専門家については、やはり山鳥から派遣してもらって、夏頃に三つの商品が形になった。それをどう宣伝して売るかは、霞と香の手腕にかかっている。
霞は「ほとんど山鳥さんにおんぶに抱っこ状態だよ。まだ開発部門があちらにあるし、意見はあちらから来るんだ。それを飲むかどうかなんだ。気忙しいけど、気楽だよ」とうちうちの話を遥とカエルにふいに話すことが増えた。
霞がそんな風に自分に嘯いても、周囲にはプレッシャーが伝わっていた。遥は貸庭の仕事は無理しなくていいと言っているのだが、霞は落ち着かない様子で2日置きには顔を出した。それも香と交代だが、今日は二人ともきた。しかし、仕事の話になるのが嫌だったのか、遥たちの前で二人で会話する様子はなかった。2人とも多忙なので貸庭作業以外には週末くらいしか顔を合わせない。
それも遥たちとビデオ鑑賞する日に会うだけらしいので、遥たちはそれも無理しなくていいと言っているのだが、映画好きの2人の方がどうしてもやりたいと聞かなかった。
「私は山の家に帰るだけだもん。おじいちゃんとおばあちゃんもいるし、一緒にガーデニングする時間を作りたい。イベントもあるしね。それとも、ハルさんにはお邪魔だった?カエルさんと2人で過ごしたいとか?」
「まさか」
「じゃあ、湧水さんと?」
「2人ともそんな関係じゃありません。2人に恋人がいるかも知らないけど」
霞と付き合ってから、香は遥にたまに恋愛の話をするようになった。遥はなるべくそうした話題を避けたくて、香もその気持ちを察していたが、愚痴を言える相手が遥しかいないので、遥に恋愛仲間になってほしいようだ。口調も敬語でなくなった。
「貸庭はなんか結婚願望のない人間の集まりなのかなあ。私も結婚したくない。ヤマさん、、、カスミくんも、多分、そう。今の人間関係をまだ続けていたいのに、結婚したら変わりそう。もう少しで最高のライフスタイルを見つけられそうだったのに、なんだか忙しくて疲れた。せっかくこっち来て体調良くなってきてたのに、今は無理するしかない感じ。この上、結婚式の準備なんかしたくない」
「結婚式しなければいいのでは?」
昨日は野人と今日は香と。明日は誰とお茶をすることになるのか。おやつは何にしようか。二人のどっちかとまた話すなら、同じおやつは出したくないなどと埒もないことを考えながら、遥は無遠慮にいい加減な提案をした。結婚式がめんどくさいなら省略して、籍もめんどくさいなら入れないで気楽な独身仲間として今のように一緒に仕事をすればいいではないか・・・という答えしか遥には思い浮かばない。
「しないんだったら、籍も入れたくないかなあ。結婚式に憧れはあるし、、、。忙しくなることより、籍入れるのが不安なのかな?あーあ、夫婦別姓に出来たらいいのに。新しい苗字は荷が重いよー」
富居より霧山の苗字が重いなんて言ったら、富居の看板を下ろすのが嫌みたいに聞こえそうだ。しかし、遥はそんな嫌味とは受け取らなかった。次男の嫁とは言え、薬用酒で新しい事業をはじめることが決まっている。いわゆる暖簾分けをする予定だ。霧山は地元で三百年続く酒蔵だ。それを自分たちの事業で危うくするのが怖いのだろう。新しいチャレンジに期待と不安でいっぱいで、神経が張り詰めてしまっていた。
遥も荷が重い。フルーツフレーバーティーや薬用酒の試飲会をこの貸庭のイベントでやる予定なのだ。冬前にやるなら11月しかない。新年度までに数回やってほしいと言われているので、3月だけでは足りず、11月にやらないなら、イベントをしない"休耕期"と決めた12月から2月の冬期にやるしかなくなる。出来ればそれはしたくない。
イベントで新しい飲料に合う食べ物を提供しようと、カエルと相談はしていた。しかし、2人とも気が乗らないのか、まだ貸庭をはじめて一年目で余裕がないせいか、話が進まなかった。しかし、少なくとも来週にはイベントの案内を出さなければならない。それでも、来月のイベントまで1ヶ月切るので待ったなしだ。内容が決まらず、日時のみの空欄というわけにはいかない。
遥と香はそのまま一緒に夕飯も取って、二人で昔の映画を見た。遥の部屋の小さいテレビで観るのは初めてだったが、二人とも目と鼻の先の富居の別荘まで移動するのがめんどくさかったのだ。どうせ、明日は二人とも🎌だ。そのまま寝落ちして構わない。
言葉もなく、疲れた顔で映画を見ながら、遥は先日の野人の言葉を思い出していた。
なぜ建築士でなく庭師を名乗るのか、なぜ都会から果実町に帰ってきたのか、誰もが疑問に思っている事を代表する気持ちで野人に聞いてみたのである。
「無難にやればいいと言われるのが嫌だったんよ。こっちのやりたい事は、あっちに熱意を持って言えば通じるはずなのに、話をろくにする機会も与えられず、向こうに言われたことを適当に解釈してやるというのが嫌だった。建物はね。」
野人は庭作業しながら、途切れ途切れに話した。あっちとこっちとか向こうとかが誰を指すのか分からなかったが、それは別に重要そうではなかったので聞かなかった。
「ばってん、ここに帰って来たら実は無難の中にも自由があると思ったのよ。無理言って庭師のおじさんに弟子入りしてね。そこで無難にやりなさいって言われるのは、ちっとも嫌じゃなかった。お前を信用してると言われているような気がした。それは環境によるんだろうなと思ったのよ。屋根のない場所には、いつも良い環境がある。良い環境じゃないときには庭に出られんからね。嵐かもしれん。建物だったならば、外がどうだろうといつも快適な環境を提供しなければいけない。建物の中には、嵐を不気味にする静けさがある」
野人は、遠い若かりし日を懐かしんだ。
「新規就農で大事なのは、その土地に愛着を持つこっかもね。自分がやりたいことの場所にちょうどいいと思うだけでは、流行りに流されてしまう。しかし、その時々に人気の作物に新規就農者が集中してしまえば、ものが余って値崩れを起こしてしまう。だからといって、作物を鞍替えするのは、それも経費がかかる。人生には大変な時が必ず来る。それでもそれをやり続けられるか。あるいは、新しいことに挑戦するにしても、これまでのことを後悔しないでいられるかが大事なんだ。果実町の梨は宝だ。水の味が落ちたら、この品質が保たれないかもしれない。しかし、それまでは、たとえ世間に知られなくても、おいしいブランドである事は変わりない。梨は果実町のプライドだから、金にならなくたって、品質を守ろうとするもんだ。始めたばかりの頃は、プライドも何もないだろう。しかし、それでもこの町でやっていくという決意を持ってもらわなければ、結局、金で人を集めてもまた金がなくなればいなくなる。若い時はこの町で過ごさなかった私がいう事ではないが、人はそれほど多くの場所で生きられるわけではなか。作物を育てれば、必然としてあまり出かけなくなってしまう。寝床で最も多くの時間を過ごすのだから、住めば都になるように、自分たちで工夫していくしかなかとよ」
庭師になった理由を聞きたかったのに、なぜか農業の話に変わってしまった。しかし、野人の話すことが興味深かったので、あえて主題を戻そうとは遥も思わなかった。
ぶどうを育てればワインができる。しかし、梨や桃やメロンは、まだ生きているこの町の人たちが、作り上げてきたブランドなのだ。世間的には町の名を冠したブランドになれなかったとしても、品質はまだまだよそには劣らない。
大規模農場で人を雇うより、自分たちで食べたいものを自分たちで作り、或いはコミュニティで物質を行き渡らせる半農半民が良い。今風に言えば、半農半xだろうか。
さらに、自分で土地を持たずにアルバイトしなくても、好きな時に自由に働く土地レンタルも選択肢ではないだろうか。
食糧時給率を下げないためには、国産品を買ってもらわなければならない。みなが自給自足すれば、余った作物は輸出するか廃棄せざるをえなくなる。恵みに感謝し、無駄な労働をせず、余暇を持つためには、余らせてはいけない。大事なのは、もったいない精神だ。
縛られた生き方はもったいない。時間は有限だ。
遥は移住政策ばかり考える副町長の杉山には批判的な自覚がある。しかし、周りに感化されたのか、最近町づくりについて考えることが増えた。遥が思いつくようなことは、誰でも思いつくもので、誰かがやろうとして諦めたか実情に合わなかったか或いは理屈が破綻した妄想で実現不可能なものなのだろう。
しかし、妄想はするだけなら自由だ。
遥は貸庭を管理するうちに、いつのまにか自分の理想の暮らしは何か考えるようになっていた。そうやって妄想するうちに人生が終わるとしても、それはそれで悪くないと思える晩だった。
遥はソファの上で寝落ちした香に毛布を掛けて、灯りを落とし、薄闇の中で冴え冴えとしてカモマイルのお茶を淹れて飲んだ。催眠効果はなかった。フルーツフレーバーティーを淹れたら良かったと後悔した。果実町には、ハーブよりも夢見をよくする果実が生っている。
ブランケットに包まってぼうっとスマホを見ていると外で猫が高い声で鳴いた。
玄関扉を開けると昨日の昼間に見たボスくんがいた。部屋に入って来たのをサッと抱えあげた。外でさんざん駆け回っていたのだろう。風呂場で洗ってやらなければならない。
「今日は野人が来てないから、自力で逃げたんだね」
遥は、洗ってやりながら、猫に話しかける自分に苦笑が漏れた。