
我が家の庭の風景 part.124「熱に焼かれた」
昼間の花火のような華やかなひまわりが我が家の夏庭を彩っている。足元が雑草だらけで申し訳ない。一方、それも河川敷で見る花火のようだ。ひまわりの花火を見物するのは飼い主のいない通い猫たちで、石畳の上に思い思いの態勢で座ったり、寝転んだりしている。野良猫というのはかくも静かで、風情がある。全然鳴かず、すれ違いざまに家主を気まぐれに威嚇するだけだ。避妊手術をかたっぱしに5頭実施してから、さらに庭は静かになった。警戒されて、以前より猫たちが姿を現さなくなったのだ。もうほとんど野生動物のように、人間となれ合わなくなってしまっただろうか。
私も今年の7月は暑さにすっかり参ってしまって、外に出る気になかなかならない。よかれと思ってやったことでも、猫たちに感謝はされない。そもそも関係を築けていなかったのだから、好きも嫌いもないのだ。特に母猫にとっては、いつまでも手元に置いておきたかった娘たちを奪おうとする敵のような認識になってしまったかもしれない。
7月初めの猛烈な雨が過ぎて、やってきた猛暑。蝶の姿は見ないが家の壁や庭の物置に放置された鉄やアルミ製はプラスチック製のもののあちこちにさなぎの空を見つける。猛暑でへたばった蝶はどうなってしまうのか。過ごしやすい場所を求めて何百キロも旅に出たかもしれない。雑草畑の我が家の庭は子育てにはいいが、数が増えればその後の暮らしに難儀するだろうか。少なくとも、私も老後を暮らしたい場所ではない。病を得れば、田舎の不便さは身に染みる。
梅雨前のミント林の手入れは少しだけ効果があって、雨でも酷暑でも、多少摘み取ればどうにかなる作業は苦にならない。一方でそうなればいいと思っていた、エノコログサの林にはまいっている。エノコログサは私の花壇が好きなのだ。生えてほしくない場所に増えて、裏庭の畑もつゆ草以上にエノコログサで鬱蒼としてしまった。
しかし、それだけの量の草取りはこの酷暑では遠慮したい。庭野菜の犠牲も致し方ない。生やしておけばエノコログサは有用なのだ。冬はその枯れ草が育てたい植物の寒さ除けになり、今も飼い猫と一時保護した子猫のおもちゃになっている。目に見えるほど虫もつかなければ、もう少しして黄金に枯れてくると麦畑より美しいと思っている。麦畑が地上の黄金の海なら、エノコログサは黄金の湖を作る。それも夕焼けと一体となって、世界を金色に染め上げるのだ。
エノコログサはどこにでもある感動だ。苦労して作り上げられたわけでも希少性もない、ただ群れてその群れの数も大したことがなくても、郷愁や旅情や慕情の風景を作り出す。野菜の周りだけ抜けば、このままでいいだろうと思う。
価値観はそれぞれに違う。人の価値観によって生かされるものとそうでないものがある。
先日からひまわりにカマキリがついている。高齢の両親は不気味だという。しかし、カマキリは益虫だ。農家によってはカマキリをわざわざ捕まえて畑に放す家もあるらしい。その植物にとってよくない虫をカマキリが食べてくれるからだ。
雨が降り続く間に、ひまわりの葉陰で雨宿りする虫が多かった。その太い茎も虫にやられて途中で折られないか危惧していた。しかし、その後の炎天下でカマキリが登場した。虫たちは慌てて逃げだしたのか、かたっぱしから食われてしまったのか。ひまわりは酷暑の中、生き生きとしている。カマキリの守護はひまわりにとって有難かった。
一方でカマキリは寄生虫もおり、猫たちには食べてほしくない虫だ。酷暑で外でのびている猫がカマキリに当たっていないか心配になる。深夜、車庫にモグラを残してくれたのはどの猫だったのだろう。裏庭の畑からわざわざ車庫に持ってきてあったのだから、私にくれたのだろうと思っている。けれど、その時にあった私への慕わしさは、太陽に蒸されあるいは焦げ付き火傷となって今はもう心にほぼ無いか、視界に入れることで胸が痛む存在となったようだ。

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