東と西の薬草園 9-②
果実町をモデルにした湧水の漫画に登場する新たなキャラクターは、花冠の似合う猫の妖精になった。しっぽが2本生えている。
しっぽが分かれた人語を理解する猫は妖精ではなくて、妖怪ではないだろうか?原案を見せられた誰もがそう疑問に思ったが、三毛猫のデザインが可愛らしかったので、口に出して疑問を呈する者はいなかった。人間並みの大きさの猫妖精だ。
等身大でぬいぐるみにして、駅のベンチに置けば見映えがするだろう。
新たなキャラクターを想像したら、筆が載ったらしく、湧水はここ1ヵ月半ほど日中の庭作業はお休みしていた。早朝に一、ニ時間ほど手入れをしているが、「これじゃとても従業員とは言えないな」と恐縮していた。しかし、事務室によく顔を出してくれて都度来客の受付はしてもらっているので、それだけでも助かっている。
特に、遥が東京に出張に行っていた間は、カエルと交代で24時間留守番を引き受けてくれた。
「スイさんは、このまま土いじりして野に還るのはもったいない逸材です。あと20年ぐらいしてから余生を楽しんだっていいのに、どうしてここの従業員である事にこだわるのかさっぱり解りません。お客さんでいいじゃないですか?」
麦わら帽子が秋空の陽光を透かして光る。
気温が上がりはじめる午前8時頃から、庭作業する人もだんだんと口を開きはじめる。
早朝の空気は人を静粛にする。
「先生とは呼ばないんですね」
遥は頭についた蜘蛛の巣を払って立ち上がり、隣で草刈り鎌を慣れた手つきでふるう横顔を見下ろした。
9月まで連日気温が30℃超えが続いた。10月初旬になって、ここ数日、やっと最低気温が朝方20度を下回り、庭作業がやりやすくなった。『峠道の貸庭』に新たな社員も加わり、9月までの慌しさも随分落ち着いた。
貸庭のガーデニングシーズンは、11月まで。12月から2月までは、新規の庭の貸し出しを受け付けず、イベントもしない。
2ヶ月足らずのこの期間を乗り越えれば、遥は巣ごもり期間に入る。ただし、冬にゆっくりするためには後2ヶ月で目星をつけて形にしなければならないこともあった。
「スイさんが先生と呼ぶのを嫌がるんです。長く筆を折っていたし、漫画家と名乗るのは、気が引けるんだそうですよ。そんなこと言ったら、俺はアシスタント以下ということになるでしょうね。今は漫画の背景なんて、AIに描いてもらえば済みますから」
自嘲気味にいながら、手を止めることはしない。3ヶ月の研修期間と言うことになっているが、一緒に作業しながら彼に遥が教えることなどほとんどなかった。それこそ庭に何が植えてあるかということぐらいだ。
しかし、彼が植物の名前を一通り覚えた頃には、秋の花のシーズンは終わってしまう。春や夏より秋の方が植物の種類が少ないので、遥としても、余裕をもって教えられた。
従業員のネームプレートを作ることを思いついたのは、その余裕のおかげだろう。貸庭では、庭作業する客からいろいろ質問を受けることが多い。従業員の名前を覚えていないと客が声をかけづらい事に気づき、ネームプレートに氏名ではなく、それぞれ愛称を書くことにした。
山脈遥がハル、井中蛙がカエル、霧山霞がヤマ、富居香がカオ、赤石みどりがアミ、野沢湧水がスイでそれぞれさん付けで呼び合っている。
心地よい花の香りも混じった朝の空気に包まれながら今後は春より秋に従業員を雇いたいと遥は思った。そのためには、新卒より中途の転職組みが良い。農業学校の生徒をインターンに受け入れてもらえないかと農協から打診が来ていた。気乗りがせず返事を先延ばしにしていたが、やっぱり家には新卒は向かないと断ろうと朝の作業しながら遥は決心していた。
それに、そろそろ人手も足りている。
「AIを使いこなせるハチさんが来てくれて助かってますよ。バランスよく手書きもしてくれるじゃない。僕のガサガサな絵にはやっぱり手書きが合うところも多いですからね」
少し離れた場所で作業していた湧水が、朝のノルマを終えたのか、2人に近づいて、腰をかがめた。レンタル客から妖精小屋と呼ばれている事務所の周りには野人が可愛いらしくハーブや秋の花を植えている。
そのハーブを摘んで朝ティーを楽しむのが、湧水のここ2ヶ月ほどの日課だった。
「やっぱり朝はフレッシュハーブのティーが良いんですよね。これのおかげで、毎日机に向かっていても、以前ほど疲れない気がします。20代の頃より健康的だと思います」
湧水は漫画家として20歳そこそこでヒット作を生み出したが、30代後半にさしかかる頃にはほとんど漫画を描かなくなった。イラストのデザインなどはしていたが、つい昨年までは生活用品の買い物にも出かけないくらいだった。縁もゆかりもない果実町に移り住んで数年以上他人とはほぼ没交渉。漫画家としての激務から、何もしない生活と変動が激しく、どちらにせよ若い頃は健康的とは言い難い生活をしていた。今は少し忙しいが、気持ちが明るいせいか人生で一番身体が軽いと感じていた。
「働き過ぎは不健康ですよ?言ってくれれば、ハーブは僕が採ります。お茶も淹れます。貸庭の受付もやります。実家で農作業は慣れてますから」
「やだなあ。庭に出て自分でハーブを選ぶのがいいんですよ。毎日違うハーブティーを楽しめる」
それにね、と湧水は続けた。
「僕は決まった時間に起きて決まった時間いっぱい働くと言うことができない人間なんです。そんな僕を受け入れてくれるのは、ここしかないと思ったんですよ。勝手に早起きしたり、勝手に遅寝したり、張り切ってみたり、数日、庭に出なかったり、こんな僕でも会社員になれたという事は素晴らしいことです」
「それは、俺こそ会社員から脱落したので気持ちはわからないではないです。ハーブティーで気持ちをリフレッシュするだけなら。でも、スイさんはやりすぎです。早朝から庭作業して、ハーブを摘んで、朝ハーブティーを淹れて、ハーブ石鹸で身体を洗って、ハーブ風呂で半身浴。ハーブ水で肌ケア。パック。気分転換に庭に出た後、ハーブのフットバス。かえる亭でハーブの昼夕ごはんを食べて、夜食にハーブのおにぎりやサンドイッチ。夜はハーブ酒で晩酌。1日のスケジュールがハーブで埋まってますよね。さらにフードドライヤーまで買って、帰る前にハーブを毎日干してたら、別に毎日摘まなくてもハーブで仕事場が埋まってるじゃないですか」
「おかげで加齢臭とおさらば!40代になれば分かりますよ。体臭がどんなに気になるか。それに夜食や酒が習慣付いたのは、ハチさんがのせるからですよ」
「おかげで寝過ぎないで漫画描けていいったじゃないですか。別にいいですよ。一人で呑むんで」
「飲み過ぎは身体に悪いですよ」
「僕にとって酒は命の水なんで、やめたら寿命が縮まります」
「分からないなあ。こんな健康的な場所に住んで、若いうちから不健康に生きられるなんて。そう思いませんか?」
湧水に水を向けられた遥は、目の前ね草を荒っぽく刈り取って首を傾げた。
「さあ、私も卒業した後は関東に出たので。九州人が健康的だと思ったことがなかったです。私からすれば二人とも働き者で、心配です。もっとゆっくりされていいんじゃないかて思いますよ。朝ティーならかえる亭でどうですか。今日は私が店番なんです」
遥が声をかければ、2人はすぐにいそいそと庭作業の道具を片付け始めた。
「いいですね。昼の店番は交代しましょうか。僕もサンドイッチだいぶ上手に作れるようになったんですよ」
「残念ながら、私が店番する日の朝と昼はトーストかおにぎりと決まっているんです。ハチさんのお母さんお手製の味噌で味噌汁を作りますから」
新しいアシスタントと湧水はいいコンビだ。打てば響くような掛け合いは清々しく、赤石みどりが入社して以来、さらに『峠道の貸庭』に活気が出たような気がした。それもこれも漫画家であるだけでなく貸庭の従業員としても2人が働き者であるおかげだ。
しかし、いくら湧水が"漫画家は副業"と嘯いても、彼に漫画に集中してもらいたい人は大勢いる。
意地になって貸庭の仕事に張り切り過ぎてほしくなかった。それに最近のハーブ愛は確かにやり過ぎで、爪の先までハーブで匂う。ハーブの後ろに立たれてもすぐに湧水と分かるくらい強く香った。
「おにぎりは危険ですね。俺、高菜明太子握り大好きなんですよ。こんなの無料で出された日には手が止まりません。食べた分は賄いということで、スイさん、今日はランチタイムはかえる亭の手伝いして良いですか」
「いいよ。なんなら、僕も手伝いましょうか」
おにぎり二個を食べ終わった湧水は、隣で食べ続ける人間を横目にハーブティーを飲みながら、期待に目を輝かせた。
オープンタイプのキッチンに立ってお茶を淹れていた遥は、おにぎり味噌汁に緑茶を合わせない湧水のセンスに内心呆れてしまった。
「いいえ、今日はかえるくんとアミさんがきのこ狩りに行ってるんです。2人とも夕方までには帰ってきて、交代する予定ですから」
「そうですか」
落胆した顔を見せた湧水とな裏腹に、隣の男は喜色満面の笑みを浮かべた。
「うわ。椎茸のバター焼き醤油、鉄板でやりますか?網焼きですか?俺得意だから、手伝わせてほしいなあ。スイさん、戻って原稿書きましょう。夜に少しでも早くこっち来たいんで」
そう言うとキッチンに入ってきて慌ただしく残ったおにぎりをラップに包んで、湧水を急きたてて店を出ていった。
それを見送る遥の心は軽かった。以前は、いつまでも庭作業をする湧水に「漫画を描かなくて大丈夫ですか?」と声をかけなければならなかった。それが遥はとても億劫だったのだと、新入りが来て気づいていた。
現在研修生の林田九州道(くすみち)は1ヶ月ほど前から、貸庭のロッジに住み込みで雇われた従業員だ。本人が思いつかないというので、ハチと愛称を決めたのは、遥だった。すると名前の通りに人は育つものなのか、「ニートな自分を変えたい!」と意気込んできた九州道はとても働きバチの如く貸庭ん飛び回り、短期間で頼りになるスタッフに成長してくれている。
湧水は山の下に自宅を持っている。貸庭のロッジも借りていて、そちらは仕事部屋にしていた。その湧水のロッジに現在は湧水の漫画のアシスタントでもある九州道が住んでいた。
ガーデニングに興味がある漫画家志望のアシスタントが都合よく見つかったものだ。
遥が東京で山鳥の会議に行った際に、湧水が連載を持っている出版社の人に会って「湧水にアシスタントをつけたい」という旨を聞いたので、暇な東京のホテル暮らしの夜に長電話の際にそれを何とはなしに実家の母話した。すると、翌日に友人の息子の友達がかつて実家の農業を手伝いながらwebデザイナーとして活動しており、ブログに無料で漫画も連載しているようだと母から聞いた。
出張帰りで疲れて日中寝込んだ遥は、夕飯のカレーを煮込んでいる合間に気が向いてその人のブログにコメントを書き込んで連絡してみた。すると、隣県から片道2時間かけてその日の夜に九州道がやってきた。
「農作業には慣れているんで、ぜひこちらっ働かせてください。パソコンも基本的な操作ならできます」
やる気いっぱいで意気込んで来た九州道にどう対応したものか分からず、遥はたまたまその日夜までロッジにいた湧水をすぐに事務所に呼んだ。
「いいですよ。ロッジも借りたものがあるので、住み込みでお願いできるなら。貸庭も手伝ってくれるんですよね?」
会うなりあっさりOKを出した湧水に確認するように見られて、遥ははたと気づいた。貸庭のことをやってもらうなら、レンタルガーデンの従業員ということになるだろう。出版社の人に相談されて、アシスタントを探したのはいいが、湧水にアシスタントが必要か確認も取っていなかった。
その日は疲れただろうからと、食事してすぐロッジに案内して眠りについた。
翌朝に香にも相談して、『峠道の貸庭』の従業員として働いてもらうことに決まった。2人とも漫画家になるにはどういう経緯を経るかは分からなかったので、万が一湧水と相性が悪くて漫画のアシスタントが出来なくてもスタッフとして残ってもらえた方がいいと考えた。
湧水はアシスタントの経費は自分で払うと言ったが、貸庭のweb担当を兼ねてもらうからと説明して納得してもらった。
自然の写真を撮ってネットで販売していたというだけあって、九州道はカメラ技術もあり写真の加工も心得ていた。
「引きこもりの趣味がお役に立てて良かったですよ。20代も後2年で終わりだし、今年は公務員試験でも受けようかなと思っていたんです。でも、職歴空欄のニートじゃ無理かなあとか、嫌な勉強をするほど落ち込んじゃって。こんな幸運があるなんて、思いもしませんでした。もう、実家出られないかと思っていたんです」
九州道は器用な割に時折発言が卑屈だった。体力もなく、目標もない、何の特技も持たない遥には地道に在宅ワークしていた九州道は引きこもりには思えないが、転職に気が乗らなかった1年が九州道には随分と心の重荷だったようだ。
「たった1年の無職なんて、僕に比べたらまだまだですよ。ハルさんなんてこの山に引きこもっている達人です」
「そうなんですか?」
「買い物に出かけないだけです。ネットも繋がるし、食べ物もあるし、ここにいたら出かける理由がないんです」
東京出張がどれだけ遥にとって重荷だったことか。事あるごとに、湧水に"山の仙人"のような扱いを受けるのは少しだけ心が傷つくが、1か月に一度実家に帰る時しか買い物に出ない自分が大抵の人より引きこもりであることは遥も自覚しているので、反論できない。
そこそこ親しい貸庭のメンバーとだって、数時間も話すことがあると、家に帰るとどっと疲れてしまうのだ。
しかし、ここの責任者扱いされているから、話しかけられることは多い。
こんなに狭いコミュニティで暮らしている自分にインターンの生徒たちの相手など到底無理だ。
遥はバターで焼いた香りの良いきのこをつつきながら、こぼれそうになったため息を飲み込んだ。最近日々があっという間に過ぎるが、夜が来るのは遅く感じていた。たまのかえる亭での仕事は息抜きにはなるが、4時間もいるといつ帰れるかが気になり始める。
新卒採用が無理なら、子どもたちの職業体験はどうだろうかと役場から打診が来ていた。なぜ子どもたちをこんな山で過ごさせたいのか、里の人の気持ちが分からない。ただでさえ、地元の子どもたちは山に囲まれて過ごし、山など見飽きているはずではないか。
大体遥は子どもがいないから、子どもの扱いなど分からない。もしどうしても受け入れるなら、他の貸庭メンバーに任せたいと現実逃避なことを考えてしまう。
「へえ、駅にパネルを設置したんですか。花冠作りなら子どもたちにやらせたら、喜ぶんじゃないですか。今時、男子も器用でしょう」
遥の気持ちを知らない九州道が上機嫌にきのこバターを食べながら提案した。遥よりよほど鉄板さばきに長けているのは、学生の頃お好み焼き屋で3年バイトしたからのようだ。
やらせてみたら、遥よりずっと器用な子どももいるだろう。しかし、遥はどうしても気乗りしない。大人向けのイベントに子どもを参加させれば良いだけではないかと思ってしまう。なぜ子どもというだけで無料で招待したり、無料奉仕させなければならないのか。そんな区別したくない。
ジュージューと音を立てて焼ける椎茸の傘が黒く焦げている。遥の心も椎茸の傘の尖端みたいに焦げ付くようだった。