「雨夏の香り 」第1話
梨の花が可憐だった。梨の花は4月初旬に咲く。九州の南の方は、桜が終わり梨の花が咲く頃が入学式だ。この花が以前食べたあの美味しい梨になるのはいつだろう。ハーブを育てて待っているうちにいちごが実り、雨が降った。日差しが強くなるとウリ科のスイカやメロンや夏野菜の収穫が楽しくなった。次の実りを待つうちに、いつの間にか香は果実町に住み着いていた。
夏野菜の献立表
蛙の鳴き声が長く美しく聞こえた。昨夜から小雨が降っていた。香(かおり)は深夜3時過ぎに目が覚めた。まだ朝日はない。オレンジ色の室内灯を頼りに上半身を少し起こしただけの状態で、寝ぼけ眼のまま、まず背中まで長い髪をひとくくりにした。気怠いままになんとかベッドから抜け出してジャージから着替えることもせずに、顔だけ洗って目薬を差した。お湯を沸かして起き抜けに昨日収穫した数種のハーブティーを一杯。
「おはよう」
姿の見えない屋根の上の小鳥たちにはじまりあちらこちら何かに向かって朝の挨拶をして、屋敷を出て庭を三つ挟んだ敷地の中にある猫部屋に向かった。雨の賑わしさは、猫たちを委縮させる。いつもより早めの朝ごはんにもかかわらず、香が顔を出すと猫たちはわらわらと集まってきて、ごはん台の上に皆お座りをした。寝起きでふらふらしながら先に猫たちのトイレ掃除。手を洗ってごはんをあげて、しばらくぼうっと猫たちがごはんを夢中で食べる姿を眺めた。同じ姿勢で座り込んで猫たちをじゃらして、膝がまっすぐにならなくなる前に名残惜しく、膝から猫を下ろした。どの猫もあまり人慣れしておらず、香では直接顔など触って撫でることもままならない。こちらから抱っこしようとするっ威嚇するが、自分から膝には乗るというわがままぶりだ。
香はそのまま猫部屋のチェック表にトイレ掃除とエサやり済みの印にサインを書いた。そして、雨の中、傘もささずに再び屋敷の中に戻るとお気に入りの黄色いエプロンをつけて、朝ごはんの支度をした。
6月初旬の朝の空気はまだひんやりとしている。一気に明けていく空の気配を台所から一度戻った寝室でステンドガラスの窓越しにカラフルな色合いで感じた。
身支度が整ったのはお膳6時過ぎ。まだ出かけるまで余裕があるだろうと思っていた。ところが、甘い香りのフルーツフレーバーティーと朝摘みのフレッシュハーブティーをゆったりと堪能しながらスマホでつらつらと最近のニュースを見ていたところで、夫の霞が迎えに来た。洗濯機がまだ回っていて、洗濯物が干せていなかった。雨だから、乾燥機にかけた方がいいだろうと乾燥のスイッチを押して玄関に出迎えに出た。
扉を開ける際におなかが鳴った。作った朝食はまだ食べていなかった。
二人で一緒に朝食をとろうと待っていたのだ。「おはよう」と玄関先で声をかけると、夫の霞(かすみ)が顔を綻ばせて「おはよう」と返した。雲間から顔を出している朝日に白髪が光って彼の雰囲気を全体的に柔和に見せていた。9つ年上の夫のどこに惹かれたかと言えば、香は雰囲気としか答えられない。たぶん、この人とはそこそこうまくやっていけそうだと感じたから結婚したのだ。ハーブティーは夫用にカモマイルティーと自分用にアップルミントティーと2種類作っていた。この山深い町に移住して少しだけ自炊するようになって数年。自分にしては満足できる出来の朝食が調った。食卓には庭から採ってきた花を花瓶に活けていた。料理よりは花を生ける方が香は得意だ。しかし、その理想的な朝食の席で結婚して初めて喧嘩になった。夫が迎えに来たのが早すぎたからではない。霞の買い物の頻度があまりに多いためだった。二人暮らしで今の時期に夏野菜を買う必要は全くない。
「7月からはスーパー禁止だから!」
香は庭で獲れる夏野菜と家にストックしてある春野菜のリストを作成して、霞の目の前に突きつけた。
「今日は雨だから買い物には行かないって!」
霞の懇願もむなしく、香は作ったリストを押し付けるように手渡した。二枚印刷してもう一枚は手元に持っていた。
山の上の瀟洒な建物の樋を雨がつたって、うるさいほどの水音がする。雨どいから落ちる水温に負けない音量で、香はリストにある野菜を読み上げた。
「にんにくと玉ねぎとジャガイモは春に収穫したストックがあるでしょ。これからとれる夏野菜はナス科がピーマントマト獅子唐、唐辛子、ナスと・・・」
「ナス科って言いたいだけじゃ?」
香は先月、農業講習を受けたのだ。そこで「ナス科の植物ってたくさんあるんだね」と妻がいたく感動していたのを霞は覚えていた。
「それに調味料くらいは買い物に行かないといけないだろう」
雨だからスーパーには行かないと言いながら、霞は今日ショッピングモールに出かけることを譲らなかった。梅雨の長雨。この時期に雨の日は出かけないなんて決めたら、霞は6月は仕事以外で一歩も家から出られなくなると思っているのだ。そんなはずないのに。二人の新居ができるまで霞は実家で、香は山の上のこの別荘で暮らしている。お互いの家を行き来するだけでも立派な外出ではないか。
香に言わせたら、車があるからこの果実町の人はちょっとしたことで出かけがちだと思う。明日まとめて済ませたらいい用事も車があるから、どうしても思い立ったときに行動しなければ気が済まない。車に頼りきりは非効率だ。
先月忙しかったら、久しぶりに遠出したい気持ちは香にもある。しかし、それで羽目を外して買い物の整理で翌日がつぶれてしまうことを考えたくなかった。いくらこの山の別荘が広くて、ちょっとやそっとものが増えても、それでものがあふれるということがなく、夫の霞が片付けの大半をやってくれるにしても、たくさん買い物をすると罪悪感で頭痛がひどくなる気がした。
雨が降って頭痛がひどいから。そう理由を言えば、霞が絶対出かけると押し通すことはないとわかっていた。しかし、一方で出かけたい気持ちもある。そんなにたくさんものを買わないと霞が約束さえしてくれたらいいのだ。特に食料品。香は心の中で身勝手な理屈をこねて、霞を恨めしく睨んだ。
香のポケットの中でブーンとスマホが振動した。玄関チャイムの呼び鈴はこの広い屋敷では2階の香の部屋まで聞こえてこない。そのため、スマホと連動してスマホの振動に気づかなくても自動録画で誰が来たかいつでも確認できるようにしていた。
香たちが玄関に出た時には、来客は立ち去っていた。スマホで見たときにすでにこちらの返事も聞かないで「玄関に置いとくから」と言付けていた。
ドアノブにぶら下げられていた紙袋は雨に濡れてしなびていた。その袋を持ち上げると持ち手がちぎれて、ばらばらと中のものが転がった。
「あーあ。だから、ビニル袋にしてくれたらよいのに」
「割れてないかな」
素早くかがみこんだ霞の隣に座って香も地面に散らかったものの泥を落として、腕の中に抱え込んだ。
「ガラス瓶じゃないから大丈夫だよ。こんなにたくさんハーブソルトもらっても使い切れないって言わないとね」
霞の愚痴を聞きながら香が顔を上げると視界の先に貸庭の管理人である遥の姿が見えた。雨が降る中、庭師の野人と何らかの作業をしているようだった。香は手を振って遥に声をかけようとしてやめた。会話して庭作業を手伝うことになれば今日も仕事になる。少なくともそのあとシャワーを浴びて汚れを落としたら、出かける気持ちをなくしてしまうことは確実だ。
雨で土の臭いが濃い。薔薇の花期終わった区画が寂しさを増し、クチナシの花の馥郁たる香りが雨の日に起こる頭痛を少し和らげてくれるようだ。
雨の日だから気怠いのに、雨の日だから一層花が慕わしい。ずっと家にいたいようでいて、出かける気力が雨に咲く花を見て湧いてきた。
「もう着替えちゃってるし、出かけようか」
「そうだよ。雨も優しいよ」
香が水を向けると、霞も乗ってきた。車で敷地を出るときに、遥と野人とすれ違ったので、会釈して通り過ぎた。
*
雨の週末もショッピングモールは賑やかだった。二人も周囲の音をBGMに朝の野菜を買う買わない議論を続けながら買い物した。
「食料品は買わないからねスパイスもかえる亭から分けてもらえばいいし」
やっぱり霞が食料品店に足を向けようとしたので、香はすかさず注意した。
「他人からのいただきものをあてにするなんて計画性がないよ」
香が今朝方突き付けてきた食料品リストを思い出して、霞は不平をこぼした。庭で採れない作物もあるのだから、食料品コーナーを覗くくらいは罪のない行いだと思ったのだ。
「だって実際もらうじゃない。もらわない前提で買い物したら、我が家は今みたいに食材にあふれちゃうよ?」
二人はまだ新婚三か月。いただきものが増えて、それを処理することに追われていた。
久しぶりの人混みで頭痛がひどくなるかと思いきや、午前中で疲れたという霞を置き去りに香は午後まで買い物を楽しんだ。出かけるときは買うものは何もないと思っていたのに、帰る時には後部座席が買い物したものでいっぱいになっていた。
GW後に植えられたばかりの田んぼに空を飛ぶシラサギが大きな影を落としていた。暮時の田んぼ道から橋にさしかかると、電柱に鷹が二羽とまっていた。なんてのどかなんだろうと香は思わず霞に車をとめてもらい、窓を開けてスマホで景色を写真を撮っていた。
いちごミルク
遥⇔かえる
翌日、香は遥に手土産を持参するはずだった。「明日お土産を持っていくね」と昨晩のうちに連絡したら、朝から遥の方がやってきた。早朝の6時にやってきたのは、その時間は確実に起きていると香が言っておいたからだろう。早朝の庭の手入れをする前に遥に土産を渡したかったのだ。遥が持参したのはかごいっぱいのいちごだった。玄関を開けてすぐかごを見る前にいちごの甘く青い香りが鼻に迫ってきた。遥が重そうに腹に抱えているかごの中のいちごは一体何キロあるだろうと香は訝しんだ。
「私一人じゃとっても食べきれないよ」
香は正直に言って苦笑した。
いちごは二人でかごの端と端を持っていちごを台所に運んだ。シェフが何十人分の料理をいっぺんに作れる調理室だ。香の祖父が屋敷を買い取る前には、レストランを開業したり、公民館に利用する案もあったらしい。いずれにしても屋敷が立派すぎるということで、実現しなかった。
「そのまま冷凍してもいいけどね。砂糖で煮て冷凍しなくても少しは保存がきくようにしましょうか」
遥が提案して、香はよく分からないまま頷いた。香が住んでいる山の上の別荘の管理人である遥は、屋敷の勝手をよく知っている。台所にいって迷うことなく探し出した大鍋に砂糖をこれでもかと投入していちごを煮た。遥がやることを隣の大鍋でまねて後をくっついて歩きながら、煮込んだいちごを冷まして冷暗所に移せるまでと二人はリビングに移動して、とりとめのない話をはじめた。その間に昨年梅を漬けたガラス瓶いっぱいのおいしいイチゴの砂糖煮が完成するはずだ。いちごの旬は過ぎたが、果実町はほとんど年がら年中いちごの収穫行われて、地元産のいちごが出回っていた。
「かえるくんにいちごをたくさんもらったの。かえるくんもいただきものらしいんだけど。くばってくれと言われたから。まだ3ケースくらいあるんだよ」
香にひとケース渡したのも、すべて消費するのを期待したわけでなく配ってほしかったかららしい。香は以前にみかんの収穫を手伝ったことがある。その時遥が持ってきてくれたコンテナケースには5キロのみかんが入った。おそらくそれに近いくらいというと40キロのいちごをもらったということだろう。そんなことをするのは果実町の副町長の杉山だ。親切心か嫌がらせか杉山はいつもこの貸庭にトラックの荷台いっぱいに果物を持ってくるのだ。
「それなら、ハルさんが食べられるだけとって残りの3ケースもらおうか。全部くばっちゃうよ」
「そうしてもらえる?助かります」
遥は香と知り合って数年経ってもまだ年下の香に対して口調が固くなることがある。だが、子供に対してさえ敬語を使う遥だから、ある程度砕けた口調で距離を測ろうとするのも遥が香を友達と認識してくれている証だと長くなってきた付き合いで分かっていた。話し方だけで、相手との距離感が分かるわけではない。スマホで文字上の連絡することに慣れて滅多に電話しない香はそう思う。文字で打つときはどうとでも取り繕える。4年も合っていない友人とも今でも親しい仲のように振舞える。
いちごのお返しのつもりはなかったが、香は昨日買った遥が好きそうなイラストのプリントのTシャツを渡した。遥は「私はいただきものを渡しただけなのに。おまけに全部くばらせちゃうし」とすまなそうにしながらも喜んで受け取ってくれた。変に気構えたりせず、「庭作業するときに着ようかな」と言ってくれたのがうれしかった。
「ほら、黄色もかわいいでしょ。何色にするか迷ったんだけど、ひとつハルさんに渡そうと思って」
「うん、黄色は香さんによく似合うね。ジーパンも」
Tシャツジーパン姿がよく似合うと言ってもらえる。今の生活が香はとても好きだ。香も遥にあげたものと色違いのTシャツを買った。遥には緑色で、自分用がオフホワイトに近い薄い黄色だった。かわいかったので朝になってすぐに着てみた。都内で働いていた時には、平日すら知り合いに会った時のことを考えて服装に気をつかっていた。ほぼ全身ブランドに身を包んでいた。気に入ったものを買ったつもりでも、他人の目には高級品過ぎたり、安物に見えたりと気をつかうことが多かった。「仕事にスカートなんて」と言ってきた先輩がいて、なんとなく気になってパンツスーツしか着られなくなった。初任給で気に入って買ったビジネス用のスカートもすべてタンスの肥やし。ヒールが嫌いなのに、毎日ヒールで通勤して足にまめを作っていた。
移住してよかったことは、以前ほど身なりに気をつかわなくなったことだ。いや、気をつかわないという言葉は語弊がある。好きな服装ができるようになった。シャネルの財布を町の人に習って作った手作りのバックに入れて、夏の休日に出かける服はブランドも知らない淡い色のワンピース。千円のTシャツを色違いのお揃いで職場の友人である遥と着たりする。一般的な果実町の・・・いや、本当にどこにでもいる自分が思う理想の女性の姿をしていた。『山鳥』の娘だということは、誰かが言わないと気づかれないほど垢抜けた。果実町に溶け込んだと香は最近自負していた。
同じ貸庭で働く年上の同僚の遥ともこうして気の置けない友人になれた。以前は同じ職場の人と友人になることはなんとなく考えられなかった。遥は夫の霞と同じ高校出身の同級生だ。学生時代もそこそこ言葉を交わしたことがあったらしく遥の様子を見て、霞のことを信頼できるようになった。
「それでね。献立が分からないと買わないでいい食材が分からないって言うの。普通、逆じゃない?献立が決まらないと買うものが決まらないよね。でも、ここは折れて、かすみくんに完璧な献立表を突きつけてやろうと思ってね!明日のごはんは何がいいかな?」
はじめての夫婦喧嘩の内容を話すと、遥は困惑した表情を浮かべた。新婚の二人がまだ同居しておらず、家で会うと霞がほとんど料理を作ることを知っていた。今日に限って朝食を作って待っていたのは、食材のあまりを指摘するためだったのだろう。しかし、果実町に住んでいれば、野菜や果物のいただきものは免れ得ない。食材を余らせないようにするというのは困難だった。もったいないという香の言い分はよくわかるけれど、遥の実家でも子供の頃から食材を余らせて腐らせることはよくあった。最近ではごみ処理機を買って、残飯はなるべくたい肥にしていると聞いていた。それに甘えるというわけではないけれど、たった夫婦二人暮らしの実家に「余ったらくばって」と遥はよくいただきものを実家におすそ分けに行くのだ。
「献立のことならカエルくんに聞いた方がいいかも」
自分では答えあぐねて、遥はカエルに返答を投げることにした。カエルというのは通称で、もちろん本名ではない。本名は井中かわずというが、かわずの言葉の意味を説明するとたいていはカエルと呼ばれるようになるというので、誰かに自己紹介する時は必ず「カエルと呼んでください」と前置きするのだ。遥たちが働くこの冨居家の別荘地では、一昨年から貸庭の事業を行っていた。その運営に携わるスタッフの一人であるカエルは昨年オープンさせたレストラン『かえる亭』で厨房スタッフとしても働いていた。名前の通り、数年経てば『かえる亭』は彼の店になる予定である。今でもメニューのほとんどは彼が考えていた。『かえる亭』は不定休で週に三日以上営業している。休みの日でもカエルは毎日料理しているので、いちごを大量に持っていけば何か作ってくれるに違いなかった。とはいえ、すべてそのままというのも気が引けて、二人はさらに追加で1ケース分、いちごの砂糖煮を作った。
「カエルくんなら、いちごで何か作ってくれるもんね。もしかしたら、新作のフルーツフレーバーティーのヒントになるかも」
台所でいちごの鍋を見つめながら、香がうきうきと言葉を弾ませた。遥はいちごと一緒に持ってきたパンを頬張りながら適当に相槌を打った。そのシナモンロールも昨夜もらったカエルの手製だ。レストランメニューのパンは仕入れているが、カエルはパン作りも趣味でよくしていた。カエルのところに行くのならパンをつままなければよかったと遥は後悔した。
「わあ、わざわざ煮込んでくれたのか。じゃあ、果肉はデザートかトーストに乗せるとして、シロップはいちごミルクにするよ」
案の定、カエルに朝食をすすめられて、遥は顔が引きつった。ここ1か月で体重が7キロも増加したのだ。自炊もしてカエルの料理を毎日食べていればそうなる。見た目のことなど気にしないで生きてきたつもりだが、香もカエルも霞も体重増加の様子など見られないから、さすがに自分だけ太っていくことが気になっていた。
「おはよう。ハルさん、香さん。じゃあ、カエルくんが朝食を作る間に外作業でもしようか」
カウンター席でハーブティーのカップで冷えた手を温めながら、カエルの祖父の野人だ。野人に促されて、二人は貸庭と屋敷の庭の見回りに出た。
「ふう。雨でむしむしして暑い。かっぱが鬱陶しいね」
香に声をかけられて、遥は曖昧に相槌を打った。小雨に打たれて、手首が濡れる。冷気が袖口から全身に伝わって、寒いくらいだった。
代謝が悪いからみんなより太りやすいのだろうか。遥が億劫げに「猫部屋を見てこようかな」と言うと「もうごはんあげて、トイレもそうじしたよ」と香が答えた。香の朝は早いのだ。寝るのも早いが、おそらくショートスリーパーなのだろうと自分で思っていた。
「雨で草むしりがしやすくて、楽だね。ほら、湧水さんも来たな。庭作業したあとは、いつもの温泉かな」
80歳を過ぎた野人は手慣れたもので、遥と香の倍の速度で次々と作業を終わらせていく。野人が作業した場所は不思議と植物がよく香るようになる。雨で土臭い蒸気が野人の”みどりの手”によって洗われるようだ。
「晴れの日もいいけれど、雨の日も野人さんの庭は夢のように美しいですね。このあと、温泉も夢心地で入れます」
「まずは、かえるくんのごはんを食べてからにしなっせ」
「いいですね。創作意欲が湧きそうだ。ハルさん午後も仕事があるなら、空けますよ」
「なら、1時から、2,3時間お願いできますか。野菜の収穫や花摘みをしときたいんですよ。今日は新規で貸庭をレンタルされるお客さんを2件案内しなくちゃいけなくて」
「いいですよ。ハチくんが受付とその間電話番してくれるかな」
「俺が庭に出て、湧水さんが受付した方がよくないですか」
「俺は人見知りなんだよ。それに今日は庭に出たい気分だから」
「なるほど」
ハチが納得したところで、そろそろ作業の手を止めて立ち上がった。早朝にロッジから出て庭作業をしていた人たちも、まばらになった。レストランカエル亭が開くのは午前9時からだ。その前に午前6時から開いている温泉に行く人も多い。最近売店も作ったので、レストランでなくそちらで弁当を買って食べる人もいた。オープン時間前に香たちスタッフは『かえる亭』で朝食をすませなければならない。
湧水はかつて一世を風靡した漫画家で、長いこと引きこもり生活を送っていた。数年前から再び漫画の連載をはじめて、そのモデルはここの貸庭とスタッフだ。ハチは本名を林田九州道(はやしだ くすみち)という。覚えづらいので客に分かりやすいように皆日ごろからハチと呼んでいる。湧水の漫画の連載再会にあたり、今年から雇った湧水の漫画のアシスタントで実家が農家であったことから、貸庭のスタッフもかねてもらっていた。ネットの機能に詳しいので、貸庭のSNSの担当もそのうちに遥からハチに譲る算段だが、まずは仕事に慣れてもらうために様子を見ている。
一方、カエルは香と同じ4年前にやってきた移住者だ。出身は埼玉県で、香の住むこの別荘の山の庭を手入れしている庭師・野人の孫である。野人はかえるの父方の祖父だ。当初は不動産会社で働いていたが、香と遥たちがはじめた貸庭の事業を手伝ううちにそちらの仕事に熱心になり、ついには趣味が高じて貸庭でレストランを開くまでになった。飲食店で働いた経験がないので、今はまだ果実町で別の飲食店を個人で経営する人に手伝ってもらっているが来年まで店が続けば、晴れて『かえる亭』の責任者になる予定である。今は名ばかりの香の預かりになっていた。しかし、東京で働いていた時も、移住してからも香は滅多に自炊はしない。夫の霞が料理するのをたまに手伝うくらいだった。
「そういえば、毎日の献立をカエルくんに考えてもらったら、結構料理が本格的になりそうだよね。私の料理の腕前じゃ荷が重いかも。霞くんも料理が好きだから、任せた方がいいのかな。でも、そうすると、ますます我が家から食材が減らない気がする」
レストランに向かう前に事務所で片付けと着替えを済ませながら、香は朝の相談を思い出して遥にこぼした。カエルは凝り性で、簡単な料理と言っても、香の考える簡単とカエルの考える簡単レシピではかなりレベルの差がある可能性もある。
案の定、献立のことを相談すると、カエルは完璧な朝ごはんを提案してきた。野菜の味噌汁と漬物に和え物、炒めものなど朝晩作って、霞が実家の仕事に行くのに弁当を持たせればだいぶ野菜を消費できるだろうというのだ。香は本格的な漬物など作ったことがない。市販の浅漬けの素を使ったことがある程度だ。それも1度きりのことで、たいていは漬物も果実町の誰かからおすそ分けしてもらうので、収穫した野菜で漬物を作り自分の下手なものを果実町の人ににおすそ分けすることはありえなかった。カエルに相談したのは失敗だった。
貸庭で香もハーブを育てていることを知っていながら、ハーブソルトを大量に持ってくるカエルに、家の食料を減らしたいと相談して通じるわけがなかったのだ。霞もカエルも凝り性でものをため込むたちのようだ。
「そういえば、カエルくんのハーブの売り上げはどうなっているの」
思ったようなアドバイスを得られずに、表情が曇っていく香を見かねたのか、遥が話題を変えた。
貸庭で育てた植物は借りている人が、レストランと温泉施設内の販売所に卸して売ったり、あるいはそこからネット販売など行っている。その利益は手数料を引いた分は基本的にお客さんのものだ。
一方で、あまりがちなのがハーブだった。乾燥させてハーブティーやハーブソルトにするのもいいが、それでも間に合わずに梅雨のこの時期は切っても切っても草丈が伸びるハーブもある。そのハーブの切り苗をネット販売して、猫の飼育費用に回そうと今年の春に考えたのは遥だった。遥は運転が苦手なので、ほかの生鮮野菜を発送するついでに、ハーブのネット販売も試しにカエルが担当することになった。遥は1週間に一度程度も山を下りない。
「うーん。GW前から割と売れているけど、それでも週に包装や送料ひいて数千円の利益かな。これで週に1万円くらい売り上げられたら、猫たちのごはん代くらいにはなるかもしれないけど、病院代とか飼育費用には遠く及ばないかな。手間もかかるし」
猫の飼育費用に切り苗ハーブの売り上げをすべて回してもごはん代にもならないのだ。ハーブの切り苗など数百円程度でしか売れない。種についても同様だ。カエルはドライハーブをネットと店舗で売った方が手間も減らせて効率が良いと考えていた。
貸庭では昨年から保護猫活動を行っていた。譲渡できなければ、広いこの山の敷地でそのまま飼えばいいと香は当初単純に考えていた。しかし、民家の少ない山の中で猫が迷えば最悪餓死してしまう。交通事故に遭う可能性もあるということで、猫部屋を作ることになった。庭師の野人は建築士であり、動物好きでもあるので、その猫部屋のデザインも大変凝っている。猫たちが遊べる場所も増築していたが、先日その作業中に足を怪我して猫部屋の作業は中断している。しかし、今でも十分猫たちは快適そうだ。一ついえば、猫1匹ずつの隔離部屋がもっと欲しいところだが、それはケージを買えばいい。何より野人の作るものは人間の目を楽しませた。野人がデザインした貸庭の事務所は町の人たちから妖精小屋と呼ばれている。
「助成金なしで動物の保護活動するって難しいことなんですね。結局はボランティアか。猫カフェするには、人馴れさせないといけないですものね」
香はカエルの話を聞いて溜息をついた。今は県の動物保護団体に協力をあおいでいる。いかんせん同じ県内とはいえ、愛護センターや保護施設は果実町から遠い。高速道路を使って移動せねばならず、今はまだ保護団体の設立と地域猫活動を目指しているところだ。どちらも助成金が出るが、それで十分に動物の保護資金に足りるわけではない。ハーブの売り上げの一部をゆくゆくは野生動物の保護や害獣駆除の資金に充てたいという香の思惑は夢のまた夢だった。
「母さんの言う通り、新商品のうちの酒の売り上げを猫の保護活動の一部資金に充てるのがいいんじゃないかな。一つのことにこだわらなくても、酒とハーブとほかに必要に応じてクラウドファンディングするとか資金の調達方法はいろいろあるんじゃないか」
霞の言うことはもっともだが、香は素直にうなずけなかった。助成金ですべてのお金をまかなうことはできない。かといって、クラウドファンディングも永続的にするわけにはいかない。その目的が必要だ。世の中に猫の保護活動をしたい人はあふれている。結婚生活が永遠なら、夫の実家に猫の保護活動について頼ることはありだろう。売れているものの売り上げに頼ることは一番だ。霞の母の夕は実家の霧山酒造の名を全国に知れ渡るようにした手腕の持ち主だ。香と霞の結婚になんの反対もなかったどころか、祖父母が大歓迎していたのは、その霧山酒造の手腕を買っているからだ。
けれども、香は万が一自分たちが離婚してしまったらということを考えてしまう。それで、その酒の販売をやめるということはないにしても、一緒に猫の保護活動をするのは離婚した後では気まずいのではないか。
とはいえ、お酒の売り上げの一部を猫の保護活動の費用に充てるのはてっとり早い手段だ。香の実家の『山鳥』にもロングランの商品はあるがその収益を特定の地域に還元しすぎることについては会議で異論も出るだろう。『山鳥』の本社を果実町に移す計画があるから、それが実現できてから話をすすめればいいのだ。ただし、本社が移ってから話を進めるとなるとあと2、3年以上は先の話になる。
「ねえ、『緑の手の組合』で料理教室を来月4回ほどやるらしいんだけど、ハルさんも参加しない?煮物づくりだって」
結婚もしたことだし、花嫁修業がてら料理でも習った方がいいのかもしれないと思っていたところ、姑の夕に料理教室に誘われた。講師役が夕なのだ。夕はイベントごとをやるのが好きで、しきりたがりだ。姑との距離感をまだ測りかねているが、頼み事をするなら親睦を深めておきたかった。しかし、一人で参加するのは気が引けた。
「いつやるの?」
「月曜日の10時から90分だって。どう?」
「うーん。月曜日の午前中空けられるかなあ」
「受付なら自分がやっておきますよ」
悩む遥にハチが助け舟を出した。
「そう?じゃあ、お願いしますね。私も参加するよ」
「よかった。ヤマさんが軽く話をしてくれてると思うけど、改めてお願いするのは私ひとりじゃ心細くて」
「まあ、ハーブの方も6月いっぱいは販売を続けてみるよ。秋はまた忙しいから、冬にドライハーブをネット販売して様子見かな」
「そうだね」
カエルが言ったことに遥が静かに同意した。息のあった二人だ。
香と霞が結婚したように、二人もそうすればいいと思うことがたびたびある。けれども、そういう話を二人は好まないので周りはついに言い出せない。いや、言われたことはあるだろうが、二人はおそらく無反応を貫いている。二人が結婚して貸庭の事業を『山鳥』から受け取ってくれたら、香たちも仕事が減る。果実町に来てから香はやりたいことにあれこれと手を出してきた。最近は結婚が決まった頃から手に余ると考え始めた。
今は実家の『山鳥』の仕事の一部が果実町に住む香たち夫婦に振り分けられてそれに手一杯だ。貸庭の仕事に割ける時間はどんどん少なくなっていた。今は半分余暇の趣味のような気分でやっているから何とかなっている。けれども、休みが欲しいと思いだしたら、東京にいた頃みたいに心が壊れてしまうのではないかと香は怖かった。
自分のこの町での役割を香はだんだんと意識しはじめていた。『峠道の貸庭』と実家が経営する旅館のスタッフと夫が任された『山鳥』の商品開発部門に関わり、保護猫活動をしている。香はいわば果実町で山鳥が展開する事業を果実町の住人に紹介して理解を求める橋渡し人ではないだろうか。
「このいちごミルクといちごのマフィンすごくおいしいよ。お持ち帰りしていいかな。仕事の合間にどうしても甘いものがほしくなるんだよね」
湧水が頼むと「残り全部いいですよ」とカエルは嬉しそうに6個のマフィンをジップロックに包んだ。さらにいちごのシロップを瓶で渡そうとしたところで、ハチがストップをかけた。
「健康診断で糖尿病予備軍だって言ってましたよね。毎日いちごミルクはまずいでしょう。飲みたくなったら僕がもらいに来ますよ」
「ええ?自制するからさあ」
湧水が口を尖らせたのを誰も相手にせず、カエルはシロップを映しかけた瓶をひっこめた。湧水は酒をよく呑む上に甘党でもある。40代で独身。ハチの言う通り、そろそろ生活習慣病が心配だ。ただでさえ、椅子に座って机に向かう時間が長い漫画家なのだ。
「冷蔵庫においとくのは目の毒だと思います。夜ここまで食べにくればいいじゃないですか」
「うーん、今日は庭作業にも出るからなあ。夜はさすがに少し漫画を描かないと」
「野菜スティックはどうですか?夕方作業終わりによってもらえたら、バーニャカウダソースを作って渡しますよ」
カエルが提案すると、湧水は瞳を輝かせて頷いた。
「バーニャカウダソースを作るなら、アンチョビをつかうよね?アンチョビでパスタ作ってくれないかな。アンチョビパスタ!適量でいいから。お願い、どうしても食べたいんだよ。そうしてくれたら、ここで販売するポストカード描くよ。主にハチくんが」
「ちょっと自分の欲望のためにアシスタントを差し出さないでください」
ハチがすかさず、つっこむとどっと笑いが起こった。
「別に対価なんて差し出さなくてもパスタは作りますよ。代わりに漫画の俺の登場シーン減らしてください」
「いやだよ。カエルのレストラン好評なんだから」
ハチに乗っかってカエルがからかうと、湧水がわざとむっとした顔をした。
「カエルの藪蛇だね。出番が増えそうだ」
野人が言うと、また笑いが起こった。和やかな朝だ。
昨日のように少し遠出して出かけるのも楽しい。しかし、平日に幸せを感じて過ごすこと以上のものはないと香は思うのだ。
その日は気分がよかったので、湧水を手伝って久々に貸庭の手入れをした。昨日の雨がうそのように晴れて、別荘の前にはのクチナシは白い花を黄色くしぼませ、紫陽花も心なしか茶色い花弁が増えたようだ。日中の気温が30度を超えて、野菜の収穫や花の剪定がてら打ち水をした。別荘の前庭は洋風のレンガ造りでそれほどでもないが、裏庭の日本庭園で石造りの場所が多い。石畳の上に水を打つと黒く重たくなった石にしみこむ前の水が鈍く太陽を反射した。
日が傾いて来た頃に、出版社から電話があって湧水が庭作業から抜けてしまった。湧水の代わりに香が夕飯を取りに行くことにした。ハチが自分が行くと言ってくれたが、香が私が行くと言い張った。代わりに行けば自分の分も夕飯がもらえるかもしれないからだ。その変わり、レストランの手伝いを少しだけするつもりだ。
その前に、猫部屋によってみると野人が猫たちと遊んでいた。すでにエサやりもトイレ掃除も済ませたそうで、サインだけしてなかったので代わりに野人の名前を書いた。そして、野人と一緒にカエルが働くレストランに行くことにした。
遥は夕日の中に飛ぶ夏トンボを眺めて歩きながら、ふと自分はこの町の橋渡し人というたいそうなものではなくて配達人ではないかという気がした。「代わりに取りに行きますよ」と言ったら、喜ばれる。それは自分に対する周囲の信頼の高さではないかと思うのだ。実際には非力で体力もないので配達業の仕事を本業にはできないが、生まれ変わったら配送業者で働くのもいいななどと夢想する。来世も人間なら絶対に男性に生まれ変わるつもりだ。
「2時間ほど手伝ってもらったら、助かるよ。そのあとはハルさんに頼むから。野菜スティックは切ったやつがたくさんあるんだ。透明のプラスティックのカップに勝手に詰めてくれるかな。ソースは小さい透明のカップに・・・。そうだ。ソースをこう器に移すのをやってくれるかな。お客さんに出すんだ」
「わかった。えーと、このレシピは」
忙しくやってくる客をさばいているカエルの隣でエプロンをつけて厨房に入り、香はソースの容器の隣に一枚の紙きれを見つけた。
「手書きで悪いね。俺、字が汚いから、読めなかったらごめん。バーニャカウダソースのレシピを書いたんだ。俺なりのアレンジが入っているやつ。ハーブを使ってさ。俺が作って渡してもいいけど、献立に困っているって言ってたからさ。この夏重宝すると思うよ。それなら、アンチョビフィレを買うのにヤマさんも買い出しに行けるじゃん」
香が何気なく言った愚痴をカエルは真剣に聞いて考えてくれたようだ。香も結婚して霧山の名字になったが、みな霞のことをこれまでヤマさんと呼んできたので、香も含めてヤマさんと呼んでいる。結婚前、霞は冨居家の婿養子に入ってもよさそうな口ぶりだった。ただ、香が3人兄弟の末っ子で本来なら霞が『山鳥』の経営に携わる必要もないので、はっきり口に出して言いづらかったようだ。香は別に会社を継ぎたいとか継ぎたくないとか何も考えてない。無責任かもしれないが、本当にどっちでもいいのだ。結婚する時こういう宙ぶらりんの人間には夫婦別姓が必要だとつくづく思った。霧山の名前で創業者一族として会社を継いだら、説明が面倒くさいと将来を憂えたのだ。しかし、霞は長男なので面倒事を避けたい気持ちから「お嫁に行くつもりだから大丈夫」と答えた。霞は香と結婚するまでは、弟に実家の霧山酒造を任せる気でいたようだ。香と結婚することになって「俺は役員でもいいよ」と弟は言ったらしいが、これまでずっと経営者になるつもりでいた弟を押しのけることは霞にはできそうにない。積極的に継ぐのが嫌なわけではないだろうが、やはり霞も香りと同じ中途半端な気持ちでいるのだった。だからこそ、忙しい合間を縫って本業以外の仕事に取り組むのが二人とも楽しいのかもしれなかった。
「アンチョビは買いだめしないで、毎週買うように霞くんに言うわ」
香は帰り際、カエルにお礼を言って、たくさんの野菜スティックとソースを包んだ風呂敷を両手に抱えた。
「口にあえばいいんだけど、4回は料理教室に行けそうにないだよね。俺も夕さんに煮物とか漬物の作り方を習いたいんだけどさ。習ったらさ、どこがポイントだったか教えてくれたら、助かるよ。そして暑くなったら、みんなで川釣りに行かないかな。ハルさんには断られたけど、ヤマさんなら付き合ってくれないかな。無理だって言われたらみんあでBBQでもいいや」
「伝えとく。いろいろ気をつかってくれてありがとう。釣りは分からないけど、BBQの映画観賞会は喜んで参加する」
遥が参加しないなら、香も川釣りはパスだ。昨年は遥の参加しなかった、登山や紅葉狩りに行って散々な目に遭った。ハイキングと野人は言ったが、足場の悪い場所ばかりで落ちたら死ぬんじゃないかと怖かった。80代の野人が行くならそんなに危険でもないだろうと高を括っていた。田舎の人の剣客ぶりを侮ってはいけない。
レストランを出ると、カランカランといつもの玄関先のレトロな呼び鈴が鳴って、それが星の音みたいで香はつい夜空を見上げた。すると、流れ星が見えた。少し視線を落とすと、庭の奥にホタルが飛んでいるのが見えた。山道は虫がまとわりついてうっとうしいけれど、小川のホタルは歓迎だ。湧水も山の下に家があるのに、ホタルが見られる間はこちらにいたいと貸庭でやっている宿泊施設の一棟建てのロッジにとまり婚でいた。
届け物をする道々、香はまた物思いにふけった。香は忙しくレストランのスタッフの仕事をこなしている間も、頭の中ではいろいろなことを考えていた。昔から体を動かしている時の方が頭が働くのだが、体力がつかないのでその体を動かす時間が長く継続しないのが問題だ。そして、果実町に来る前は机やパソコンに向かってうだうだと後ろ向きなことを考えていた。果実町に来てからはハーブで手作りのアロマを作ることに凝っていて、アロマを焚いているおかげか少しリラックスできる。ただし、猫を保護するようになってからその頻度も格段に落ちていた。
腕に抱えている野菜スティックの入った方の下の器は冷たく、上に乗せているバーニャカウダソースの器は生温かった。カエルは意識してか知らずか生鮮食品のいただきものには、加工品か手作りの何かをお返しするようにしているようだ。カエルも結婚後の香のようにレストランをはじめてからいつも誰かに何かをもらって返している。そして自分でも贈り物を用意たいのだが、ちょうどいい料理を作ってないこともある。そういうときは、香や霞に頼むのだ。いただきものを香たちに渡して、貸庭から何かお返しできないかと打診してくる。そのお使いを頼む代わりに香たちには保存のきくものを日ごろ渡しておけばいいと考えているから、とんでもない量のハーブソルトを渡すようなことになる。それも誰かに配ってもらえばいいと楽観視している。香たちはさながら物々交換の配達人だ。霞の実家の焼酎をお返しすることもあれば、地元の菓子屋で何か買って返すこともある。香たちが果実町の和菓子屋と洋菓子やで行ったことがない場所はもうない。しかし、霞は香と結婚するまでは和菓子屋に行ったことがなかったと言っていた。
果実町ではいただきものにお返しをするとまたお返しが来ることが多い。お返しのループだ。そのために香は、いただきものをお裾分けしたい人をいつも考えている。
香は数年前に東京から九州の南の山間地に移住した。果実町というその名は平成の市町村合併に際して特産品のくだものがアピールできる町名として考えられた。果実町は盆地にあり、水資源が豊富で寒暖差が大きく美味しい果物の生産に向いた土地だ。その果実町の果物に目をつけたのが、香の祖父でその頃には飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた飲料メーカー『山鳥』の創業者であった鷹之だった。果実町は果物の産地である一方で、水害が多く毎年台風で果物をはじめとした農産物が甚大な被害を受けていた。その傷んだ果物をドライフルーツや砂糖漬けにして紅茶に合わせる新商品を売り出す事を鷹之は思いついたのだった。市町村合併と水害で果実町の名がたびたび新聞紙面にあったのが、鷹之を閃かせた。
ピンチはチャンスだ。事業がうまくいったら、地方振興に貢献したいというのが鷹之の念願だった。戦前子ども時分、中国で食べた梨の味が忘れられなかったのもある。果実町に実際に来て梨の味に惚れ込んだのも鷹之の志の実現に火をつけた。
宣伝広告に費用をかけた割に一過性のブームで鳴かず飛ばすだった商品もパッケージデザインにこだわり、有名漫画家の湧水を起用した事で再度ブームを起こすことに成功した。利益が出ることが確実になると、鷹之はその利益の一部を速やかに果実町の教育や介護などの福祉の支援に充てるようにした。果実町は鷹之の理想が詰まった町だった。ブームの頃すら一回も訪れた事がなかったのに、香が思い切って果実町に移住を決めたのはほんの気まぐれだった。
鷹之が果実町の使い道のなかった山の上の重要文化材の建物と母が温泉地でもある果実町の旅館経営に興味を持ったタイミングも良かった。
「経営不振だそうだけど、川辺の景色の良い旅館が一つあるのよね」
「お母さんがそこを買ってくれたら、私が果実町に行って働くよ」
重い腰が上がらずにいたが、かねてから果実町に興味があったところに母が水を向けて来たので、ダメ元で母にねだってみたら、母は乗り気になってその日のうちに行動を開始した。
数ヶ月後には新しい旅館運営の準備が整ってそそくさと母について果実町に来たのは、社会人3年で都内で広報の仕事をする自分に限界を感じていたのも動機として大きかった事だろう。その時に抱えた体調不良はなかなか回復しないものの、果実町では以前よりはうまく自分の体調にうまく付き合っている気がした。それまでの人間関係を全て放り出して、未練も懐かしさも感じていない。
それでいながら、香は未だ自分が東京であんなに嫌だった広報の仕事をやっているような錯覚に陥る事がある。あの3年で培ったものが、香が果実町で活かせた全てだった。少なくとも、移住1年目までは。
その潮目が変わったのは、果実町で『峠道の貸庭』の事業を地元の人と共同で興してからだ。少し年上の友人たちと過ごしたこの3年で香の環境はずいぶんと変わった。都会の人間関係を捨てて来たような自分が、まさか田舎で新たな人間関係を作って数年で結婚まで漕ぎつけるとは思っても見なかった。
峠道の貸庭は、鷹之が買い取った別荘に付随する広大な山で、ガーデニングや家庭菜園を楽しむだけの敷地が家にない人に庭をレンタルする事業だ。別荘の管理人だった遥の思いつきを今は夫となった霞とその友人の井中蛙とで焚き付けて、遥を半ば強引に別荘と庭の管理人にすることで実現した。
大学卒業後は東京など大都市で転職を繰り返して10年ほど働いていたという遥は、都会生活かはたまた普通に働くことに疲れたのか、鷹之の別荘の管理人になって住み込みで働いて、引きこもりというか、それまで仙人のように暮らしていたようだ。それが香たちに巻き込まれて、ついには山鳥のフルーツフレーバーティーの商品開発に関わり、今年の春に売り出したその新しいフレーバーは国境を超えてヨーロッパで大ヒットしている。日本でも最近ブームに火がついて、生産が追いつかない状態だ。
そんな友人がただただ誇らしかったのも束の間、山鳥の商品開発部門が果実町に移って来て、その責任者になった夫の霞は遅ればせながら最近マリッジブルーに陥っていた。商品開発部門の移転が成功したら、本社も果実町に移すと鷹之に聞かされて気が重いのだ。加えて、友人の遥が果実町開発フレーバーティーでいきなりヒットを出してしまったから、余計にプレッシャーを感じていた。
これで「将来、あなたが山鳥の社長を任されるかもよ」なんて香が囁いたら、腰を抜かすかもしれない。香はその可能性が高いと思っているが、それは向こう10年の霞の成果次第ということになるだろう。鷹之は香たちが立ち上げた『峠道の貸庭』の事業を大変高く評価していた。
「仲間と楽しんで作った仕事だ。30代で予後を考えるその先見が素晴らしいじゃないか」
鷹之はなんなら遥を山鳥の役員に迎え入れても良い考えだ。しかし、遥が明らかに山鳥の事業を深く関わる事に気遅れしているようなので、言い出せない。遥を山鳥の社長にすることなど夢のまた夢。諸葛孔明より太公望の方が遥の性に合うので、次点で霞を宰相に迎え入れる考えのようだ。しかし、その次点と宰相の候補はずらりと並んでいて、霞は知らずうちに彼らと競わされているのだった。
ちなみに香もその候補の一人だろう。しかし、鷹之は出来れば直系を後継から外したいようだ。息子に継がせたのを後悔しているのかもしれない。父のどこが鷹之の眼鏡に叶わないのか、或いは父以外の親族もなぜ経営から一歩引いているのか、香にはよく分からない。しかし、家族経営が歓迎されないのが世の中の風潮だと感じているので、自分が事業を任されたいという薄い望みを抱きつつ、本当に夫や自分が任される事を恐れて、遥のあまり関わりたくない態度に安心していた。
遥が貸庭の事業と商品開発にやる気になってしまったら、本社移転も後継の決定も思いの外早くなってしまうだろう。昨年、兄が海外で研究の職に就いたので、香の心は揺れていた。兄弟はもう一人いるが、姉も海外に嫁いでおり、香に輪をかけて丈夫でない。従兄弟たちはやる気かもしれないが、全員香よりも年下だ。
しかし、仕事について将来を夫と憂いながら、香の果実町での暮らしは新婚になっても充実していた。結婚すると田舎の人は気安くなるようだ。以前よりもっと周りとの距離感を心地よく感じていた。
将来は重荷を負うかもしれない。しかし、今は都会に置いてきたものが多く、香の背中には翼が生えていた。
蒸し暑い夜風すら心地よく感じる。
湧水に届け物をした直後にズボンのポケットにしまっていたスマホが振動した。ポケットから取り出してみると、霞から電話がかかっていた。
『いま、どこ?』
「庭を散策しているところ。もうすぐ帰るよ」
『危ないから、気を付けて。玄関先に出とくから。このまま電話も切らないで』
霞は心配性だ。この辺鄙な山の中で何が起こるというのだろう。夜道といっても冨居家の敷地内。夫の電話で、そういえば生まれて初めて夜の庭を散歩していると気づいた香はうれしくなった。それほどの平和がこの山にはある。女が自立できるのはこういう平和な夜の山の中なのかもしれないなんて明後日なことを考えているうちにすぐに屋敷の前についた。玄関先では霞が気づかわし気に腕を組んで待っていて、香の姿を見つけると顔を綻ばせて駆け寄ってきた。いい夜だ、と香は改めて思った。
夏野菜とバーニャカウダソース
かえる⇔湧水
カエルはレストランの厨房スタッフでありながら、貸庭のお手伝いのスタッフとしても忙しく働いている。しかし、カエルが一番忙しそうに見えるのは仕事をいろいろとかねているからではないだろう。貸庭の管理人である遥の雑務は多岐にわたっており、霞と香の夫婦は貸庭のスタッフに加えて旅館の中居や実家の酒造会社の従業員や町の役員の役割などもこなしている。湧水に至っては、漫画家と貸庭スタッフという二足のわらじを大成させている。ハチは貸庭の仕事と漫画のアシスタントと自分でSNSの講習に通っていた。みどりは親の介護をしながら貸庭で働いており、自身も60代の高齢に差し掛かっている。語学堪能で外国人観光客の対応はみどりに頼りきりだ。しかし、その貸庭メンバーをしてカエルが一番忙しそうに見えてしまうのは、彼が体を動かしていないと気が済まないからではないかと香は気づくようになった。
「どう、ハルさん、こんな感じでいいかな?」
「うん。すっきりした。ありがとう。自分じゃ後ろの部分は分からないから」
香が背後から声をかけると姿見の前で遥が晴れやかな笑みを浮かべた。愛想笑いかもしれないが、香は自分の出来に満足して、遥の肩にかかった髪を払った。バスタオルを首回りに巻いても、不十分だったようだ。体にたくさん髪の毛がついた。
「もう十分だよ。このあと、シャワー浴びるから。片づけくらいは自分でする」
作業したのは香だが、遥がほうきを取ってそう言ったので、香は遠慮なくエプロンを外した。
「カエルくんのところに、追加でバーニャカウダソースをもらいに行くの。すっごくおいしかったから。ハルさんもいる?」
「ううん。まだ、冷蔵庫にあるから。同じのレシピを見て作ってみたんだ。でも、カエルくんと同じ味にはならなかったなあ」
遥は残念そうに溜息をついた。同じ味にならないなら、やっぱりソースをもらえばいいのにと思うが、遥はレシピをもらったら作らなければならないと思うタイプだ。香も湧水もはなから作る気はない。もらえなかったら、作ることを考えればいいのだ。作る気になれなかったら、それまでだ。買うか、味を思い出にしまって縁がなくなるだろう。
遥とカエルは常に何かやることを頭の中で考える。何かしてなくても、何も考えていないと落ち着かない。疲れやすいのはそのためだ。のめりこみすぎるのだ。仕事の量を減らして、家でダラダラ過ごしていても、好奇心を抑えられない、子供心を持った人たちだ。香も二人から影響を受けている。果実町に来るまで趣味に時間を費やすことなど考えられなかった。
雨上がりの日の光は強かった。じりじりと肌を焼く太陽だ。
香は袖の手の甲まで引っ張って庭を歩いた。転居なんてしなくていいと思うくらい美しい庭だ。住みづらいのは事実なので、引っ越すつもりはある。けれども、この庭を遥に渡すことに実はためらいもあった。遥にいますぐ渡す心の準備ができていない。ここを出たら、貸庭に来ることも減ってしまうのではないか。新居でいちから庭を作るのが楽しみでもあり、怖くもある。
ここの庭を目指したら、迷走しそうだ。
遥も一緒にかえる亭に行くことを誘うことも考えたが、やめにした。遥とカエルを無理にくっつけようとしても二人の人生にその余裕があるのか、ないのかわからない。管理人の仕事や趣味のことで頭がいっぱいなのだ。
遥は出不精だ。本人のその自覚はないらしく、散髪に行かないのも「どの店に行っていいかわからないから」などという。果実町に生まれた頃から住んでいるのにだ。就職して東京などに10年暮らしていた間もそれほど身だしなみに気をつかっていたとは思われない。おそらく、本人が認めなくてもそういう店が苦手なのだ。だから、香は遥の髪を自分が切ってあげようと思った。子供の頃から前髪くらいは自分で整えていたから、自信はあった。それにしても、100円均一ショップの鋤鋏は便利だ。
先日ショッピングモールに行ったときに、生まれてはじめて100均に入ったのだ。香はあれこれ趣味の妄想をしてわくわくした。DIYコーナーが充実していて、あれもこれもやってみたくなった。しかし、たくさん買ったものはもう10日間も放置していて、遥の髪を切ったハサミしかまだ使ってみていない。しかし、どれだけ便利か知ったので、家に戻ったら袋にしまったままの諸々を取り出してみなければいけない。
いろんな物思いをしている間にレストラン『かえる亭』の前についた。
「いらっしゃいませ」
店先にいたカエルが冗談交じりに言って、微笑んだ。カエルは笑顔の似合う人だ。いつも表情の動かない遥とは対照的だ。
「お疲れ様です。いただきものをしにきました」
香も笑って返したが、そのあとの事態は笑えなかった。ソースは100個の瓶に用意されていた。そんなことをするからすぐ体調を崩すのだ。カエルは加減を知らない。
「湧水さんが今日来ないんだったら、ごはんも持って行ってあげてほしいんだ。バーニャカウダの材料で余ったやつと採れた野菜でパスタを作ったんだ。今包むから」
「包むくらい。私がやりますよ。今日は店のこと手伝えませんから、いまのうちにゆっくり開店準備してください」
香はカウンターやテーブル席の拭き掃除だけして帰った。それくらいは礼儀かなと思ったのだ。ただし、100個のバーニャカウダソースを配るのは仕事の範囲外だ。
口では、
「わあ、おいしそう。周りにたくさん配りますね!」
と言ったけれど、いったん屋敷の冷蔵庫に仕舞って人に配るために袋に入れる手間を考えてほしいと内心げんなりしていた。カエルは憎めない人ではあるけれど、面倒くさい人だと改めて思った。これから、彼の料理を安易に褒めてまたほしいというときは気をつけなければいけない。興が乗って作りすぎてしまう。
庭の倉庫の荷運びの台車を持ってきて、ソース瓶の入った段ボール箱を2箱乗せた。上の箱の中にはプラスチック製品の蓋つきの容器で2つパスタが入っている。もう一つは湧水の漫画のアシスタントのハチの分だ。石畳のがたがた道をパスタをこぼさず瓶を割らないように気を付けながら慎重に台車を押して香は歩いた。台車をはじめて使ったのは果実町に来てからだ。東京の本社で香に雑用を頼む人は少なかった。
香は人に頼まれごとをされるのが嫌いではない。香は、道を進みながらお義母さんの料理教室で配ってもらうか、緑の手組合の方で配ってもらうか、霧山酒造の社員の人たちに配ってもらおうと考えていた。美味しいソースではあるのだから、無駄にするのはもったいない。
「湧水さんバーニャカウダソースを持ってきましたよ。パスタは差し入れだそうです」
「ありがとうございます。そこのテーブルに置いといてもらえますか、今は手袋してペンを握っているから食べ物に触れないんですよ」
湧水が泊まっているロッジを訪ねると、湧水は木桶の中にハーブ湯をして足を突っ込み、漫画を描いていた。その顔にはパックもしている。梅雨時期で蒸すので、クーラーの除湿をつけっぱなしにしていると乾燥して皮膚が痒くなるのが気になるらしい。40代になってハーブで肌ケアに目覚めた湧水を見ていると、中高年の男性向けのハーブの商品を山鳥で作ることを考えてしまう。しかし、今はフルーツフレーバーティーが勢いに乗っている時だから、まずはそちらの新商品の案を固めることが先決だ。そのことで、夫の霞が最近悩んでいることを香は察していた。
「ここですね。ー何か、漫画のお手伝いできることはありますか」
「いや、ないですよ。今は、筆が乗っているので。ハチくん先に食べていいですから」
香は漫画を描くという作業がどんなものか興味があった。勇気を出して聞いてみたが、すげなく断られてしまった。無理もない。湧水はハチを雇うことすら渋って、長いこと一人で漫画を描いていたのだ。香が手伝うなんて無謀だった。
「おいしい。まかないつきの仕事みたいに、食事が出るからありがたいですよ。香さん、冷やしたカモマイルティーがあるんですけど、飲みますか」
「ううん。すぐに帰って、バーニャカウダソースを冷蔵庫に入れないと。カエルくんに瓶で100個ももらったから」
漫画を描くのを手伝うとさっき言っておきながら、香はすかさず時間がないようなふりをして断った。我ながら白々しいかと思ったら、ハチは気づかなかった。香はカモマイルティーの独特な味が苦手だった。
「そうなんですか。そりゃあ、大変ですね」
「うん、誰かに配らないと。さすがに湧水さんたちも10個はいらないでしょ」
「いらない。作ってもらえると思ったら、まさかそんな落とし穴があるとは。そうすると、頼み難いな」
湧水は手を止めて、ローテーブルを囲んで座っている二人を振り返った。
「いいですよ。何か渡すんですか」
香は先回りして答えた。香はあちこち移動するので、何かを届けることを頼まれることが多い。果実町に移住して、車の運転もうまくなった。少なくとも遥より安全に運転できるだろう。
「うーん。副町長の杉山さんにですね。サイン色紙を頼まれたんですよ。でも、ちょっと会うのが億劫で」
副町長の杉山は『峠道の貸庭』によく顔を出す。まじめで悪い人ではないが、自分の思いだけで突っ走り、話が通じないことがあるのが玉に瑕だ。この間も湧水は果実町に湧水の漫画のキャラクターの銅像を作ることを打診されて断ったばかりだった。パネルやぬいぐるみのグッズ化はよいのに、なぜ銅像はだめなのか聞かれて答えに窮した。ただ、いやだからとしか言いようがなかったのだ。湧水は昔から歌碑とか銅像があまり好きではなかった。
「なるほど。ちょうど、猫たちのことで相談があって明日会うことになってたんで、いいですよ」
「地域猫の話、実現しそうですか?」
「うーん、まだ、反応は分かりませんね。しかし、うちで引き取るのは限界があるってわかったので、その実現がすぐには無理でもほかに対策を考えないといけませんよね」
香が言い出してはじまった、野良猫の避妊手術と捕獲は一定数の猫を避妊手術と譲渡につなげることに成功した。しかし、野良猫の数を減らすことは容易ではない。他に仕事があるので、貸庭のスタッフが主だってボランティアをするのも負担が大きいと感じるようになっていた。
『野良猫を捕獲するのはほとんどハルさんがやっているよね。この間は夜中に捕まえたって言ってたよ。いや、大体早朝にエサで釣ってるらしいけど。今は猫のことは負担だとか言わないけど、俺は君が言い出したことなんだから、ほとんどハルさんにやらせるのは感心しないな。もちろん、譲渡とか町の人の理解とかそういう方でやっていることは知っているけど、貸庭で君がやりたいことを簡潔しようとするとすべてハルさんがかかわるじゃないか。やりはじめたら、乗り気になって熱心になってくれるからいいようなものの、最近今のやり方でいいのかって思うんだ』
遥はひとみしりで出不精で怠惰なところがある。一方で、好奇心旺盛で頼まれたことは一定の成果を出すまで熱心に取り組む。信頼できていいじゃないかと思うけれど、霞には遥が損な役回りをさせられているように思えたようだ。
霞の言葉のすべてに納得したわけではなかった。けれど、一理あると思ったので、貸庭のスタッフ全員で猫にかかわることを見直そうと思ったのだ。
「猫部屋で猫とまったりしていたら、きりがないからね。何にもしたくなくなるのは問題だよ」
「そうですよね。うっかりすると、なつかない猫に翻弄されてすっかり時間がすぎちゃいますから」
湧水とハチが苦笑して話した。猫を眺めているときりがない。
オンとオフを切り替えるようにしたいという理由から、みどりと湧水は猫を飼っていなかった。それでも猫部屋に頻繁に顔を出していることは掃除と給餌記録を見ればわかる。
ペットを飼いたい気持ちがある人は多い。一方で、飼わない選択にも理由がある。
「そうだ。ソース配るついでに、これも配ってもらえませんか。このあいだ、みどりさんと作りすぎたんですよね」
立ち上がった湧水がへやの隅から持ってきた段ボールに入っていたのは、かわいくラッピングされた大量のポプリであった。
「300個くらいあると思いますけど、余った分があれば返してもらっていいですよ。いやあ、興が乗って作りすぎちゃって。最近雨の日が多くて庭作業するのも限定的でしょ。ロッジのお客さんも混ぜてドライハーブを片付けたんです。梅雨前に刈り取ったハーブがもったいなくて」
「・・・なるほど?いいですよ」
湧水に期待を込めて見られて、香は少し答えに窮したが頷いた。湧水はここ『峠道の貸庭』をモデルに漫画を描いている。非常に大切な営業マンだ。こういう頼まれごとを断って、へそを曲げられて漫画の筆が止まっては困るという損得勘定がすぐに働いて頷いてしまった。
「やった。じゃあ、カエルくんにこのミント酒も渡しておいてもらえますか。ペパーミントの酒についていつか小説で読んだのを思い出して作ってみたんです。
大量のバーニャカウダソースと大量のポプリ。ミント酒ひと瓶増えたところで問題にはならない。どのみち台車で運ぶのだ。しかし、なぜ届け物をして、いただきものを増やして帰ることになるんだろうかと香は内心首を傾げた。都会の駅前のティッシュ配りくばりではあるまいし、うんざりしつつも貸庭のメンバーにあてにされていることは悪い気分ではなかった。香ならこれだけの量のものをさばけると思われているのだ。その信頼は心地いい。かといって、果実町唯一の駅前で本当に配るわけにはいかない。
食事をはじめた湧水たちに今月の貸庭のシフトを軽く確認して、香は再び台車を押して玄関に出た。玄関先では湧水がそのロッジの周りに作っている庭の彼らしい香りがした。
ビー・バームの名にふさわしくミツバチをよく集めているベルガモットもくたびれたルリジサほどにはミツバチの人気を集められない。替わりに柑橘のような甘くさわやかな香りを漂わせている。アップルミントとチェリーセージとベルガモットは湧水の庭で重宝されていた。よく香って、朝の気分をすっきりさせてくれるからだそうだ。ミント酒にしたり、フットバスにしたり、利用法も幅広く繁殖力が旺盛で手軽に使えるからだという。
最近ではサイン色紙にミントを描くほど彼はミントを気に入っていた。どのミントを描こうかと調べるもの楽しいようだ。ガーデニング漫画で人気を博している湧水だが、あまり背景を描きこむ方ではない。アシスタントもハチを最近雇っただけで、イラストのみの仕事をしていた時は完全に一人で描いていた。完成させるためにできるだけシンプルにデザインして、言葉も背景もキャラクターも描きこまないようにするかが彼にとって大事なことだった。
引きこもりの漫画家になったのは連載がことごとく不発に終わった時期があったからではあったものの、それでも彼があまり絵に関して他人のアドバイスを受けたくない様子なのは周囲も見てとれていた。描いたものを認められたくはあるが、自分の想像性を奪われるくらいであれば仕事をしたくない。早い時期に評価されることが多いからこそ、年齢と技術が上がるにつれて評判がかえて上がらないことのギャップに苦しむのだ。愛でられるのは若葉の頃だけ。花が咲いたら、その若木の成長は鬱陶しいだけなのだ。徒長した枝を切って若木を丸裸にしていくと残った姿に湧水はふっと胸を掴まれた気持ちになると湧水がこぼしたのを香は聞いたことがあった。元気に伸びた部分のハーブの枝葉をそのまま朽ちさせるのがしのびなかったのも湧水の繊細な性格の表れに違いない。湧水が貸庭のスタッフになってまだ1年あまり。作業は手慣れてきても気持ちの部分で慣れないことも多いのかもしれない。
とはいえ、こうして切り落とした部分を処分せずに済んだのだから、ハーブを育てることは湧水にとって憂いが少ないに違いない。湧水はハーブを育てるのに向いている。ハーブでエネルギーをチャージして、絵を描いて疲れを指から放出する、彼にとってはことごとく自分を癒す作業は自分一人のものだった。
午後の日差しが高く、6月らしい熱気を含んだ庭で、アゲハチョウが香の傍らを過ぎた。そのアゲハチョウを追いかけて視線を滑らせると、庭でお客さんと作業している遥の姿が見えた。
遠くほど近く、二人の視線が交錯した。香が手を振ると、遥が手を振り返してくれた。麦わら帽子でせっかく切ってあげた遥の新しい髪型のスタイルが隠れているのがもったいなかった。
何もする気が起きない時でも、庭を眺めることはできると遥は言った。冬枯れる時を恐れて、そのころには私の命は終わるんだなどという悲観的な発想はしないのだ。だから、遥はおそらく湧水と違ってある意味前向きな人間なんだと香は思う。遥は山で一人暮らしする自分を引きこもりだと思わない。何かすることがあって、生きていけるならそれでいいのだ。香にはそういう暮らしは難しい。遥がいなければ、山で一人暮らしなど思いもつかなかった。一方で、遥は嵐には弱いと思う。立ち向かう気力が起きて、物事が順調に進むとその勢いに飲まれてへこたれるのだ。前向きではあっても、やる気に満ち溢れているわけではない。庭の風景を悲観しないのは、それがあるがままだと受け入れているらだ。
香は家に帰って冷蔵庫にバーニャカウダソースを大量に保冷すると、すぐにかえる亭に向かった。疲れていて、とても料理をする気になれなかった。旅館の中居の仕事は、お盆までしないことにしていた。かえる亭の手伝いもできればしたくない。食事をした後は、貸庭の敷地内にある温泉施設のヒノキぶろに貸し切りで入りたい。平日の昼間だから、空いているはずだ。そのあと、遥と先日作ったイチゴソースでいちごミルクを作って飲みたい。そして、そのあとパソコンで多少の事務仕事をして、夫が来れば出迎え、来なければ早い時間に眠ってしまおう。香は今日のこの後の計画をつらつらと考えながら、かえる亭の玄関の扉を開けた。
「こんにちは。香さんも今日はお手伝い?」
すぐにスタッフのみどりとかちあった。油のにおいとともに強く香るハーブ。平日の昼間と思えない。全席の3分の2ほどテーブルが埋まっていた。
「・・・ええ、ちょっとまかないをもらいに」
忙しそうで、到底ご飯だけもらって帰れる雰囲気ではない。香は、すぐに厨房のカエルに声をかけた。
「ちょっとお手伝いに来ました。代わりに何か食べるものもらってもいいですか」
厨房では、カエルが新じゃがのスープを作っていた。完成したスープの彩りに飾られたキャラウェイの香りがさわやかだ。
「助かるよ。パートの人がお子さんの体調不良で来られなくなったんだ。ごめんね。キリのいいところまでいいから」
カエルは鍋をじっと睨んでいた。出来上がった料理はどれも夏野菜を使った夏らしい料理。作る方のカエルともう一人の厨房スタッフは首にタオルを巻いて、口数もなく真夏のような情熱を料理に注いでいた。
「わかりました。注文取ってきますね」
あわただしく手を洗って、エプロンをつけて香は目についた料理を運んだ。
キリがいいところと言えば、ランチタイム終了の3時までだ。夜は6時から開始で、3時間は店を閉める。カエルは、その間に店の片づけと夜の準備と貸庭の手入れと風呂に入りに行く。カエルは日中一分一秒も惜しまない。
「香さんが行くなら、私もお風呂に行こうかしら。母の迎えまでに時間があるから」
「いいですね。すぐに着替えとお風呂道具取って来ますから」
貸切風呂を使う予定だったことを頭の隅に追いやって、香は承諾の返事をした。本心ではたまには大きなお風呂に入りたいと思っていたのだ。大浴場には、露天風呂とサウナと打たせ湯がついている。ただ一人では行く勇気がなかった。
「じゃあ、そうしましょう。よかった。1時間半は余裕今日は母のデイサービスの帰りが遅くなりそうなですよ。夕方の5時過ぎになるらしくて」
みどりは1,2年ほど前に還暦の一大決心をして母親と一緒に果実町に移住してきた。もとは海外や東京で働いていた。当初は母親と貸庭のロッジで暮らしていたが、山の下に家を借りた。そちらの方が、デイサービスに近かったからだ。貸庭から家まで30分とかからないので、4時半にここを出れば出向かの時間に十分間に合う。
「そうだ。忘れないうちに。保冷庫に入れておいたミント酒のことをカエルくんに伝えておかなくちゃ」
「あら、ミント酒?いいですね。私も作ってみようかしら。でも、去年作った果実酒がまだ残ってるんですよね」
みどりが手早く片付けをしながら、ペパーミントの酒の詩の一節を口ずさんだ。聞いたことがあるようで、香は知らない詩だった。
外に出ると雨が降り出していた。カエルは雨に濡れるのもかまわず、カッパを着て外で作業している、遥と野人に近づいて行った。二人に駆け寄りながら、カエルは何かを言っていた。聞き取れなくても、カエルが何を言っているのか分かった。
『じんちゃんたち、雨の中で作業したら風邪ひくじゃないか』
孫のカエルがそんな風に注意しても、野人はあまり言うことは聞かない。カエルよりも遥の言葉の方が効果がある。その遥がカッパを着てまで作業しているのだから、何か雨脚が強まる前にやっておきたいことがあったのだろう。
自分も手伝いに行くべきかと迷ったものの、みどりとお風呂で待ち合わせしたので、やめにした。大浴場に入るまたとない機会だ。ロッジに住んでいる遥は、かけ流し温泉がついているので、大浴場の必要性を感じないようだ。公衆浴場の雰囲気を楽しむという性格ではない。サウナも苦手だ。
貸庭から少したい肥の臭いが香った。この季節、里に下りればもっと強く牛糞の臭いがする。一日に2回着替えたいものだが、そうすると洗濯物が増えて面倒だ。庭作業をしない夏の日は、お風呂も着替えも1回で済ませられる貴重な機会である。
「あ」
香は、急いで風呂の支度をして、みどりとサウナに入っている最中にふと思いついた。杉山に会いに行くのなら、義母の夕ではなく、杉山にバーニャカウダソースとポプリを渡せばいい。杉山はきっと断らないだろう。
柚子みそと赤紫蘇葉のおにぎり
遥⇔副町長の杉山
「ハルさんごめんね。ついてきてもらって」
「買い物に行きたかったから、ラッキーだったよ。渡して少し話すだけでしょ」
「うん」
「大丈夫だよ。杉山さんは猫を3匹も引き取ってくださったし、猫については理解があると思う」
「そうね」
遥に励まされて、運転しながら香は曖昧にうなずいた。地域猫活動の申請については、分館区内で意見はまとめ終えている。杉山は猫については理解がいいから、それについては話は早いだろう。しかし、猫以外の話が出てきた時が問題だ。
杉山の家の庭は、紫陽花が満開だった。奥さんがガーデニングに造詣が深く、『峠道の貸庭』のイベントにも積極的に参加してもらっていた。奥さんがいればいいと期待したが、あいにくと留守だった。
案の定、玄関先で話そうとしたのに、杉山は上がるようにすすめてきた。杉山は元は県庁の役人で県庁所在地の方の市議だった。副町長のポストについて移住してきた。家はその当初に建てて住んでまだ5年ほどしか経っていない。子供たちは独立し、家には夫婦と猫だけで、リビングには猫の道具が整然とたくさん並んでいた。一見すると、まだ小さい子供がいる家庭のようで、中はまるで60代の夫婦の家のように見えず若々しかった。庭と建物の外観だけが和風だ。
「やっぱり夏休みのイベントは数を増やすに越したことはないと思うんですよ。外国人観光客向け、子供向け、独身向け、高齢者向け、婚活者向け、細分化してやってもらいたい。役場の方でも手伝いますので」
「貸庭は借りている人のための場所ですから、観光客だらけになって静かな環境が提供できなくては元も子もないです」
杉山の話を10分ほど聞いてもう十分だと思ったのか、遥がきっぱりと断りを入れた。
「そうは言っても、今でもイベントをされているじゃないですか」
「貸庭の利用者と町の人のためのイベントです。春のお花見の100人だって手一杯だったんですよ」
「あれは、桜を見に行ったんであって、あの美しい庭でやったわけじゃないじゃないですか」
杉山が不平を述べると遥の顔がますます強張ったのが、顔を見なくても隣に座っているだけで香には分かった。
「我々は未熟で、庭の人気は野人さんあってですよ。その野人さんが足を怪我しているんです。もうご高齢で口で指導はできても作業は難しいとおっしゃってます。そうしたら、あの重要文化財の屋敷の庭の維持も我々だけでは手に余るかもしれません。少なくとも、野人さんの手を借りずにやってみようとしている今年はいろんなことを考えるのは難しいです」
香がようやく口を挟むと、杉山は表情を曇らせて押し黙った。これまでこちらの不機嫌など気にせずにしゃべり続けていたのに、自分の発言のどこが杉山の癇に障ったのかわからず、香は戸惑った。
「そうだ、香さん。湧水さんから、サイン色紙を渡すように頼まれていたんじゃなかったですか?ほかにもおねがいがあるんでしたよね」
重い沈黙を破って、まるで仕事の話のように硬い口調で遥が言った。
「そうだった。湧水さんから預かって来たんですよ。今、漫画の筆が乗って忙しいみたいですから、次回の単行本化が楽しみですね。それに湧水さんが貸庭のスタッフと作ったポプリも預かって来たんですよ」
香は「ちょっと失礼しますね」と外に出た。すると、そのあとから遥と杉山もついてきた。車の後部ドアを開けて、段ボールの箱を見せてもさすがに杉山は見当がつかないようだった。
「こっちの箱は、バーニャカウダソースです。90個あるんですよ。湧水さんのポプリも100個以上あると思います。杉山さんなら有効活用していただけるかと思いまして。いつも果物をたくさんいただきますし」
香は言葉に皮肉を込めた。杉山は貸庭にたびたび大量の果物を届けている。スイカやら梨やら金額を考えると大変うれしく、味もおいしいのだが、限度があると遥はいつも不機嫌だった。そういえば、杉山がたくさんものをくれるたびに遥が周囲に配るのが大変そうだったから、それを香が手伝って、いつの間にか香の方が配達人になってしまったのだった。たくさんもらえるのは見た目にも楽しくうれしいじゃないかという気持ちが変わらないのは、香が普段料理をしない気安さだろう。料理をまめにする面々は「またこんなにたくさん」とうんざりした顔をしている。カエルですらそうなのだ。それでいて、カエル自身も配る当てがないほど料理を作りすぎてしまうのもよく分からない。
「いやあ、こんなにたくさん。ソースは消費期限があるんでしょうね」
数の多さに、杉山は段ボールをのぞき込んで呆気にとられた顔をした。
「冷蔵庫に入れておけばまだ大丈夫ですが、早めに消費した方がいいんですよね。一人ひと瓶でしょうか」
「なるほどね。役場とか農協の人に聞いてみましょうか。新商品ですもんな」
「新商品じゃないですよ。カエルさんの趣味です」
「あら、カエルさんですか。てっきり霧山酒造か山鳥の新商品の試供品かと思いました」
「違いますよ」
香は笑って答えたが、それもいいかもしれないと内心では考えた。バジルソースよりは見かけないようだ。果実町のおいしい野菜をもっとおいしくする魔法のソース。生の野菜の良さを引き立てる。宣伝文句が次々と浮かんだ。しかし、すぐに宣伝文句が作りやすい商品が売れるわけではないと己を戒めた。遥が考案してこの春に売り出した新商品のフルーツフレーバーティー『紫蘇と柚子味』はうまい宣伝文句があったわけではない。むしろ地味な商品で良さが徐々に伝わってロングランになればいいと真逆の方向に期待されていたのだ。ところが蓋を開けてみれば、この飾りのないこの素朴な商品は発売当初から爆発的な売り上げを記録し、いまなおSNSで盛り上がっていて、その勢いはとどまることを知らなかった。何が世間の関心をひいて、人の琴線に触れるのか香には全く分からない。杉山もおそらく、わからない側の人間だ。
「わかりました。カエルくんの作ったソースなら、おいしいでしょうからな。配ってみますよ。このソースづくりのレシピ講座なんていうイベントもいいですね」
自分が頼んだ方の湧水のサイン色紙はわきに挟んだままほとんど言葉にして触れることはなく、杉山は性懲りもなくイベント案を口にした。イベントの内容は貸庭のスタッフで決めるので放っておいてほしいものだ。香は内心憤ったが、遥はなぜかスマホを取り出して”バーニャカウダソース作り。美味しい夏野菜料理講座”とメモを取っていた。その素直な生真面目さに香は呆れるより関心した。遥のそのまじめさが、空前のヒットを生み出したのだ。
車からソースとポプリを下ろしても、乗り込んだ後にまだそれらの匂いが残っているような気がした。
湧水のポプリはそのままお湯に浸してハーブバスにもできる。ミントは乾燥させた方がよく香る。ポプリの利用法について説明すべきだっただろうか。いや、奥さんが分からなければ確認してくるに違いない。
「おにぎりが食べたいな」
「わたしおにぎり作ったことないよ」
香は助手席で遥がふとこぼした言葉を聞いて、自分でも驚くことに気が付いた。
「おにぎりあんまり食べてこなかったの?」
「お店かコンビニでしか食べたことがないかも。小学校の遠足で食べたかなあ?覚えてないや。うちは洋食が多かったから。私自身、こっちに来るまで料理ほとんどしたことがなかったしね」
香は、高校は1年ほど海外に留学し、大学も海外の大学を出た。学校は中高一貫校で食堂つき。小学校で遠足などの行事があった気がするが、お弁当におにぎりが入っていた覚えがない。オムライスがだったのではないか。外食が多く、母が台所に立つことも少なかったのだ。
「私はおにぎりをお店でほとんど食べたことがないな。子供の頃に行った焼き肉屋さんでおにぎりを注文して焼きおにぎりにしてたくらさいかな」
香は焼き肉屋では決まってビビンバでおなかいっぱいにしていた。おにぎりがメニューにあったことすら記憶になかった。近年はSNSに料理好きの間でたびたびおにぎりがトレンドに上がる。香は自分では料理をあまりしないが、SNSで他人の料理の写真や動画を見るのは好きだった。香にとってSNSの料理は参考レシピというよりエンターテインメントとして楽しむものだった。だから、真似して作ったこともほとんどなかった。それでも、遥とおにぎりの話をしていると、記憶の中のSNSのおにぎりの写真がよみがえってきて、口の中に唾がわいた。
「それ、おいしそう。おにぎり食べたくなった。明日焼き肉屋さんする?映画もいいけど」
香たちは定期的に貸庭のメンバーで香が住む別荘の広い部屋に集まって映画観賞会をしていた。以前は週1,2回集まっていた。しかし、香と霞が結婚準備などで忙しくカエルがレストランをはじめたり、遥が新しいフルーツフレーバーティーの商品の開発にかかわったりとそれぞれ何かと忙しく、月に1回開催するのがやっとになっていた。
「うーん。明日、晴れるかなあ。この雨が明日まで続きそうだけど」
車のフロントガラスにたたきつける雨を見ながら、遥は物憂げだった。ただでさえ、出不精の遥だ。雨の日に外食に出かけるのは億劫だろう。提案した香も雨の日にありがちな鈍い頭痛がいまさらながら意識されてきた。
「じゃあ、晴れでも雨でもおにぎりパーティーしない。作ったことないけど、私でもおにぎり三角に握れるかな。ハルさんに教えてもらいたい」
「他人に教えるほど上手じゃないよ。でも、そうだね。杉山さんからいただいた野菜とマンゴーもあることだし、それをみんなで消費するのもいいね。サンドイッチじゃなくて、おにぎりバーガーとか。わたし、おにぎりバーガー作ったことない」
凝った料理のおかずはきっとカエルが持参する。ならば、野菜炒めとおにぎりというシンプルな料理をたまには自分たちで作ってみてもいいかもしれないと二人は車の中で盛り上がった。
「煮物を教わる前に、まず基本の炒め物をできるか確かめないと。予習も必要かもしれない」
香がハンドルを持って意気込むと、珍しく遥が声を出して笑った。
「料理教室に行く前に料理の練習するなんてまじめすぎる」
「だって、行ったら恥をかくかもしれないもん。すっごく料理上手な人ばっかりだったら、どうしよう。わたし、場違いかも」
「そういわれると、私も不安かも。うん。明日、予習しよう。おにぎりと炒め物と煮物も作ろう」
二人で明日作りたい料理をあれこれと話しているとあっと言う間に貸庭についた。今日は、まだ二人とも仕事がある。香はこれから『かえる亭』の開店準備の手伝いだ。午後からは夫の実家の霧山酒造に顔を出さなければならなかった。遥は貸庭の作業がある。雨といっても、事務所に詰めて受付などしなければならない。雨はスタッフを減らす分だけ、遥も気が抜けない。一方で一人作業が多いと気が楽で過ごしやすいという矛盾もあった。
「じゃあ、明日」
「うん、また、明日ね」
明日の集まりが楽しみなので、二人とも今日は早めに寝たいと考えていた。そうすると夜に電話することもない。
その日忙しく働いた香は、夢も見ないでぐっすりと眠った。
*
翌日も午前中は忙しかった。何かと移動と来客とメールが多く、香は気忙しく過ごし、すべてが持ち越しになって終わらなかったことでうんざりした。それでも、午後の仕事には見切りをつけて、日が暮れる前にみんなで過ごすシアタールームに待機してどの映画を見ようかと登録しているサブスクリプションの動画サイトで作品名をパチパチとリモコンボタンを動かしてパッケージで確認しながら、気になったものの概要を見て行った。しかし、なかなか今日の気分に訴えてくる作品に出会わなかった。
気分転換に庭に出ると雨が降っていた。小雨とはいえない。早めに咲いたひまわりが力強く雨をはじき返していた。傘もささずに長靴で庭を歩き回ってみると、紫蘇が目に留まった。青じそと赤紫蘇と両方ある。紫蘇はもう少し暖かくなってからが最盛期だ。香は自分の管理する庭に紫蘇が生えるとつい抜いてしまう。紫蘇葉は主張が強く、ほかの植物を圧迫して見えるのだ。しかし、さすがにプロの野人が調えると紫蘇もとてもおしゃれに見える。洋風のハーブの庭にもよく映えていた。赤紫蘇の色が特に庭にアクセントを加えて、独特の雰囲気を作り出していた。遥が赤紫蘇でヒット商品を作り出したので、わざわざ紫蘇の映える庭に作り変えたのだろう。野人は遥をとても気に入っている。それこそ、遥の親友は自分ではなくて野人なのではないかとたまに不安を覚えるほどだ。遥がいるだけで、野人は饒舌になる。
香の暮らしている別荘の庭なのに、遥のための庭のようではないか。それが寂しくもうれしい。香は新居の庭もどんな風に作るかまだ迷っていた。霞が裏庭を自分好みにするというので、表玄関付近は香の担当だ。我が家のシンボルツリーですら何にするかまだ迷っていた。
香は何の気なしに、紫蘇葉を両手に持てるだけちぎってみた。大葉はてんぷらや薬味に使えるから、ごはんのおかずにばっちり合う。丸坊主になってしまった紫蘇の株もまだ小さな葉が残り、それはそれでまた違った趣を庭に与えた。
「塩漬けにして紫蘇おにぎりにすればいいんじゃない?別に紫の葉っぱならゆかりごはんにしなきゃいけないと決まってないよね。それなら手軽で今日すぐに食べられる」
みなが集まってさあおにぎりパーティーだというところで、霞が赤紫蘇ならゆかりご飯だといいだした。そこで遥が大葉も赤紫蘇も塩を振っておにぎりにすればいいじゃないかと夫婦の仲裁に入ったのだ。
「赤紫蘇おにぎりもちょっとおしゃれ」
「そうそう。冬に作って凍らせていた、柚子みそも溶かして持ってきたの。赤紫蘇のおにぎりに柚子みそのせたらかわいくない?地味かな」
「ううん。作ってハチくんにデータ送って、貸庭のSNSに写真アップしてもらおうよ。いい感じにかっこいい写真にしてくれるんじゃない」
「そうかな?いいかも、よし作ろう」
遥と香で盛り上がって、霞は完全に蚊帳の外になってしまった。
「俺、先につまみだけ出して、カエルとなんの映画見るか決めてくるよ」
霞はそう言って、そそくさと台所を出て行った。いつもなら、台所を仕切るのはカエルなのだ。しかし、カエルがいつものごとくおかずをたくさん作って持ってきたので、「疲れてるでしょ。今日はカエルくんが観る映画を選んでて」と半ば強引に二人で台所に入ることを阻止したのだ。カエルが持ってきたのは案の定洋食だ。しかし、魚のフライや揚げ物が多かったのは幸いだった。大葉とささみのチーズフライもあったので、大葉は消去法で薬味に使うしかないと結論が出かかったところでの、おにぎり案。香は大葉のおにぎりを食べたことがなかったので、作る時もわくわくした。何しろやってみたら、案外容易に三角おにぎりが作れたのだ。
「なんだ。私よりずっときれいなおにぎりが作れるじゃん。すごいね」
遥に褒められて得意満面だった。きっちり三角の香のおにぎりに比べて、遥のおにぎりはふわっともっと丸みを帯びていた。それはそれでおいしそうだが、座りが悪くて皿に置くと斜めになる。大葉や赤紫蘇をおにぎりに巻くのも香の方がうまかった。
紫蘇にしわが寄っておらず、歯切れがいい。
「豚みその方がいいと思ったけれど、紫蘇と柚子みそでもさわやかでいいな。さすが大ヒット商品の柚子と紫蘇の組み合わせだ」
「だけど、私のおにぎりは完成度が低いよね。香さんのように小ぶりにきれいに作れたらずっとおいしかったのに」
料理上手のカエルに褒められても、ソファに4人並んで映画を見ながら遥は肩を落とした。
「わたし、おにぎりが得意料理って言えそう。何かまいたやつなら」
「私は塩結びと焼きおにぎりなら得意って言えるかも」
嬉しそうにおにぎりを頬張って得意満面の自分と自分のおにぎりを擁護する遥。なかなかいい組み合わせではないかと香はテレビの画面に視線を注ぎながら考える。遥のアイディアの粗削りな部分を自分が整えてあげればいいのではないか。自分たち夫婦が無理にアイディアを生み出さなくても、従業員が優秀なら、働きやすい環境を提供してそれを支えるのが経営側の仕事ではなかろうか。そんな風に思っても、それが己の中の理想論であることも香は分かっていた。この関係は永遠じゃない。遥が山を下りたくなって、再び果実町を離れることもあるかもしれない。結婚した香のライフステージも変わって、経営などとは全く縁もゆかりもなくなるかもしれない。そもそも自分がずっと果実町で暮らせるのか自信がない。今のところうまくいっている移住生活も霞と離婚すれば破綻する。結婚する上で、それが何よりの懸念点だった。『山鳥』という大手飲料メーカーの娘という以外、ここではなんの箔付けもない。学歴は誰も聞いてこない。ブランド品で目立っていいこともない。むしろ100円均一のお気に入りの商品だとか、気に入っているTシャツの柄の方がSNSのネット社会ですら話題になるのだ。ネット社会でも果実町でもできれば自分の育ちを隠していたい。普通の人を装って親の資本はしっかり使って発信して、流行を無理やり作れはしないかと考えるのは、一生懸命新商品を考えている夫の霞の努力が報われてほしいからか。自分は案外古風な女だったのだろうか。しかし、それで遥と肩を並べてうれしいだろうか。
「このおにぎり本当においしいよ、サイダーと合う」
コップの氷をカランと鳴らして、ひざ掛けを背中に負い、両手にサイダーとおにぎりを持つ夫は無邪気だ。うっすらと下まぶたに涙をためているのは、映画に酔っているからだ。霞は仕事以外では、ほとんど酒を飲まない。酒を造る家業の息子でありながら、それを恥じている。けれども、酒より紅茶の開発が楽しいということもなかった。立場の分だけ、苦労が重くなった。今のところ、山鳥の役員でもなんでもないが、プレッシャーは夫婦二人分だ。
「なんか最後に向かって辻褄合わせが多くない?」
遥は後半の展開に飽きてしまっていた。男二人に任せたら、恋愛映画しか選ばないということを忘れていた。恋愛要素があっても、バラエティやアクションや社会ドラマがメインという方が遥と香の好みだ。恋愛一辺倒で相手の心変わりとかすれ違いとか再会とか必ず乗り越えられる障害だとか、そんな展開ばかりだと、人生恋愛しかないわけないだろうと言いたくなる。むしろ、勉強とか仕事とか家庭とか趣味とかの方がメインで生活している人が多いのではないか。現実味がないのだ。漫画だといいけれど、実写だとどうもむず痒い。
映画のヒロインは私立の学校に通ういわゆるいいとこのお嬢さんだった。それが都合よく海辺の町にやってきて、公立の学校に通う家庭に問題を抱える少年と出会ってひと夏の恋をするのだ。いや、夏だけでなく、何度も再会する。それで付き合ってないと言えるのか。ただの遠距離恋愛だ。最後は出会った海辺の町で挙式でもするのかなあと予想していたら、その通りだった。見ている人の期待を裏切らないと思うべきか。あまりにベタだ。泣ける霞の感覚が分からない。香がすべてを投げ出すために何かうそをついても、霞なら信じそうだ。そういう人にはうそをつくのがかえって難しい。香は映画の女性のように優しい嘘は重ねられない。
退屈した遥は映画を一つ見終わって帰ってしまった。カエルは名残惜しそうで、「泊まっていけば」と言うと、喜んで飲みなおしはじめた。霞は飲まないので、香が付き合う。昨年作った梅酒はおいしかった。今年の梅の分の飲み頃はまだだ。炭酸割りにしたらおいしくて、「これを商品化できないかな」とつぶやいた。梅酒はもう山鳥の商品にあるのに、どうしても果実町発にしたくなる。
映画に夢中の二人は香の話は聞いてなくて、興味の持てない恋愛映画を1時間ほど見て、香は寝室に戻った。
遥からおにぎり。
杉山からはいただきもののマンゴー。
かつて偉大なる文学者は似たものは似たものに影響を与えることが難しいと論じた。曰く、インプリーディングはよろしくない。継木が大きな実りを約束する。
ハーブ遥、湧水、ハチ 野菜霞、香、みどり 花カエル、野人
地域振興で、観光は一時しのぎ、新築はその場しのぎ。町おこしは衣食住に職か趣味がついて初めて成り立つんだよ。祭りなら趣味。信仰も趣味。仕事と家事は生きる糧。
この町を炎で包むものが遥。
想像 遥たち
維持 町の人
破壊 役場、農協
バーニャカウダソースをお裾分け
庭野菜に二つ材料を足す
薬膳ビスコッティ
みどり⇔野人
レストラン『かえる亭』のその日の夜は閑散としていた。予報では夕方から大雨だった。それが日中も雨が降りきらず、夜になると雲間から星が見えるまでになった。雨が降っていないから店は開けてはいるものの、いつ自主避難の速報が流れるかと思えば町の人もロッジの客も外に出ないのは当然のことだ。雨蛙と蝦蟇蛙が静かに鳴いている。香が出かける前に庭を一周した時には裏庭の日本庭園の池の上に雨蛙が一匹とホタルが二、三匹飛んでいた。
香が果実町に移住してきて七夕の日に晴れていたことがない。しかし、今年こそは晴れそうだからと七夕イベントの内容の確認に貸庭のメンバーでかえる亭に集まっていた。今年の7月7日は日曜日だ。副町長の杉山に押されて、”夜の七夕ガーデンパーティー”を開くことになっていた。屋台が三つ来る。要するにお祭りだ。花火を上げない代わりに、ホタルを確保しておいて放すのだそうだ。九州ではそれほど珍しくないゲンジボタルだ。隣の村では”日本一早くゲンジボタルを見られる場所”などと謳っており、移住した初めての年にはわざわざおぼつかない運転を教習所に通って克服してまで夜に見に行ったものだが、今はもうそんなことはない。庭のホタルで十分だ。当日は町の青年団と婦人会を併呑させた”緑の手”の組合が仕切ることになっており、香たちにそれほどの負担はない。ただ、庭園の案内はしなければならず、個人の借庭に入る人がいないように注意が必要だった。雨の六月。グリーンが基調の庭が多い。夜は緑が闇にのまれそうだが、そうでもない。どこの借庭にもポツリポツリと白い花が咲いている。石畳の道には各所に街灯がついている。もとよりロッジは宿泊用なので、足元が危なくないように夕方から庭灯がつけっぱなしになる。夜は虫よけライトをつけている庭がところどころ光っており、特に別荘の裏側の和庭は広く、雨の夜にもフロックコートにこうもり傘をさした明治の洋装の男性が歩いていそうな雰囲気がある。よく言えば、風情。悪くいえば、灯があってもホタルがいても幽霊が出そうだ。
雨の日は畳部屋にカビが生えないように香は冷房をつけに行く。そのたびに裏庭の景色が目に入り、だんだんと怖くなってきた。住み始めたばかりの頃は風情があるなとよく雨の庭を眺めていたのに、最近は白昼夢を見そうだ。
一人で家の中にいるのが嫌で、香はつい集まる口実を探してしまう。庭園の案内の打ち合わせくらい、オンラインでもできる。
「悪政の法は善政に勝る。そうでなければいかんのですよ。世の中が悪くなっている時こそ、よりよい制度と法が必要ではないですか。民が困っている時に、困った制度を作ってより困った事態にするなどという困った政治家ばかりいては、この国はより困ったことにになるではありませんか」
「そうかっかすることもないと思うが、現代の資本主義は根本的に間違っていると思う。投資にかまけて、人を育てるという傲慢なあり方に終始する。生き残るしかないんだよ。ただ生きているんだ。わしのような生業のものがいうのは気恥ずかしいが、生み出す行為に憧れるなら自分が学べばいいではないか。自分の金は自分で使えばいい。これからの世界は生産者が販売者になれると思うんだ。それが創造に対する最大の敬意じゃないかね」
香たちが実際に顔を突き合わせて、メモを取って話し合っている席からほど近いカウンター席で野人が髭の白い男性とタブレットを二人でのぞき込んで話していた。耳にはそれぞれ、二人で分け合ってイヤホンを片方ずつつけている。会話の内容から、政治ニュースの動画でも見ているようだ。髭の長い男性は、”丘の上のゲンちゃん”と呼ばれている人物だそうだ。遥の実家の近所の人らしい。みながゲンちゃんと呼んでいるので、遥は名字も知らずに育って来た。遥自身は他人を気安く呼べないので名前を呼ばないで通してきたのだ。今更名字も聞けない。たぶん実家の親戚だが、よく分からないという。
「雨だから、ハルちゃんの仕事を手伝いに来たよ」
たまたま香が駐車場の門を閉めようとしていた時にそんな風に挨拶してやってきて、香は何も知らずに案内してしまった。駐車場の門を閉めておかないと、ロッジの客が無理に運転して山を下りてしまうだろうと思ったのだ。それからしばらくして、大雨による避難指示も解除されたので、駐車場も開門した。遥と一緒に野人が庭に出ており、雨が小降りの間に作業して、ガーデンパーティーの話し合いのために集まるついでに野人と”ゲンちゃん”もかえる亭に休憩に来たのだった。そして、カエルは当たり前のようにみなの昼食を作り始めたので、遥がそれを手伝う間にほかのメンバーで話し合いを先にすることになった。
「うーん。話していて喉が渇いたね。おすすめのお茶は何かあるかい」
ゲンちゃんの声は、静かな店内によく響いた。野人とゲンちゃんの話声が気になって、香は自分たちの話に集中できなかった。熱くなった老人たちは声が大きいのだ。
「棗茶をどうぞ。出がらしの棗で作った焼き菓子もいかがですか」
「ああ、ハルさんのあれかい。いただこうかな」
しっかり二人の声が聞こえていたみどりが立ち上がって、カウンターの中の厨房に立った。そして、二人の前に差し出したのは、野人の言う通り、遥が昨年趣味で創作して作ったナツメのビスコッティだった。野人は以前に遥にもらって食べたことがあった。生地には三分の一ほどきな粉を使っている。煮だした後の棗の実がもったいなくて、種を取って固い皮を漉して生地に混ぜ込んで焼いたみようと考えだしたものだった。みどりはそれを遥に聞いて、さらにクコの実とカルダモンを足してアレンジした。さながら薬膳ビスコッティである。
「お。冷たくて甘くてトロッとしてのどが気持ちいいね。棗の実は今頃生る
「棗の実はまだですよ。今は花が咲いています。これは去年収穫したものを乾燥させて取っておいたんです」
みどりは二人の席の後ろに立ったまま振り返って庭を見た。その視線の先の窓からは棗の木は見えない。棗の花は小さく明るい緑色で見つけづらい。棗はだいたい5月~7月に開花して、実を 収穫する旬の時期は8月中旬から秋ごろだ。 棗の語源には、初夏に芽吹き花を咲かせることから「夏芽(なつめ)」と呼ばれるようになったという説がある。語源を考えると棗の淡いグリーンの花の色はとても夏らしい。
「棗は半生でスライスして食べても皮が気になるんだよな。こうやって練りこむのおいいじゃないか。他の実もいろいろ組み合わせができていいね」
「詳しいね。ゲンちゃん」
「専門家の井中さんに褒められたら、敵わないね。まあ、割と健康にいいものは興味があるタイプなんですよ」
真っ白い髭が風格を醸しているものの肌艶からしてゲンちゃんは80代の野人より一回りは年下だろうか。憧れの人に褒められて照れたように言葉をまくし立てた。
「野人さんのように何かを極められたらよかったけれど、俺にはなんもないからね。雑学集めするくらいのもんさ。造園もね。せっかく野人さんに教えてもらったのに、ものにならずにシルバー人材で働いてもパッとせんのですよ」
「なになに、わしはゲンちゃんのように器用じゃないからね。動物の形に剪定したりはせん。長くやって、たくさん庭を作るほど立派な庭師というわけじゃない。無難にやれば否定もされん。しかし、少しでも変えていきたかった。自分には作れないと思う庭も建物もたくさん見てきた。ゲンちゃんの技術も真似できないものがある。それで負けたとか勝ったとかいうわけじゃないが、いまほど多くの人が来てくれる庭になったのはここの人たちのおかげだからな。腕がどうとかでもないんだよ」
「俺も言ってみたいですね。果実町あっての自分だって」
「ははは、そりゃあ、最高の気分だて」
甘いナツメのお茶に酔ってしまったかのように野人は上機嫌だ。いつになく饒舌だ。その様子を見て、ナツメ茶を新商品にするのもいいな、なんて香は明後日なことを考えた。夫の霞は依然として新商品の構想を話さない。「まだ何も思いつかないよ」と言うばかりだ。遥とみどりのナツメのビスコッティの案をもらったら、夫のプライドは傷つくだろうか。
「おいしいお菓子とお茶をありがとう。みどりさんのお茶は特別おいしいね」
野人が礼を述べると、みどりははにかんだ笑みを浮かべた。
「きれいに山査子の花を咲かせてくださったお礼です。おかげさまで秋の実りが楽しみなんです。山査子飴をずっと食べたかったんですよ。子供の頃食べたきりでしたから」
みどりは野人たちのそばに立ったまま、ほかのメンバーはもう話もしていない。ほとんど話さず、野人たちの話に聞き耳を立てていた。とりあえず、霞の母の夕が浴衣を用意して着せてくれるらしいから、当日はみんあ浴衣でスタッフとわかるように襷でもかけようというのんきな話で終わった。着付けを教えてもらったら、何か今後に役立つことがあるかもしれない。
「山査子かい。昔はどこの庭にでも生えている木だったけどなあ。俺も山査子飴を食べたことがあったかもう覚えていないよ」
おそらくげんちゃんとみどりは同じくらいの年だ。彼らが小学生だった50年以上前には山査子の木は珍しくなかった。ふかしたサツマイモほどではなかったけれど、山査子飴も祭りでも見かけた。ということは秋に祭りがあったのだろう。山査子の実が生るのは9月から10月ごろである。
「秋の実りが待ち遠しいね。ただ、今の実りも悪くないよ。いや、夏の果実を味わわない手はないね。そうそう冷蔵庫に入れておいたんだった。カエルくんちょっと、台所に失礼するよ」
野人は言いながら、厨房に入っていった。そして、小瓶を7つ抱え、肘には編みかごに丸くて緑に赤みがかったくだものがいくつも入ったかごを下げていた。
「昨日あんずジャムを作ったんだ。この通り、足が最近うまく動かないから退屈でね」
「甘くていい匂いがしますね」
とうとう席から立って、皆がカウンターに集まった。しかし、みなで囲んで座れないので、テーブル席を二つ繋げてあんずとあんずジャムを覗きこみ、みな胸いっぱいにその甘い香りを吸い込んだ。
「みどりさんのビスケットにこのジャムつけてもおいしかろう。カエルくん、パンはあるかい」
「あるよ、じいちゃん。おいしそうだな。パンをトーストしてくる。みんなに配っても俺の分のジャムも残しといてよ」
「杏の旬は短いが、その分いっぱい実るんだよ。今は大丈夫。雨でやられないようにハルさんとだいぶ収穫したんだ」
「いいですね。俺にもください。あんずの酒にしてみようかな」
「お、いいね。俺も分けてほしいよ」
霞が言うとゲンちゃんが自分もほしいと手をあげたので、造ったら分けると霞が約束した。みどりが冷蔵庫からたっぷりの量を冷やしておいたナツメ茶を持ってきて、みなのコップに注いだ。ほんのりと甘いお茶に、甘ったるいあんずのジャムを塗った香ばしいビスコッティがよく合う。
「七夕の日は晴れますかね」
誰かが言うと「さあ、わからないね」と誰かが答えた。
雨脚はどんどん強くなっている。川の増水が心配だ。その不安を甘いお菓子とお茶がほぐしてくれるようだった。
むっとした土臭い雨の熱気も、ハーブと甘い果物の香りでいっぱいの店の中まで届かない。
↑棗(についてとビスコッティのレシピ)
ストロベリーモヒートティー
霞⇔夕
香の住む別荘の台所はとにかく広い。どこのレストランにも負けないほど保冷庫も豊富にある。そのため、いただきものの果物を保存しておくのにうってつけだった。夕方仕事を終えて泊まりに来た霞は今日も今日とてたくさんの荷物を抱えていた。
「また、いちごをもらったよ。もうたくさんだね」
「またもらったの?」
「うん、近所の人がいちご農家の親戚の人が亡くなったらしくてね。それで残った畑のいちごを収穫したのをもらったんだ」
「そう」
それはさすがに断れない。5月から野菜や果物をもらうことが増えている。ズッキーニやスイカやメロンなどのウリ科にはじまり、特に多いのがいちごだった。GW前にもらった時に今年はじめてのいちごに感激して、「いちご大好きなんです」と言ってしまったのがよくなかったのかもしれない。それからあちこちからイチゴ攻めに遭っている。
「この町っていちご農家が多いの?」
「さあ?有名なのはやっぱり梨や栗かな。ぶどうや桃もおいしいよ。水がいいからね。スイカもかな。いちごは有名ってわけじゃないけど、多いのかもね。よくみるよ」
霞の言葉に香は嘆息するより関心した。果実町は町の特徴に似合う町名にした方がいいという当時『山鳥』の社長だった香の祖父の鷹之の提案で7年前にその名になった。もとは日本にいくつかある平凡な町名だったのだ。しかし、これだけ果実町で採れる果物の多さを実感すると町名を変えて正解だったと思わされる。祖父の先見の明は確かだ。鷹之やあるいは遥のように果実町をより盛り上げられる企画が自分に作れるだろうか。
香は何段にも重ねられたプラスチックケースに入ったイチゴを見ながら思案した。
「いちご酒もいいよな」
車からいちごを台所に運び終えて、言いながら霞は無造作に冷蔵庫に冷やしてあった紫蘇と柚子味のフルーツフレーバーティーの入っていたガラス容器を取り出した。そのままごくごくと喉を鳴らして全部飲み干してしまう。
雨の小休止のおやつ時はやたらと蒸し暑い。これから夕立が来ることは確実だった。肌がべたついて、最近は香も長い髪が鬱陶しく感じていた。
「そうね。フルーツフレーバーティーの新作も考えなくちゃいけないけど、山鳥と霧山で共同開発みたいなお酒を出すのもいいね」
霞が飲み終えるのを見計らって香が声をかけると、「それなんだけどさ」と霞が暗い顔で言いさした。
「なに?」
「うん。俺はね」
霞の言葉は、スマホの振動と玄関の呼び鈴に遮られた。玄関の呼び鈴がスマホとつながっているとスマホが振動するとすぐに手に取る癖がつく。台所から玄関まで距離がある。スマホのカメラ音声で「ちょっと待ってください」と返事をしてから香は慌てて玄関に向かった。香が玄関に出ると、姑の夕が立っていた。
「こんにちは。ごめんなさいね。霞がいちごをここに持っていくと言いながら、置いていったもんだから、持ってきたのよ。台所の方に回っていいかしら」
「ええと、はい」
いちごの入ったケースを三段も重ねて持っている夕になんと言ったものか答えあぐねて、香はつい肯定の返事をしてしまった。
「ほら、夕。あなたこれ置いて行ったわよ」
夕がどっかりと広い調理台に卸したいちごのケースを見て、霞は眉を上げた。
「お母さん、いちごは持ってきたんだよ。それは我が家の分」
「なに?持ってきてたの。こんな量がたった3人か4人の家族で食べられるわけがないでしょうか」
夕の言い分はもっともだ。一升瓶がダースで入りそうなプラスチックケースに大量のイチゴが入っていて、そのケースが目の前に6箱あった。けれどもそれは全部同じ人からもらったわけではないのだ。香がうかつにも「いちご大好きなんです!」と言ってしまったばっかりに。口は災いの素である。「雨が降っているので、雨が止むまでいらっしゃったらどうですか。夕飯を食べていってください」
「あら、いい?そうしようかな」
香が誘うと、夕はあっさり頷いた。香は二人を居間の方で待っているように促した。霞が手伝うと言ってくれたけど、断った。ばっちり一人で準備できるという算段があったからだ。
今日は事前に霞が来ることが分かっていたので、カエルに教わったレシピで今日はシチューを作ってあった。ベシャメルソースは冷凍で保存できて、何か作るものを思いつかなかったときに便利だと言われたのだ。シチューだけでなくグラタンにも使える。ズッキーニなどの夏野菜との相性も悪くない。同じくカエルにレシピを教えてもらったバーニャカウダソースも昨日遥と作ったばかりだ。野菜は生でスティックにして出せば事足りる。パンもカエルが焼いてもらったのを冷凍してとってあった。それを焼けばいい。全くカエルさまさまだ。
いちごも食卓に出した方がいいだろう。料理はほぼ温めるだけなので、香はいちごのお茶に挑戦してみることにした。冷蔵庫の中身を見たら、チルド室に野菜がスティック状に切られた形でジップロックに入れておいてあったのだ。そんなまめなことをするのは霞に違いない。新居ができるまで同居がお預けになっているせいか、霞は来るたびになにかしらの家事は一通りやってくれるのだ。おかげで、香の家事スキルはちっとも上がらない。この山で暮らしていたら、生活上のことは至れり尽くせりだ。
「野菜もハーブも困るほどあるしね」
ひとり言が広い厨房に響いた。香はスマホを取り出して、いちごのレシピを検索した。いや、正確にはミントのレシピだ。
香は、霞の考えるフルーツフレーバーティーの新商品のアイディアの助けにならないかと最近はずっとお茶やお酒のレシピを検索している。その中の一つで特に印象に残ったのが、カクテルモヒートだ。カクテルモヒートはかの文豪ヘミングウェイが愛飲したとされる。元はキューバ生まれのカクテルだ。それにいちごを加えたストロベリーモヒートというカクテルがある。夕も霞も車で来ているので、アルコール抜きにするつもりだった。以前ネットで見たレシピについては作り方を覚えていなかった。前に見たサイトとは違っていたが、目について開いてみたレシピにはライムを使うとあった。残念ながら今は旬ではない。まだまだ先だ。実のところ、頭の中では春ごろから新商品のアイデアに使えないだろうかとミントといちごと柑橘の組み合わせがずっと頭にあったのだ。けれども、実際に作ってみるには至らなかった。
香は、料理を温める間にお湯を沸かして、乾燥ミントをティーポットに入れてお湯を注いだ。しばらくポットを蒸らすうちに別のコンロでいちごを砂糖で煮た。お茶に色を付けたいのいちごシロップが欲しかったのだ。
柑橘はハーブが保管してあった場所に甘夏を見つけてそれを使うことにした。それを絞ると、香水として身に着けたいようなさわやかな甘さが肌にしみこむように感じられた。しぼり汁はそれなりにひんやりとしている。そのまま温かいミントティーといちごシロップと混ぜたら温くなるので、冷凍庫から氷を取ってきた。丸みのあるコップにいれると氷の存在感がありすぎる気がしたもののすぐには氷をアイスピックでクラッシュする気になれなかった。いちごの果実も煮てぐずぐずになったものは温かいのでそれは保存容器に入れて蓋をしてほかの準備をする少しの間だけ冷凍庫で冷ました。コップに一つだけ作ったオリジナルのストロベリーモヒートティーを飲み干して、カットしたいちごは皿に盛ったまま、食卓でコップに飾ることにした。しかし、完成形を頭の中で考えるとそれだけではまだ色味が何か寂しい。刺激も足りない。そうだ、炭酸水で割るんだったと思い出して冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出してワゴンに置いた。その時にはすでに香は料理の盛り付けが終わりワゴンにシチューなどの料理を並べ終えていたが、また思いついて庭に向かった。そして、お茶にしたのと同じアップルミントを取ってきた。流水でよくよく洗ってきれいな小ぶりの編みかごに両手いっぱい分のミントを盛ったら満足した。そのかごもワゴンに置いて、意気揚々と食堂に向かう。途中、今の前で霞に行き会った。
「ごめん、待たせて」
夢中で支度をするうちに、夕が来てから30分を過ぎていた。
「いや、大丈夫だよ。こっちも話し込んでだからさ」
霞が自然とワゴンを持ってくれたので、手持無沙汰になった香は、エプロンを取って、霞の隣に並んで歩いた。
「なんの話をしていたの?」
「弟が語学留学するっていうんだ。それは、数か月なんだけど。しばらく海外に行きたいらしい」
「え」
どこかで聞いた話だと何も持っていない手が上ずった。香の兄も香りの結婚が決まってから、欧州の研究所に就職した。食堂で料理をセッティングしながらも、近づいてくる夕に話が聞こえるのは分かっていながらも香は話を続けずにおれなかった。
「霧山で働くのが嫌になったの?」
「というより、ここしか知らないから世界に旅立ってみたくなったらしい。専門学校に行っていた2年間以外、ずっと果実町だからね。調理師の専門学校に行ってたんだよ。そのころに俺が癌になって、たぶん無意識に家を手伝わなきゃって意識に駆られたんじゃないかな。せっかくの免許も生かせてないし。なんでもカエルの料理に触発されたらしい。かえる亭で働くことも考えたらしいが、兄弟二人で同じ職場っていうのはまた、実家の手伝いと似た感じもするだろう?」
確かに言われてみたら、家業を兄弟で手伝い、貸庭で二人で働くのは同じ学校に通って同じ習い事をする兄弟みたいに思える。別段、何も悪いことはなく、兄弟なら趣味が似ていておかしくはない。けれども、同じことをするにしても兄弟で違うグループに属したいという気持ちもよく理解できた。香が高校で勉強を頑張ったのも、国内の兄と姉と同じ大学ではなく、海外の大学に行きたかったからだ。それには兄弟うんぬんではなく、なんとなく高校の頃の付き合いと離れたいという思いも多分にあった。致命的なほど友人関係が壊れたことはなかったが、ずっとこのグループから抜け出せなかったらどうしようと怖くなることもあったのだ。霞の弟も生まれ育った果実町で子供の頃からよく知っている実家の会社で働くのは気安さだけではなく、窮屈な思いもあったのかもしれない。数か月でも数年でも気晴らしに外の空気を吸うくらいさせてあげたらいいとは思う。しかし、それで、香の兄のように日本の東京よりどこかの国のどこかの町を気に入って暮らしたくなるかもしれない。まるで成人した魔女が旅立つように。
料理を並べ終わってみなで3人で食卓を囲む。香も一度腰を下ろしかけて慌てて立ち上がった。
「オリジナルのストロベリーモヒートを作ってみたんです。本当はライムを使うんですけど、甘夏で。いちごシロップに炭酸水、カットしたいちごと砕いた氷を入れた後に、ミントティーと絞った甘夏の果汁にしようかな。ほら、色がきれいに出た!ミントティーは少なめがいいみたいですね。フレッシュのハーブだけでもいいのかも。最後にこのアップルミントを飾って出来上がりです」
炭酸を注ぐと丸い氷の周りで泡立ちの調和が取れて見えた。甘夏の果汁といちごシロップの色が溶け合って独特の赤色を作り出した。コップの上に行くほど色が薄くなり、いちごの果実が一つ二つと固まらずに不規則に浮かんだ。
香はそのお茶の頭の中の想像以上の出来上がりに満足した。3人分のコップを並べると夕が乾杯を促したので、「乾杯!」とコップをぶつけあって、ドキドキしながら口をつけた。味は思ったより甘夏が苦いな?と香は感じたけれど、霞と夕は喉が渇いていたらしく、ごくごくと飲み干した。
「汗かいているからこういう甘いものがしみるね」
「そうそう、お酒にも合いそうね。でも、疲れているからお酒が回っちゃいそうで怖いわ。この後、ここの温泉に入って帰りたいのよね」
息子の言葉にうなずきながら、夕はあっという間にごはんを平らげてしまった。
「少なかったでしょうか。おかわりとってきましょうか」
二人が平らげても、香はまだ半分ほどしか食べていなかった。どれくらい食べるか量を聞いて、鍋ごと持ってくればよかったのだ。3人とも同じ量で均等にシチューを盛ることしか考えていなかった。これこそが、料理慣れしてないことの表れだ。
「いいんですよ。帰ってまた晩酌するから。それよりも、香さんが本当にここでの暮らしを楽しんでくれているみたいでうれしいですよ。この間の料理教室も香さんのおかげでみんな楽しそうだったわ。積極的にみなさんに話しかけてくれたでしょう。このいちごのノンカクテルもね。なかなかやってみようなんて思わないですから」
夕がそんな風に手放しで褒めてくれたので、酒でも飲んだように香の頬はかっと熱を帯びた。子供の頃から、すぐ赤くなってのぼせやすいたちなのだ。
「いえ、そんな。世間知らずで育ちましたから、いろんなことが珍しいだけですよ」
「いえいえ、世間知らずの人はこんな何もないところに移住してやってけませんよ。香さんのおかげでハルちゃんもね、あんなにやる気を出して。びっくりですよ。もうここで埋もれていくんだろうかと思ってましたから。悔しいなって思っているんですよ。こんなに町を盛り上げてもらって。私もやりたかったなって」
「そんなこと」
香はなんと答えたものか困ってしまった。結婚前後の付き合いで、夕が果実町の振興に20代の頃からどれだけ心を砕いてきたか知っている。空回りしてきたこともあるようだが、彼女の手腕で霧山酒造の焼酎が全国に知られるようになったのは事実だ。時代のブームに乗っただけと言われたら、そういう面も確かにあるだろう。けれども、何もしないでブームに乗ることは決してない。昨今人気の動画投稿サイトだって、投稿しなければ、バズって流行したりはしないのだ。だからと言って、本人が結果が出ないと言っているのに、努力しただけ素晴らしいですよとお世辞は言っても仕方ない。
「今からだって、お母さんもやればいいじゃないか。引き際のことばかり考えてうじうじしているのはみっともないよ。まだ70前じゃないか。無理に他人とか俺に任せようとしなくていいんだよ。霧山以外のことがしたいなら、それでもいいし、お母さんだって世界旅行に出かけてみたら」
「うじうじとか、辛らつね。でも、そうねえ。別に私、やりたいことはこれからも勝手にやるかもしれないわ」
そう言って表情を曇らせて、夕は席を立った。
「ごちそうさま。私には、さすがに世界旅行する体力は残ってないわ。でも、やりたいことができる環境ではあるわね。香さんも温泉行く?」
「香さんはまだ、食べてるから。それに話もあるんだ」
「そう?じゃ、お邪魔様でした」
「いえ、お構いもできなくて。気を付けて帰ってください」
通り一片の挨拶をしながら、香は落ち込んだ様子の夕に何かもっと別の言葉をかけたい気がした。しかし、外に出て車が出発するまで見送りながら、どうしてかどんな励ましの言葉も言うことができなかった。
食事に戻ると、霞が珍しく酒を飲むと言い出した。ホワイトラム酒と霧山の焼酎を1瓶ずつ食卓においた。その隣には、モヒートティーを作るのに余った花の咲いたミントが水挿しにしてあった。
「ミントの花で栞を作ろうかな」
まだ半分近く残っている食事をするために、香が席に着きながら言う。霞はその言葉を聞いて、「本当に香さんはマメだよね」と感心したように言った。
「マメじゃないよ。料理も掃除も家事は全然ダメでしょ。ヤマさんの方が上手じゃない」
「まあ、その辺は親が忙しかったから、子供の頃からやってたからね。高校の頃は弁当は自分で作ってたよ」
「そうなの?」
意外だった。霞の母の夕は料理上手だ。これまで2回ほど通った煮物教室は盛況で、いかにも子育てに手を抜かなかった人のように見えたのだ。
「お母さんは、客が来ると豪華な料理を作るし、作り置きもまあするから、それを弁当に半分は詰めてたけどね。やりたいことに一生懸命で、PTAの役員とかもやってたから、夜も結構いなかったよ。それで、あまりに家にいないお母さんにお父さんが怒ってね。一時は離婚危機だった。お父さんはもう仕事はしてないんだ。いや、してるか。海外で酒巡りしてる。お母さんはそれについて行く性格じゃないからね。弟もお父さんのことがあるから、うらやましくなったんだと思う」
「へえ」
香は霞の父とは結婚式のときに会っただけだったので、それ以来会わなかったのはそんな事情があったのかと今更ながら知って驚いた。香自身は大学を卒業して以来、一度も海外に行っていない。学生時代は大学周辺の治安が悪くて、あまり外にも出なかった。当時できた知り合いも卒業後数年は連絡を取り合っていたが、果実町に来てからはとんとご無沙汰である。
「お母さんはやりたいことやらせておけばいいんだよ。すぐに人のことがうらやましくなるんだ。あれもこれもやりたがってね。お父さんがそんなお母さんにうんざりする気持ちもわかるけど、でもなんでもお母さんがお父さんに譲っていたら、霧山酒造の今の姿はなかったと思うんだ。だからね。俺は香さんにも俺を立てようとしないでほしいと思うんだ」
「わたし、ヤマさんを立てようとしてるかな?」
「してるよ。だってさ。新商品のアイディアをどうして俺に出させようとするの」
「それは、だって、次の果実町発の商品だから果実町の人がいいでしょ?」
「君だって、果実町の人でしょ。もうここに3年以上住んでいるんだよ」
霞の言葉に、香は目を瞬いて飲みかけのコップを置いた。飲み干したグラス部分に炭酸でいちごの色がついて、飲んだ後に汚れて見えて見た目が悪いかなと明後日なことに思考が飛んだ。
自分は果実町の人だろうか。そうだとしても、新商品案は霞が出した方が穏便に済むのではないかと思うと、なんて言葉を返したらよいかわからなかった。
「このストロベリーモヒートいいよ。新商品の案じゃないの。いちごを使いたいって言ってたよね。周囲にたいくさん意見を聞いて情報集めして、アイディアがいくつもあるんだから、自分で商品案を出せばいいのに」
「ヤマさんはまだ新しいフルーツフレーバーティーの味が全く思いつかないの」
「俺の中にも思い付きみたいなアイディアはいくつかあるよ。でも話を聞いていると、それより香さんが考えている案の方がいいと思うんだ。棗茶もいいよね。考えたらフルーツだよ、棗も。いちごティーで単純にいちごミルクにもできるっていうのもいいと思う。でもこのストロベリーモヒートならいろんな柑橘とミントの組み合わせが考えられる。バリエーションが広がって楽しいよ。酒にも合う」
「ホワイトラムのモヒートカクテルはすでに世間にあるの。それにフルーツフレーバーティーを合わせる海外のアレンジレシピを見たのよ。ハルさんが考案した柚子紫蘇味のね。いちごもいちごミルクにする方法をハルさんに教わったの。他人から着想を得たのであって、全部私のアイディアってわけじゃないの。だから、私がアドバイスしたのをヤマさんが形にしたっていいんじゃないの」
ほとんど遥の発想を真似したのだ。それをどうやって宣伝したらよいか、広報の方法について香の中に確かに案はある。ミントの酒などは山鳥も以前から扱っていた。果実町に車で香自身はミントになじみはなかったが、知識としてミントはずっと知っていた。しかし、ミントを使った新たなアイディアを実行するのは香ではなく、霞にもできることだった。
「そんなにこの町に染まらなくていいよ。いや、染まってほしくない。お母さんも言ってたけど、香さんにこの町に来てよかったって思ってほしいんだ。遠慮なく楽しくやってほしい。面倒くさかったり、疲れてたりしてたら、代わるよ?でもさ、アイディアを任せるなら俺でなくても、ほかの人でもいいわけだ。それを俺にこだわるのは、やっぱり俺は立てたいんじゃないかって思ってしまう」
「果実町に来てよかったって思ってるよ。今の私に海外移住の希望はないもの」
実は10代の頃にあんなに意気込んで勉強したのに、香は若いうちに海外の大学生活で日本以外で生活するのは無理だと心がポッキリ折れてしまったのだ。何とか卒業まで持ちこたえるのが精いっぱいだった。社会人になってしばらくして鬱になってしまったのも、海外の環境になじめなかったことが尾を引いていたためだろう。だから、果実町に前々から興味があっても、なかなか行く機会を作れずにいたところ、来てみればスムーズにこの町で暮らすことになっていったので、自分でもことの成り行きが最近は感慨深い。まさか兄の方が海外志向が高まるなんて思ってもみなかった。
「そうだとして、自分のやりたいことをやりたいようにやれてる?ハルさんの場合はさ。仕方ないよ。責任を負わせないと、考えないかもしれないし、考えてても言わないかもしれないからね。新商品を考えて!貸庭の管理人になって!っていちいち背中を押さないといけなかった。たぶん、就職してから苦労して委縮してああなっちゃったんだと思う。香さんもそうなの?」
香は返事ができなかった。東京で委縮はしていただろう。鬱になってしまったのだから。けれども、今は人間関係に悩んでいるつもりはない。もちろん人の相性というのはあって、だれとでもうまくやれているというつもりはない。それでも、かつてよりはのびのびしていると思うのに、霞にはそう見えないのは以前の香を知らないからではないだろうか。それにしては、遥がどうしてああも厭世的なのか正確に考察できているようだ。
「俺は自分でシンデレラだと思っている。なんで自分にこんな幸せな結婚が降ってわいてきたか分からないという意味で。香さんはさ。自分の中にあるアイディアを人に託すより、自分で企画した方がいいと思う。やってみればいいじゃないか。そんなに俺に花を持たせようとしなくていいんだよ」
今夜の霞はいつも以上に饒舌である。香が聞き役になるのも珍しい。甘い酒で酔ってしまったのだろうか。蒸し暑い夜だからか、甘くて冷たいフルーツハーブのカクテルティーがよく進むようだ。ふと、香が外に目を転じると窓外にホタルがひとつ、ふたつと飛んでいた。こんなに蒸し暑くてもホタルは出るのかとやはり彼女の思考は別のところに飛んで霧散してしまう。霞が熱く語る内容は寝耳に水なものの、なんだかあまり怒ったり驚いたり感激て喜んだりする気になれなかった。温い空気が背中に冷たい汗を流している。甘くて爽やかなノンアルコールのカクテルティーが意識をすっきりとさせてしまう。
「俺は、別に山鳥の経営に俺がかかわる必要はないと思っている。弟が嫌だっていうなら、まあ仕方ないけど、従業員だって俺よりずっと優秀な人がいるよ。それに俺の奥さんなんて、根性あるよ。東京の大企業のお嬢さんがさ。何を好き好んでこんな田舎に来てくれるんだ。もう4年近く住んでるんだよ。美人で根性があって、いつも奥さんを自慢したい。山鳥を抜きにしても海外のすごい大学出てるんだよって。何か国語も話せるんだよって。こんな奥さんをもらえるなんて、俺は前世でどんな徳を積んだんだろうと思っている。俺は病気療養を理由に5年くらい働いてなかった時期があるよ。やる気が出なくてね。年が上だからといって、社会人経験がそれほど多いわけじゃないんだよ」
卑屈なのか、開き直っているのか。霞に手放しで褒められて反応に困ってしまう。子供の頃は褒められることも表彰されることも多かった。大人になってからはとんとご無沙汰だ。
「それで、ヤマさんは私にどうしてほしいの?」
誉め言葉に上せそうになるのをやはり冷たいカクテルティーで飲み干して、長い夫の演説の結論を香は促した。
「だから、自由にしてほしい。新商品はいいのを思いついた人が思いついた企画で出せばいいんじゃないかな。それで、本当に俺の番が来たら、考えるよ。俺はそもそも貸庭のスタッフとして働くだけでも十分なんだ。状況的にそういうわけにはいかなくなったけど」
「私だって、貸庭のスタッフをハルさんとやってたいの。でもね、庭作業をしているといろんなことを考えちゃうでしょ。あの場所でいろんな話を聞くとね。頼まれごとをするとね。うれしくなっちゃうんだよね」
そう。思考が脱線する癖は、ガーデニングをやっているとついてしまう。この花の手入れをいつするべきか、あの木はいつ花が咲くかなんてことばかり考えているわけではない。庭木や草花の成長を見ていると、自分の思考を風に任せたくなってしまうのだ。鬱陶しいような蒸し暑さの中で、ガーデニングの作業するのも悪くない。シャワーで汗を洗い流していると物事がすっきりと考えられるようになることもある。気の合う仲間とだけ暮らしていられたらいいのに、なぜか面倒な人間関係に動き出してしまうのだ。湯気で煙る風呂場の鏡に映るのは自分の裸像ではない。透けて見える自分の頭の中だ。たとえ商売にならなくても、香にはやってみたい気持ちがある。おそらく、遥が新商品の案を考えている姿を眺めていた時から、香のフルーツハーブ生活はすでに始まっていたのだ。
「私ね。せっかく、果実町と霧山酒造にこうして縁ができたんだから、果実酒の開拓に興味があるの。もちろん、今はほとんど素人同然の知識しかないんだけど」
「うん」
「ティーカクテルというものがあるの。ヤマさんも知ってるかもしれないけれど、柚子紫蘇茶が夜明けの色だったでしょ。この柑橘の入ったストロベリーティーも暮時の燃える橙色だったり赤いの。そして九州にある紅酒。うちじゃないけど、ああいうのも使ってみたい。イメージって大事でしょう」
「うん」
「日本式ダウンティーシリーズなんてどうかな。もちろん、売れるか分からないから、ハルさんの柚子紫蘇茶とこのストロベリーティーともう一つ赤いのが欲しい。3つ並べてね。柚子紫蘇茶には特別な名前がなかったから」
緑茶はグリーンティー、紅茶は茶葉が黒いからブラックティー、ルイボスティーはレッドティーと言われたりする。欧州は硬水が多いから紅茶の色は黒っぽくでがちだ。しかし、日本では軟水が多いため普通の紅茶でも深紅色に明るくなるのだ。だから、日本の紅茶自体”赤”のイメージはある。では、紫蘇やいちごのティーカラーはどうそれらと差別化して表現するべきだろうか。焼酎の名前っぽくても、香には今は自分の中のティーカラーを夜明けのイメージで考えていた。
霞の新商品開発を手助けしたいと思っていた。その中で香自身の中の妄想も広がっていったのは事実だ。
「いいね。楽しいんじゃない」
新商品の開発にずっと悩んでいるように見えていた霞は、まだまだ思い付き段階の話を聞いて自分こそが楽しそうな顔をしていた。霞は何も思いつかずに悩んでいたのではなく、霞こそが香の気持ちを引き出して、どうやって手助けしたものかどうかで悩んでいた。香が幸せな空想にひたっているだけ、悩ませていたのだ。
「ありがとう。ヤマさん。私も案を出してみる。もちろん、ヤマさんの意見も聞きたい」
「いいよ。家族だからって仕事の話を必ずお互いにしなければいけないものではないだろう。でも、こうやって同じことにかかわっていると楽しいこともあるよね。俺はこれ気に入ったよ。ハーブやフルーツがお茶になって、お酒になる。これまで考え尽くされているかもしれないけれど、面白いのに変わりないんだから」
霞は2杯目のストロベリーモヒートを作ってコップの中で揺らした。
ゼロからイチを作り出すのは難しい。そのつもりでも、誰かと似ているか同じ発想であったりする。結局は、自分がいいと思ったものを作るしかない。
”これからは生産者が販売者になる”
香は先日の野人の言葉を思い出した。生産者が販売者になれるなら、販売者が生産者にもなれるのではないか。庭づくりをしながら、新しいハーブティーやフルーツティーを考える。そのマーケティングにかかわる。そんな暮らしをこれから始めるのだ。
食事を終えて片付けをして、霞とホタルを見に外に出た。雨上がりの熱気はいつの間にかひんやりとした冷気に変わっていた。明日晴れるならば、午前中は霧が出るだろう。今夜作ったストロベリーモヒートを香は思った。飲み干したときに氷はすべて溶けていた。氷の中にも忍ばせておいたモヒートがコップの底に残って刺激的に香った。
ハーブソルトの肉団子
ケージの中で子猫がハンモックですやすやと寝入っている。その姿をじっと眺めていたいけれど、日差しが強い季節になってきたので、日当たりの良い猫部屋のケージには天板の網に布がかけられていた。長毛と短毛の猫が入交じる部屋では過ごしやすい快適な気温も違うだろう。冷暖房機はあるが27,28度の少し高めの温度設定で、ペット用のひんやりパッドなどが敷かれていた。日当たりについては建築家で庭師の野人が部屋を作り直すと張り切っていたものの、月初めに足を怪我してそれ以来作業ができていない。業者に依頼するにも費用がかかる。野人や香がポケットマネーでやることはできる。けれども、それでは自分の家で飼う延長と変わりない。
果実町にある『峠道の貸庭』。そこでは猫のTNRを行っている。貸庭の創設メンバーである香が町の野良猫の多さを見てどうしてもやりたいとはじめたことだ。しかし、実際にはリリースではなく、譲渡をすることも多い。貸庭では、猫部屋では猫エイズなどの疾患持ちの猫とそうでない猫の隔離を行っている。しかし、リリースすれば猫エイズの猫もそうでない猫も一緒くただ。若い猫はケージの順応性も高いが、猫も年を取るほど自由を求める。だから結局は、猫を譲渡することになった。金銭のやり取りがなければ許されるので、避妊手術やワクチン接種や駆虫などは貸庭のスタッフが育てた植物を売った収益で一部賄っている。最初はクラウドファンディングもしたが、それをずっと続けられるわけでもない。貸庭でやっている猫の避妊手術はまだ香の趣味の領域を出ていなかった。だから、猫の保護活動をしていると言い難い。
それなのに、猫の保護についての保護施設の集まりに安易な気持ちで参加してしまった香は後悔していた。有意義な話も聞けたが、最後に求められるのは寄付だ。寄付するお金がないわけでもないけれど、それに寄付するくらいなら自分たちの活動資金にした方がいい。寄付などこちらでも募りたいくらいだ。猫の引き取りだって、こちらがするよりむしろしてほしい。結局は同じ悩みを持っている人たちだけでは、その悩みを解決できないのだ。
きゅっと白いキャップを抑えて、香は電車に乗っていた。電車の切符を自分で買ったのははじめてのことだ。スマホの電子決済が使えたので、券を買ったのは行きの乗り換え前の1枚だけだが、とっておきたいくらい機械に入れるのが名残惜しかった。休日に付き添いでついてきてくれた霞が、地元の駅で「記念になるような切手を売っているよ」と教えてくれたので、帰りにそれを買った。幸せな場所に連れていってくれる、ハートの紙の切手ケースの収まったピンク色の切手だった。
梅雨の雨で現れた渓谷の水は澄んでいて、深い杉の緑を映して流れていた。車窓からそれを見ながら、改めて果実町はなかなかにいいと香は感心した。ただ感動するだけでなく、どうして観光に繋げられないのだろうとつい理屈っぽく考えてしまうのが香の悪い癖だ。
「ただいまあ。お茶会は問題なかった?」
カエル亭の扉を開けるなり、香は遥の姿を見つけてつい愚痴をこぼした。
「うん。最近久しぶりに天気もよかったし、10年前のの水害の黙とうをしたり、静かな会ですぐ解散したよ。余っているから、肉団子をどうぞ。バジルソルトで作ってあっておいしいよ」
遥が手際よく肉団子のパスタを用意してくれて、香は遠慮なく昼食をとらせてもらうことにした。すでに2時を回って午前中のイベントが終わり、客のいない時間帯だ。レストランの夜の営業時間まで数時間以上ある。駅で切符を買った以外に寄り道もせずに帰ってきた。霞は早く戻ったから実家の仕事の様子を見てくると言って別れ、また夕方になったら貸庭の方に来ると約束していた。
香は、朝から行きの電車で季節外れの栗のアイスを食べた他は何も口にしていなかった。
「おいしい。私もこっちの会に参加すればよかったなあ。人手がそんなにいらないからって甘えちゃったけど、よく分からない会だった。私が勉強不足なのかなあ。なんだか、自信がなくなってきちゃった」
趣旨がよくわからないのに、気まぐれを起こして参加してしまう集まりというのがある。『猫の会』もそれで、先日夜に参加したオンライン座談会では今日よりも得るものがなかった。考え方の違いが浮き彫りになっただけだ。愛猫を自慢したい人と猫保護を広めたい人では、参加動機も噛み合わない。今日のように猫の保護をしたい人や猫を既に飼っている人に猫のための寄付や新たな猫を飼う事をすすめても、猫の幸せにつながりにくいだろう。そのお金があれば、既に飼っている猫に費やした方がいい。
「香さん、最近ちょっとついてないかもね。先日のラジオでも大変だったんでしょう」
「そうそう思い出したら、腹が立つやつね」
香は先日、県内のラジオ局の番組にゲストとして呼ばれた。移住者としての率直な気持ちや貸庭での仕事の内容を話してほしいと事前に聞かされていた。しかし、本番ではラジオで嫌がらせのような果物や紅茶のクイズを出され、香は半分も答えられなかった。果物の細かい品種や採れた土地での味の違いなどなかなか分からない。それをラジオの司会進行役に面白おかしくネタにされ、愛想笑いで通したものの帰ってから悔しくて涙が出たほどだったのだ。
”客のわがままが店を育ててくれる”。飲料メーカー『山鳥』の創業者で、果実町の振興の立役者である鷹之は孫の香によくそんな言葉を言って聞かせた。果たして、ラジオなど呼ばれて行った仕事先の相手は客だろうか。別れ際に貸庭の土地が空いているかと聞かれて、春まで予約待ちだと言ったら、不機嫌な顔をされた。実はまた、山の上を拡張工事しているのだが、それを教えるべきか迷ったのだ。里山は人の手入れが必要だと野人に聞かされている。しかし、山を切り拓く行為だと批判する人も多い。
『もちろんこちらを傷つける意図のあるものはわがままではなく、罪だがね。しかし、わがままが無ければ無理をしない。自分に見切りをつけてしまう。わがままな客をこちらが安易に見限ったら、出会いも少なくなってしまうんだよ』
先日、建設途中の果実町の家を見に来た鷹之はやはりそんなことを言っていた。やりたいことがあるなら、自分に見切りをつけてはだめだと香も分かっている。しかし、今日みたいな午前中だけで疲れた日は、午後の活力が底をついている。
「そうだ。今日のフルーツは何にする?季節じゃないけど、アップルパイを作ったから、リンゴがたくさんあるんだよ」
しかし現金なもので、カエルのそんな言葉を聞くと、香はすぐに立ち上がった。
「最近までの雨でタイムがだいぶくたびれてたよね。わたし、それをちょっと刈り込んでくる。それでリンゴを絞ってタイムと合わせるの!」
「そう?じゃあ、私も少し手伝うよ。私はモヒートをついでに摘んできて、この間香さんに教えてもらったストロベリーティーを作ろうかな」
「あ、それなら、俺の分もお願い。じいちゃんもみどりさんも飲むかな?」
「はい、私も飲みたいです」
香が来る少し前から同じようにまかないで肉団子を食べていたみどりが賛同し、野人も頷いた。
「じゃあ、食べ終わってから作業しに行こう。おやつの時間にジュースを飲めばいいからね」
遥に諭され、香は食べかけのお皿を見下ろして、恥ずかしくなって腰を下ろした。
「りんごジュースにテンションが上がるなんて子供みたい」
「いやいや、私だってストロベリーティーにテンション上がってるよ。香さんが写真で送ってくれたやるおいしそうだったもの。アップルパイにチョコソースたっぷりかけて、甘夏のいちごモヒートでそれを流し込みたいい。うん。おなかがまた空いてきた。最近、体重増えたから困ってるんだよね。今年はハーブで夏バテ知らずで」
いつも落ち着いた遥にしては常になくはしゃいだ声だった。香は嬉しくもむず痒い気持ちでカップを回した。
「いいことじゃない。そういえば、私も今年は夏バテまだかも」
梅雨が明けて、ここ数日頭痛が治まり、香の食欲も回復していた。そのために食欲も新たなフルーツフレーバーティーの開発の意欲もわいているのかもしれなかった。香は以前なら残していただろう量のバゲットと肉団子のトマト煮込みを平らげて、今度こそ立ち上がった。
「ちょっと作業して、おやつにしよう」
「うん、そうしよう」
夏の日差し避けには心もとない白いキャップを被った。遥は椅子の背もたれにかけていた麦わら帽子を持ち上げた。遥はエプロンをつけていた。しかし、香はエプロンを家まで取りに行くのが面倒だった。
たまには白っぽい服装で庭作業をするのもいい。ひまわりの下で白い帽子と白いTシャツが映えるだろう。
アロマピロー
ハチ⇔両親
実家からスイカが送られてきた。それをハチは喜べなかった。林田九州道(はやしだくすみち)は今年の春から、果実町の『峠道の貸庭』で働きはじめた。大学を卒業後、漫画家を目指しながら実家の農業を手伝い、飲食店でアルバイトをし、プログラマーの講習に通ったりと腰の落ち着かない息子を両親は心配していた。それが20代も後半に差し掛かって、漫画家のアシスタントが決まり、おまけに体力とパソコンの技術が買われで仕事が決まったと話すと、このチャンスを逃すなとばかりすぐに親が万端荷造りをして送り出された。親にどれだけ心配をかけたか。親心はうれしいけれど、この町でしかも貸庭で暮らしていて、果物はいらない。スイカをみて思わずハチはげんなりしてしまった。果物は毎日おなか一杯。それを親にどういったものか。スイカはハチの好物なのだ。
とりあえず、一人では食べきれないので、仕事場に持っていくと当然のごとく「かえる亭で切ってもらおう」と漫画家の湧水に言われ持っていくことになった。忙しいのに反対しなかったのは、貸庭の公式SNSの更新のためのネタがほしかったからだ。実家から送ってきたスイカを真っ二つにして写真を撮るだけだったり、自分一人でスイカ割りしてもむなしい。
フルーツポンチにしたり、アイスを添えたりして、きれいに盛り付けて写真を撮らせてもらえないかなと期待して行ったら、「それならスイカの漬物を作ろうよ」とレストランで働くカエルに提案された。
スイカの漬物は九州の一部地域でこの季節によく作られる。隣県に住むハチも子供の頃からよく食べていた。しかし、作り方は知らなかった。
だが、初めて作ったスイカの漬物のレシピは思った以上にシンプルだった。赤い果肉を残して外側の皮を薄く剥き、中の薄緑の部分の皮を塩漬けするのだ。数時間か1日置いて、食べやすいようスライスして塩が足りなければ醤油を垂らして食べるのだそうだ。
「カエルさんは作り方をどうやって知ったんですか」
カエルは移住者だ。元は埼玉の出身で果実町に住むようになったのは4年ほど前からだという。ハチは自炊はほぼしないが、食べるのは好きな方だ。しかし、貸庭に来てから生まれたときから九州にいるハチが知らないレシピや知らない料理がかえるから次々出てきて驚いている。この間は同じ貸庭のスタッフの霞と香の夫婦から肉じゃがをもらったが、その時に九州の肉じゃがにおすすめの醤油など教えてもらって面食らった。今は出汁も砂糖も入った醤油もあるらしい。湧水に早速買ってくるように言われて、カエルもついでに欲しいと言われたので3本醤油を買ってきた。1本は自分の分だ。それから、1週間、肉じゃがばかり作って食べていた。
「さあ、なんとなくここに来てから誰かから聞いたのかな。いつの間にか作ってたから、これが正しいレシピかも分からないや。誰かから教えてもらったのは確かだろうけれど」
作りながら首をかしげて答えるカエルの隣で、ハチはスイカの漬物だけでなくハーブティーの淹れ方も教わった。貸庭ではみどり以外凝った紅茶やハーブティーの淹れ方をしないが、それでも接客の時にハーブの説明を求められることもある。ハチはまだレストランは数回しか手伝ったことがなかった。夏は室内での仕事がいいなと思ってはいるが、厨房には入りたくなかった。カエルの仕事は丁寧で、パンの切り方一つ同じようにできる自信がなかった。
「カエルくん。ずいぶん大きくスイカをカットしたのね」
「いや、僕がスイカ好きなんですよ。丸々一個とか食べたいくらい。おなか壊すと困るので、4分の1で我慢しました」
ハチがテーブルに持ってきたスイカを見て、みどりが目を見張ったので、慌ててカエルではなく自分が望んでスイカをこの量にしたのだとハチは説明した。
「ハチくんはキッシュは食べないんですか。これおいしいよ。僕はメロンとスイカをもらったけど」
湧水に聞かれて、ハチは苦笑いを浮かべた。
「朝、肉じゃがとごはんを食べ過ぎたんですよ。ちょっと太るの気になってて。湧水さんとしょっちゅう晩酌してるし」
正面の席に座った湧水の前には確かに一皿分にカットしたほうれん草のタルトキッシュがあった。とてもおいしそうでハチも心惹かれたけれど、夕飯にもらって帰ればいいと思い、我慢した。
「いやあ、ハチくんとは趣味が合うからね。まあ、3日に一度にしてるじゃない。今日は飲まないよ。ハーブティーにする」
そんな風に言う湧水は年齢に見合わないつやつやした肌をしていた。なんでも貸庭のスタッフになってから美容にハマっているのだそうだ。もちろん、太ってもいない。庭作業でよく日焼けして、漫画家に見えないたくましい腕をしていた。筋トレにもハマっているのだ。
ハチは美容も筋トレも興味はないが、体を動かすことは好きで植物にも興味はある。数年働きはすれど引きこもりのような生活をしていたので、ハチ以上に長い間引きこもりをしていたという湧水とは確かに話が合った。好きな番組やゲームなどの傾向が似ていた。売れている漫画家がなぜ貸庭のスタッフとして働くのか、その気持ちも一緒に働くうちに半分分かったような気になっている。それでも、春はよかったが、梅雨時期は蒸し暑くてまだ不慣れで覚えることも多い中、庭作業は苦痛なことも多かった。つい張り切って荷物運びなど率先してやったため、机仕事と庭作業で腰も痛い。最近は一人で椅子に座って仕事する時は枕を腰に当てていた。
「そういえば、湧水さんに教えてもらって枕をアロマピローにして送ったじゃないですか。そしたら、うちの親も喜んでました。結構枕には凝る親なんですけど、本当によく眠れるって」
湧水は手先が器用でマメである。ポプリや植物の装飾品などを作るのが好きで、それらが漫画の資料より仕事で借りている貸庭のロッジを埋め尽くしていた。その片づけを最近手伝って、その途中で湧水にそそのかされ、アロマピローを作ったのだった。枕に乾燥ハーブを仕込むだけなのだが、ハーブの組み合わせを考えているうちに1時間は過ぎた。両親はその時作って送ったアロマピローのお返しにスイカと一緒にお菓子と酒も送ってくれた。お菓子も酒も貸庭でよくもらう。別にいらないのだが、湧水が世辞でも喜んでくれたので、別に実家に苦情をいれるほどではなかった。
「そうでしょ。あの枕は本当にいいんですよ。いやあ、この世の人すべてあの枕で眠ったらいいと思うくらい」
湧水は誰にでも敬語だが、漫画家らしいというか、多少大げさな言葉を使う傾向がある。湧水はなんでも凝るので、余っている枕がロッジにまだ複数あることはハチも知っている。絶対にあの枕でないと眠れないということはないのだろうが、今のお気に入りであることは確かなのだろう。
ハチはスイカを食べ終えて、漬物にした分をタッパーに詰めてもらって帰る前にカエルに写真用にスイカの漬物を皿に盛りつけてもらった。
「俺も盛り付けは得意じゃないよ」
と言われたが、レストランの皿は白くて写真映えがするからいいのだ。
「ちょっと客席使わせてもらって、自然光入れたら、雰囲気出そうじゃないですか」
同意を求めるように貸庭の責任者の遥に声をかける。遥は「そうですね」と言ってくれたが、きっと何も考えず適当に答えただけだ。遥が自分の身だしなみにも料理などの見栄えにもあまり頓着しないということはここ数か月の付き合いで分かっていた。センスがおぼつかないというより、どうしてSNSに載せる写真をそこまで凝らなければいけないのか分からないという感じだ。そこまで手間をかけるのは疲れるので、SNSの写真は全面的にハチに任せたいようだ。しかし、ハチもウェブデザインはそれなりにできても、写真家ではないから、写真にそれほど自信はない。撮った写真の感想を遥やほかのスタッフからもっと欲しいところだった。
「”夏になったので、スイカの漬物作って食べました。”文面はこんな感じでいいですか」
「いいですよ。助かります。InstagramとXとホームページの更新をしてください」
「庭の写真もつけときますね」
「はい」
遥も湧水と同じ、年齢にかかわらず敬語で相手に話すことが多いようだ。しかし、湧水と違って遥と会話していると仕事をしているという感じがしてなんとなく淡々とできて楽だった。他の貸庭のスタッフだとみどりや野人は年配で緊張する。香と霞は肩書と経歴を聞いてから、もっと緊張する。庭作業では慣れていると期待もされているから気が抜けなかった。漫画の手伝いや庭作業している時より、SNSの打ち合わせ作業をしている時が一番自分に向いた仕事をしている気持ちになるなんで不思議だ。湧水といても、公私の区別がつけにくい。自分はここに何者になりに来たのだろうとふと気になることがあるが、あまり考えないようにしている。ガーデニングスタッフとインフルエンサーと写真撮る人と漫画家アシスタントを兼業できるそういう時代なんだと思うことにしていた。
自分はここで一体何がやりたいのかと考えるより、何がやれるようになるのかと考えたい。
ほぼおいしいまかない付きの仕事のようなものだ。まだ人間関係がつかめず、不満のはけ口もないけれど、とりあえずつらくならない程度に頑張りたい。頑張る動機は居心地の良さだ。温泉も食事もよくて、住まいロッジは見た目が好みで気に入っている。かけ流しのヒノキぶろ付きの住まいなんて。
地元の小学校からの友人にもアロマピローを送った。その時のお礼の電話で、貸庭のロッジに興味を持っていた。一度遊びに来ると行っていたので、それまでに果実町で観光できる場所を探しておかなければならない。気の抜き方を探しながら、ハチは果実町での暮らし方を模索している最中だ。
ハーブの栞
夏のお中元に兄弟や親せきに果物を送ったら果物ゼリーのお返しが届いた。
果物に果物で返すなんて気の利かないことだとみどりは思ったけれど、送られてきたゼリーがあまりに色鮮やかでおいしそうだったので、一人一つくらいならいいかと貸庭のスタッフに普段のお礼に渡すことにした。
そうすると、カエルからはいつものごとく手作りのパンやお菓子をもらい、香と霞の夫婦からはチョコレート、湧水からは手作りのミント水、ハチには貸庭の写真をポストカードに作ってもらい、遥からは特にお返しはなかった。代わりに、一緒に栞を作らないかと誘われた。
「読んでいる本にしおりを挟んでいたら壊れてしまって、せっかくなら作ろうと思ったんですけど、私押し花とか詳しくなくて」
そんな風に頼りにされて頼まれると張り切ってしまうのが、みどりだ。運転が苦手な遥を車に乗せて100均に買い出しに出て栞を作るのに必要そうな道具を買ってきた。遥は栞だけでいいそうだが、みどりは前々からレジンでハーブチャームを作りたかったので、せっかくならそちらにも取り組むことにした。
「おいしい紅茶ですね。本当にみどりさん紅茶を淹れるのが上手で助かります。かえる亭でも、今日はみどりさんいないのかって聞かれますから」
遥は会話運びがうまい方ではない。その分率直な言葉をかけてくれるので、素直な賛辞がみどりには快かった。
二人で沈黙が多い作業をしながら、ラジオを聞いた。FMラジオを聴くなんで久しぶりだと遥が喜んだので、途中で飽きてテレビに変えることもできず、みどりはひたすら作業に没頭した。昼に遥と買い物をして夕方デイサービスから帰った母を出迎えて、レストランかえる亭の仕事まで数時間しか作る時間がなかった。遥はその日半休で、かえる亭の夜のシフトにみどりと一緒に入っていた。
これまでなら、遥は香も誘ったのだろう。けれども、香が結婚し、新商品の案を考えるのに意欲を燃やして忙しそうなことから遠慮したようだ。どうせ、彼女たちは週末には自宅で映画観賞会を開いて会うのだから、たまには自分に付き合ってもらうのも悪くないわよねとみどりは遥との静かな時間を楽しんだ。
この間レシピを教えてもらったモヒートストロベリーはおいしかった。磯子tに意欲を燃や香たち夫婦はほほえましいが、新婚の霞はなぜかみどりに対して臆面もなく惚気てくるので厄介だ。いちど話に付き合ったら、この人には惚気を話していいのだと認識されてしまったようだ。
香のどこが好きか。霞は延々と、実際には10分とかそのくらいかもしれないが、大体みどりが話を長く感じてうんざりするくらいまで惚気続けるのだ。
「香さんのどこが好きかって、天使みたいなところ。おじいさんの意思を継いで、縁もゆかりもないこんな田舎の地域振興に貢献しようという志と意思の強さがかっこいいんです。海外青年協力隊とかもっと人に称えられる彼女が輝ける困難の多い場所はほかにもあるだろうに、こんなめんどくさい田舎に来たんですよ。えらいでしょ。都会育ちなのに、こんな不便な場所に移住して不満一つ言わず楽しんでいる忍耐強さと純真さ。大企業の社長令嬢で海外の大学を卒業した才媛ですよ。それを俺みたいな半端人間と結婚するなんて普通じゃない慈悲深さを持ち合わせてますね。俺なんて、年は10歳近くも上で、体も丈夫じゃないし、彼女ほど勉強もできず、実家の酒蔵を継ぐ気もなかった、やる気も才覚もない冴えない男を見込んで嫁いできてくれた勇気と慈悲深さは人間を超越してます。中身だって肩書だって見た目だって俺よりましな人間も彼女と話が合う男もいるはずなのに、流されて俺で妥協するのがすごいですよ。それで不満がないなんて奇跡ですよ。彼女と結婚したことが俺の人生最大の勇気と幸運です。これからどんな幸福や災難が来ても驚かない。彼女と結婚できた時点で普通じゃない人生は確定したんだから」
多少卑屈ではあるが、香が根性があるとか思いやりがあるという評価については同意なので否定するところはない。しかし、突っ込みどころのない話をうんうん頷いて聞いておらねばならない身にもなってほしい。
新商品にナツメ茶とかストロベリーモヒートとか赤いティーシリーズを考えているなどという話を包み隠さず教えてくれるのも興味深くはあるけれど、それを他人に聞かれるかもしれないレストランで話していいのかと心配になる。いや、みどりは曲がりなりにも『山鳥』の事業の一画である貸庭のスタッフであるのだから、まったく話を聞いていけないことはないだろうが、これで、新商品がヒットしたら、霞が女神のごとく香をもちあげてほめたたえて自慢してきそうで、今からうんざりしてしまう。
彼は他人の自慢が好きなのだ。カエルの料理はすごいとか、遥の発想力はすごいとか、湧水の漫画はすごいとか、すごいすごいと周囲の人間に恵まれていることを奇跡のように思っている。その縁をつないでくれた遥には、尊敬も超えて遠慮もあるようだ。妻の自慢話を遥にできないのはそのためだろう。あまりなさそうだが、香からは愚痴を聞かされ、霞からは惚気を聞かされたら、遥がかわいそうなので、自分が自慢話に付き合うくらいは役割かと思っている。でも、やはり、みどりだってこうして遥と趣味を共有する時間は持ちたい。年甲斐なく友人関係の間に入り込むつもりはないが、一番気の合う遥といるのがやはりみどりも気安い。
「できました。下絵通りに花を並べられませんでしたけど、まあまあかもしれません」
遥が時間をかけて作った栞を見せてくれて、みどりは顔を綻ばせた。
「きれいにできてるじゃない。香さんにあげたら?」
「いや、人にあげるほどうまくないので。みどりさんの一つもらってもいいですか。いや、二つ。私の分と香さんの分と。みどりさんって絵もうまいんですね」
褒められたら悪い気はせず、みどりは二つ返事で自分が作った栞をあげた。100均で買ってきた金と銀のフレームをつけて黒猫の絵を描いて、押し花にしたミントの花を飾った。子供の頃から手芸をしたりイラストを描くのが好きなので、うまいかどうかは分からないが、手慣れてはいるだろう。
遥は凝り性ではあるようだ。何かこれを決めてやりこんできたことがないだけで、野人にガーデニングを仕込まれたら、それなりに手に職にはなりそうだ。ただ、本人にその気があるのかみどりも掴めなかった。目の前の仕事を完遂したら、もういいやでこれまでのことをすべて手放してしまいそうな気ままなところが遥にはある。
「喜んでもらえそうなら、カエルくんや霞くんの分も作っておこうかしら。野人さんも。ハチくんはどうかなあ。みなさん、読書が好きよね。そういえば、この貸庭って読書好きの集まりなのかしら」
口では栞を配ることをいいつつ、男性陣の分はコースターにしようかなどとみどりは考える。大して知らない人間から手作りをもらうと戸惑るだろうけれど、貸庭のスタッフならもうそれなりの付き合いなのではないか。少なくともカエルや湧水などみな手作りを送り合う文化がある。
「どうでしょうね。どちらかといえば、物静かな人が多いかもしれませんね」
「物静か」
みどりからするとおしゃべり好きが多い印象だけれど、価値観は人それぞれだ。貸庭では晴耕雨読といった生活になる傾向はあるだろう。
「そういえば、香さんストロベリーモヒートとナツメ茶で新商品の案を出すらしいですよ。合わせる果物も固まってきたらしいです」
「へえ、そうなんですね。うまくいくといいですね」
霞からすでに聞いていた話だったので、気のない返事をしてしまった。しかし、遥は気にしなかったようで、「果実町にまた新しい味ができますね」と嬉しそうにしていた。フルーツやハーブのティーカクテルは果実町に住み貸庭でなら自分でハーブを育てて、オリジナルブレンドを作って旬のものを楽しむことはできる。しかし、時にはフルーツをカットするのも億劫な日があるものだ。いや、そんな日は多い。雨が降っただけで、フレッシュハーブティーをあきらめる。そんな惰性的な日に、市販のフルーツフレーバーティーの優しさは格別だ。
どこに住んでもいろんな人がいるものだ。また、みどりはだれとも会わず、母としか会話しない日もある。母が亡くなったら一人になるかもしれない。遥たちとの付き合いもいつ終わるともしれない。果実町で余生を過ごすことができなくなるかも。それでも、その寂しさをフルーツフレーバーティーで慰めて癒すことができたなら、静かに終わりを迎えることができるかもしれない。