東と西の薬草園 10-①
雪柳の白い花びらが降ってくる。3月のいい陽気である。こんな日は、すべての罪が洗われる。
犯した罪の数だけ、花を植えよう。
ミスでも罪は罪だ。
食材(贖罪)の花をお天道様に捧げよう。
遥は、刑務所に入ったこともなければ、万引きなどの軽罪で未成年の頃に補導された経験もない。
けれども、あまりに陽気が良いせいか、春の日差しにせかされて、何かにせき立てられるように、ただ黙々と土を耕し草をむしり、種をまいて、花や野菜の苗を植えた。その切迫感は労役についた人のようだった。
雑草と決めつけた100の野草を土に還し、自らが選んだ美しい100の園芸植物を植える。自分自身は美しくも健やかでもないのに。
ここ数年繰り返してきた作業が、何かとても罪深いことのように遥には感じられた。
光があれば影ができる。
この陰鬱な気持ちは、急な季節の移り変わりに気持ちが追いついていかないせいなのだろうと遥は自分で分かっていた。
愛想笑いはできないけれど誰かに愚痴を言い散らしたい気持ちを押し殺し、庭作業を終えた後には、庭作業用のエプロンを台所用のエプロンに着替えて、昨秋以来のお茶会の準備を始めた。
人生で一度も間違いを犯した事がない人たちに媚びて花を渡そうか。早めにお茶会に着いた人たちが、巷で取り沙汰されている政治問題の話題を口にしているのを聴きながら、テーブルのセッティングをしていると遥はどうしようもなく、不快な気持ちがこみ上げてきた。
花の香りはこんなにいいのに。お茶会にふさわしいこんなにいい陽気なのに。自分の心が塞いでいて、客も暗い話題ばかりを口にしている。自分だって政治家の悪口くらいSNSに書き込むこともあるのに、今日は世情等何も知らないでいたくて、誰の愚痴も聞きたくない気分だった。
椿油を垂らした椿のガトーショコラ。
生姜汁を加えた山のアップルパイ。
地元産牛乳を使った濃厚カラメルプリン。
アップルパイにはアップルミントを。ガトーショコラにはガトー色の茎をしたモヒートミント、カラメルプリンには小さな葉っぱのペパーミントを飾った。久しぶりに客に出すお菓子作りに、カエルがずいぶんと張り切っていた。見た目は素朴でも、どれも試作を重ねた力作で評判がよければレストラン『カエル亭』のレギュラーメニューにしたいと茶会のシェフのカエルは参加者の会話に聞き入っていた。
春のお茶会の飲み物は、季節はずれの新商品。紫蘇と柚子のフルーツフレーバーティーだ。
遥が考案した果実町発信の新しいフルーツフレーバーティーは、東京の商品開発部では好評だったが、地元の霧山酒造では「田舎臭くて斬新さがなく華やかさに欠ける」という意見が出ていた。批評は商品化が正式に決まってから、霧山酒造の次男坊の霞から聞かされた。霧山酒造から分家して、さらに東京の飲料メーカー『山鳥』から商品開発部を引き受けて霞が関連会社を作ることになっている。霞は大手飲料メーカー『山鳥』の創業者の孫娘の富居香と結婚した。つまり、山鳥からフルーツフレーバーティー事業を引き受ける霞の会社は霧山酒造にとっても関連会社であるのだ。少なくとも、霞の母はそう考えていて、多くの霧山酒造の従業員も同じ認識を持っているようだ。
だから、山霧酒造から霞が任される新会社に移りたいとか、この山の貸庭事業に参加したいという従業員からの相談も出ていた。しかもその相談が、貸庭の管理人の遥にも来るのである。
霞は7、8年前に癌を患い、今もそれほど健康ではない。起業するための準備に追われ、さらに貸庭のスタッフとしても働いて、忙しさに最近体調を崩してしまった。本日の茶会は欠席だ。
一方で、同様にあまり体が丈夫でないはずの妻の香は結婚後より活動的になっている。張り切って、今回の茶会も取り仕切り、新商品を熱心に参加者に売り込んでくれていた。
「ガトーショコラにも、アップルパイにも、この新しいお茶がとっても合いますよね。私紫蘇に新たな可能性を見いだしちゃいました。こんなおしゃれなお菓子にも、とってもよく合うおしゃれな植物だったんですよ、紫蘇は。紫色ってかっこいいですよね。果実町のカラーにしてもいいくらい」
「色には好みがありますからね。何色がこの町の色って決められませんが、梨の乳白色っていうのも無色みたいなものですから、それよりはインパクトがあっていいのかもしれませんね。紫は高貴でおしゃれな色だ」
お茶会の参加者は、果実町の住人ばかりではない。冬季は休業していたが、3月から貸庭を再開した。そのため、県外からの参加者も多い。梅はほとんど散ってしまったが、これからは桜の季節である。冬の寒さを耐え抜いたパンジーやビオラを主役として、庭の奥にはリュウキンカやキンセンカなど、季節にふさわしい黄色い花々がこの暗い世情の最中でも負けず、明るい話題を提供する新妻の香のように、茶会に、社会に、文字通り花を添えていた。
「高貴で素朴っていいですね。アップルパイやガトーショコラって作ってみると素朴な家庭料理っていう感じです。紫蘇柚子茶との取り合わせは、雰囲気としてとても良いと思います。本当は柚子をアップルパイに使いたかったのですが、もう手に入らないので、代わりにレモンを使いました。来年はゆずのジュースをこの季節まで取っておいてアップルパイを作りたいです」
我ながら新商品のお茶によく合うお菓子ができたと帰るも自画自賛していた。
「いいですね。何ならこのお茶のゆずのフレーバーはそのままアップルパイに使えるんじゃないですか。柚子のエッセンスと砂糖なんでしょう?」
そう提案したのは、貸庭のスタッフのみどりだ。みどりはそれほど料理はしないが、海外生活経験もあり、年の功もあり、食に対して造詣が深い。勉強熱心でセンスがあるので、この『峠道の貸庭』のお茶会のセッティングなどもみどりがスタッフになってからより洗練されたものとなっていた。
「それはいいですね。いや本当になんで思いつかなかったんだろう。そうしていた方が今度のお茶会は完璧だったなぁ。お菓子にお茶の材料を使っていれば、お茶とも絶対合いますよね。今度は何か作る時はみどりさんに相談します」
「いえいえ、うまくいくか分かりませんよ。作ってみないと。そんなにおだてられても、ただの思いつきですから」
みどりは恥ずかしそうにしながら、空中を待っている雪柳の花びらに目を細めた。
「ふん。そぎゃんこと言ってもねぇ。チョコレートもパイ生地もカカオからとか生地から作るとなったら、非常に手が混んでいるんじゃないかな。チョコレートの値段は千差万別で庶民的とは言い難いし、このアップルパイだって生地をカエルくんがいちから作ったから、こんなにうまいんだろう。その労力に、この茶会の参加費は合っているかね。自分を安売りしちゃいかんよ。田舎もんにそんな媚びを売らんでいいんだけん」
「そう言われると恐縮しちゃうわね。確かに私たちじゃこんなにおいしいアップルパイは作れないわ」
鋭い指摘に同席していた女性たちのカップを持つ手が止まった。悪気なくまっすぐに忠告をしてきたのは、農協の田村という男だ。街の振興に貢献したフルーツフレーバーティーを以前は快く思っていなかった。しかし、果実町の名前が世間に売れて移住者が増え始めて考えを変えて、農協でも様々な企画を提案しているが、なかなか案が通らないようだ。
田村の言う事は間違いではない。遥も世間で売られているアップルパイの値段を考えれば、あまり素朴なお菓子とは言い難いと思っている。人件費を差し引いたらトントンだが、遥達の労力を考えたら、この社会は毎回ほぼ赤字である。ただし、今回カエルが作ったお菓子は、世間で素朴と言われているのも本当だ。市販の生地やチョコレートで作れば、アップルパイとガトーショコラは材料と工程の少ないお菓子であり、家庭でのお菓子作りのレシピとしては、人気であることも間違いは無い。
田村の言うことの方がより正論ではあるが、カエルの考え方も一般的だ。その一般論を、どこかの学者のように、逆説で打ち消してしまうところに田村の悪癖がある。
理路整然と述べ立てれば、誰もがそれに納得して賛同してくれるわけでは無い。正しいことを言われても、頷けないこともある。
「でも、市販のパイ生地を使ってもこの新しいお茶のフレーバーを使えば、新しいアップルパイになると考えたらちょっと素敵ですよね。お茶だって、薬草を育てて毎日煮出して飲むのもそれなりの手間ですよ。でも、アップルパイを生地から作ったり、チョコレートをカカオから作ったりするよりは、お茶を煎じるくらいは手間がないわけで、それでも、他人が焙煎してくれたお茶をたしなむのがおしゃれというか、洗練されたものなんじゃないですか。よく解りませんけど」
みどりが控えめに言い添えると、田村はむっつりと黙り込んだ。カカオもりんごも果実町の特産品ではない。しかし、全ての材料を果実町産にとらわれる必要はない。広く小さくなった世界で他国のものも美味しくいただけるのが現代だ。クラシカルなお茶会も素敵だが、お茶会が現代の縮図でも良いじゃないか。
田村が正論で場の雰囲気を乱したからと言って、遥が正論で相手をやり込める必要はない。それでも、つい言い返してしまうのは、結局のところ、遥も田村と同じ理屈っぽい性格なのだ。それは仕方ない。年齢は違っても同じ町で生まれて同じ学校に通った似たような育ちの人間なのだから。
「そうですね。私もお茶会を本当に楽しみにしていたんですよ。果実町に来てから春が待ち遠しくて。やっぱりお茶やジュースを買ってくれる人がいてこそのうちの実家の事業もあるわけだから。恥ずかしながら、私は飲み物にあんまり詳しくはないですけど、こうして自然の中でお茶とお菓子を楽しむのは、素朴だけど、すごく贅沢って感じ気がして、大人になって良かったっていうか、夢が叶ってたって気がします」
香は果実町に移住してきていたことを後悔していない。結婚前はいろいろ不安なことも多かっただが、結婚してしまったら吹っ切れたようだ。ただ、生まれただけの場所に住んでいる遥よりも香の方がずっと果実町に愛が深いのではないだろうか。
強い風が吹いて、雪柳の花びらが舞い、ティーカップに花びらが入りそうになるのを客が必死に防ぐようになった頃合いで、茶会はお開きになった。
花冷えにはまだ早い。いや、桜の開花はもうすぐそこだ。今朝方にかけて、最低気温がマイナス5度を下回ったので、昼の天気が危ぶまれたが、幸いに深い霧も出ず、午後の3時のティータイムには少し肌寒いくらいの気候になった。それでもショールを羽織っても「まだ寒いわね」と会話する人が多かった。
これまでこのお茶会では、様々なレクレーションを行ってきた。何かものづくり作業でもすれば、外の寒さもそれほど気にならなかったのかもしれない。
しかし、今回は原点に帰って、庭作業の後にお茶菓子を振る舞うだけの企画だった。アイディアがだれも何も思い浮かばないわけではなかった。あれもこれも詰め込みすぎるのは良くないいう結論に至ったのだ。何かをしようとすると、何でもかんでも全部いっぺんに詰め込みたくなってしまう。春にやりたい事はみんな多かった。だから、結局初回はシンプルにした。来週末は花見の予定である。そちらの準備に時間を取りたいのもあった。
客が帰って外に出したテーブルなどを遥が片付けている間に、庭師の野人は相変わらず庭の手入れをしていた。
「寒いですよ。まだまだ」
「人間に寒かっけん、花にも寒かったったい。霜枯れてしもうてのう。みなさんにお披露目する前に枯れてしもうた。これまで、散々愛でてきてのう。今日のお茶会の注目株だと言われとったのに、土にカビが生えるから、このままにもしておけん。他のきれいな花にすげ替えなければならん。人間の業の深さよ。人間やったらすぐとっかえひっかえせずに、故人ば偲ぼうやっとにね」
まるで先ほど茶会に名前が出ていた。先日辞めさせられた国会議員の大臣の話題のようだ。しかし、見ず知らずの他人の為に涙などを流すものだろうか。野人ならそうかもしれない。
「師匠の名前とともに花も偲ばれますよ。かえるくんが、師匠の伝記を作りたいって言ってました。町の人も乗り気らしいですよ」
「バカらしか。火に焚べてしまいたいような人生よ」
野人は可愛がって育てていた花がだめになって、気が立っていた。遥は自分でも楽しみにしていた。春の茶会が終わった後なのに、やはり気持ちが荒んでいた。業が深い。火に焚べてしまいたいという野人の気持ちが分かる。
野人のように、社会に認められる地位にいるわけではない。しかし、死んだら遥も野人も灰になる。
野人は作りたいけれど、残したくないから、建築家よりも庭師の道を選んだのだろう。
カエルも同様にプログラミングの仕事から、料理人の道へと移ったのだ。
作るなら消え物を。自分もいつか消えていくから。死んだ後に世間話の種になりたくはない。
祖父も孫も自然の摂理に逆らわない。
その純粋な彼ら生物性が、遥には酷くまぶしかった。遥は人間臭い。花の香しさの前に恥入ってしまう。