【小説】東と西の薬草園 「遥渾身のメニュー」
1.遥についての不穏な噂
今年の紅葉シーズンは遅かった。峠道の貸庭もシーズンオフの12月に入る前に、山の見頃が来ないままになってしまうのではないかとハラハラしたものだ。けれども、どうにか駆け込みで、11月の終わりのイベントに合わせて葉っぱの彩りが豊かな時期を迎えた。最盛期は12月の半ば近くになってしまったけれど、霜枯れた落ち葉が少ない方が山道で足を取られなくていい。
『花が綺麗ですね。全部貸庭の花ですか』
オンライン会議が始まる前に、そんな感想を述べたのは誰だっただろうか。遥は花を生けるのが苦手だから、「はい」と小さく肯定の返事をして頷いただけで話は続かなかった。
峠道の貸庭の管理人棟は、別名”妖精の小屋”と呼ばれている。内にも外にも妖精が憩うような管理人室に花がないのは寂しい。花は室内にあるだけで、茶の間の話題になる。殺伐とした世間のニュースなど吹き飛ばす華やかさだ。
始まる前には憂鬱だったオンライン会議もスタッフに手伝ってもらって飾った生花のおかげか明るい雰囲気で活発に議論が進んだ。ー少なくとも遥はそう思っていたのだ。
『峠道の貸庭』は12月からシーズンオフで既に貸し出している庭以外新たなレンタルはしない。スタッフも常駐しない。イベントだってやらないのが遥の方針だった。けれども、果実町の副町長と熱心な役場と農協の職員に押し切られ、12月のイベントを開催することになってしまった。道路が凍結して客が来られないと困るから、まずは12月の第一週の土曜日しかやりたくない、年末年始は休みたいと遥が言い張って、何とか冬期初回のイベントの日にちだけ決まってその内容を詰めるためのオンライン会議だった。
『やっぱり料理教室っていうのはいいですよね。クリスマス前ですし』
「クリスマスや正月の寄せ植えも考えたんですけど、温室の花をそれだけ準備できるかわかりませんからね」
貸庭のスタッフ勢ぞろいでイベント等の企画会議をすることもなかなかなかった。役所の人間や副町長まで参加するとなれば猶更だ。お忙しいでしょうからと遥が押し切って、オンライン会議にした。折しもその日は、山が暮れ前の初めての冠雪で、日中も空気がひんやりとして慣れない寒暖差に室内の居心地の良さを常以上に感じさせてくれた。早朝の会議で移動する寒さをオンライン会議で解消できてよかったと思っていた。
『いや、しかし、このように若い人たちで案を出し合っている場は勉強になりますね。春にはイベントを再開するのでしょう。その会議もぜひ参加させていただきたいですね』
副町長の杉山がそんな風に話を締めくくったときには、貸庭の全スタッフがドキリとした。どんなに和やかな雰囲気を装ってみても、見学者の多い会議は肩が凝る。普段の会議の気安さとは程遠く、話す内容も事前にメールでメンバー同士共有していた。
「役場の人たちだって若いでしょう」
『そうかな。でも、議会は年寄りばかりで、もう少し若返りをはかりたいところです』
杉山の言葉で画面越しにの”場”の雰囲気がぴりついたのが分かった。果実町の町議はほとんど老人クラブと化している。還暦前の人もたまにはいるが、そのほとんどが役場上がりか農協など団体上がりの人たちで、つまりは会議に参加している人たちの親や親せきなのだ。副町長は県議会議員上がりで改革的な人物だから、村の現状を打破したい思いが強いだろうが、それを貸庭の会議に持ち込むのは場違いだ。
「ははは。私もそんなに若くはないですよ。だから、薬草茶に頼って生活しているわけです。最近は、母より私の方が年なんじゃないかって気がします」
『そりゃ、山の中に居すぎているからかな』
遥の言葉に杉山がツボに入ったように笑って、その場は少しだけ和んで会議はお開きになり、みなそれぞれにオンラインルームの退室ボタンを押した。
「会議が終わったのに、議事録が欲しいなんてほんとかなあ?イベントの企画案のたたき台がほしいって?何をするつもりかしら。今回は役所に人に手伝ってもらうことは何もないのに」
真っ赤な紅葉の下で手製のスコーンをもぐもぐと頬張りながら、香が不満そうに頬を膨らませた。妊婦だから、余計お腹が空くのだ。怒りも食欲のスパイスになるらしい。今日は会議に来たけれど、あと数か月もすれば産休に入る。遥は人と会うのが苦手なので、社交的な香がそばにいてくれると心強かった。昨夜は久しぶりにこの山の香の別荘でプロジェクターで大画面で映画を見たり、スコーンを作ったりした。楽しかったけれど、話題の中心はこの貸庭の運営についてだった。
人を待ちながら、妊婦の香とお菓子で小さなピクニック。秋晴れというには初夏なみの気温であまりに過ごしやすい。今朝方の寒さと視界に入る山の冠雪がウソのようだ。遥はここ数日気になっていることを香に聞こうかと思ったが、やめにした。
今年が終わると思うとドキドキする。そう周囲に話せば、笑われた。別荘の管理人として、年明けに雇われた4年の期間が終わるのだ。契約更新になるかどうか、遥は一抹の不安を抱えていた。しかし富居家の別荘の管理人と言うよりは、もはや庭の管理人である遥との契約を続けない事は、貸庭事業を辞めるに等しいのだからありえないと皆が同じ説明を遥に繰り返した。遥からすれば、貸庭がうまくいっているからこそ、自分はもう役割を終えたのではないかと考えてしまうのだ。この美しい山の営みの揺籃期に関われた事が人生の彩りある一頁だ。登場人物が入れ替わり、新しい人を迎えた方が、この庭も装いを替えて新しい展開を迎えるのではないか。新しい人間関係で新しい客層を迎えて、そうして、日々も木々も移ろっていく。種まきして苗木にしたら、それを育てる人は大勢いた方がいい。
「町の栄養士さんに監修してもらって、健康食教室のイベントをやりましょう。ハルさんのダイエット食で思いついちゃった。秋の旬食材を使った料理教室っていう漠然としたイベントだったけど、おかげで、具体的なコンセプトができたわ!」
貸し庭の会議をオンラインで役所の担当者に観覧してもらったその日の午後にやってきたのは、役所の人だけでなく香の姑の夕だった。夕は貸庭のスタッフの霞の母である。今回のイベントの料理は遥でも教えられるような簡単なものにする予定だった。そのメニューに最近遥が凝っている健康的な料理の嗜好を取り入れてはどうだというのだ。それであれば、確かに会議で出たようなメニューと違い改めて遥が料理を練習する必要はない。
「この間、ハルさんにおすそ分けしてもらったお豆腐ハンバーガーは本当に美味しかったもの。お太り気味になりがちな年末年始のパーティー時期に持ってこいよ」
そうやって一人決めして、役所の担当者を残し、貸庭の手入れに意気揚々と参加しに行った。最近は息子の霞に代わって、貸庭の庭の手入れをするのが趣味になっていた。
霞は実家の事業の手伝いと香の実家の『山鳥』の商品開発部が果実町に来てその責任者になる関係で忙しくしており、12月頭のイベントを最後に春までは貸庭のスタッフとしては働かないことになっている。代わりに店番替わりの短期の従業員を10名ほど雇った。それでも霞と香の穴が埋まるかわからないほど、二人は遥が管理する『峠道の貸庭』の重要なスタッフだった。ほかに、語学堪能で植物や紅茶の知識が豊富な赤石みどり、元プログラマーで宅建業者でもあった料理人で庭師の孫の井中かわず、その祖父で建築士であり著名な造園家でもある井中野人、ハーブに凝っている漫画家の野沢湧水とそのアシスタントで写真家でWEBデザイナーでもある林田九州道は実家が農家で庭作業や農作業に慣れている。遥だけが凡庸なのだ。10年以上地元を離れて転職を繰り返し、資格といえば4年生大学を卒業したというだけ、果実町という地元に帰ってきたのも管理人なら人間関係の摩擦もないだろうとここの求人募集を見て応募しただけのことだった。別に貸庭事業に不可欠な人間ではないはずだ。けれども、いつの間にか果実町では”山脈さんとこの独り者の娘さんが山でやっているレンタルガーデン”という認識になっているのだから遥には不思議だった。ほかのメンバーはともかく、遥がいなくて困ることなどこの貸庭ではないのだ。
実際、役所から冬のイベントの提案に張り切ってやってきた若者は遥にすげなく却下されて、不満を隠そうとはしなかった。
「香さんも冬のイベントには反対なんですか。せっかく盛り上がっているのに、冬にはここで何もしないなんてもったいないですよ」
「凍結や積雪で道が危ないでしょう。それが解決したとして、これまでの話し合いの中で私は山脈さんの意見に賛成なんです」
この山の土地は香の実家の富居家の持ち物だ。峠道の別荘は香りの名義になっている。管理人の遥が雇われであることはみんな知っているから、香を口説き落とせばGOサインが出るんじゃないかと踏んできたらしい。しかし、香はいつも全面的に遥の味方だった。
「山脈さんとこのハルさん中心に貸し庭が回っているという噂は本当だったんですね。ワンマンで全部ハルさんが決めるんですか。町のみんなが望んでいるのに、協調性がないって思いませんか。やっぱり、紫蘇柚子茶を考案した功績が大きいからですか」
遥のことを睨みながら、問いかけている相手は香だった。香は冷たい表情でその若者を睥睨した。香は背が高いのでたいてい夫以外の男性は見下ろす形になる。
「そうですね。貸庭の事業がうまくいかなかったら、私もこの町で結婚相手が見つかったり、山鳥の商品開発部がこの町に来ることもなかったでしょうね。そして、紫蘇柚子茶はおかげさまで好調で、ヨーロッパの柚子ブームに乗っかってまだまだ大ヒットしそうです。夜明けのティーがマロウから紫蘇柚子茶にとって代わる日も近いかもしれません」
臆面もなく香に褒められて、遥は言葉が次げなかった。大体香の話は時系列があっていない。紫蘇柚子茶のヒットが出る前から富居家が果実町でやっている旅館「川辺」で働いて香はこの町に愛着を持っていた。新しいフルーツフレーバーティーの開発は遥が志願したわけではなく、香たちが遥の発送を買ってくれたのだ。
紫蘇柚子茶の海外での売れ行きは海外で上り調子だというのは東京から果実町にやってくる担当者にさんざん聞かされていた。それを大したことないですよ、と謙遜するのは不自然かもしれない。香と親しくなったのはたまたまだが、霞と香の距離が近づいたのは、遥が霞と同級生で彼をよく知っていたことはやはり関係しているだろう。結婚相手として欠点は特にない。富居家は飲料メーカー『山鳥』をはじめとして飲食店やアパレルなど多角的に経営を行っている日本屈指の大企業だ。その一族の結婚相手なら高望みすると日本では難しいだろう。この町の酒造会社『霧山酒造』のおっとりしたお坊ちゃんはかえって才気煥発な彼女を支えるのにうってつけのように思われた。貸庭事業に当初乗り気になったのは、遥よりも周囲だったけれど、思いついたのは確かに遥自身だ。どれもこれもただの勘がうまくいった。
香に堂々と言い切られて、冬に貸庭で星祭のグランピングをするという案は言い出しただけでその後の議論にもならなかった。そもそもこの山には普段から長期でロッジに泊まっている客がいるので、グランピングの客を集客する必要がない。いや、余裕がないと言った方が正しい。新しいロッジの建設もそのために従業員を雇うこともまだぜんぜん追いつかないのだ。持ち込みのテントを許可しても、寒波や山崩れがあれば誰も責任を取れない。川に流されたら危ないから、川のすぐそばでBBQする客が出ないように監視しているくらいなのだ。
遥たちが運営する『峠道の貸庭』が位置するこの場所は標高が高い森の中だ。冬場は特に地元の人間でも通ってくることが難しい。運転が苦手な遥などは週に1回程度しか自分で運転して山を下りることがなかった。
「同じ県内でも、冬場に観光客を呼び込んでいる里山もあるっていうのに、ここは本当に霧に隠れてしまってますね。ハルさんの物語の中の世界なんでしょう」
熱心な役所の職員は悔し気に言い残して山を下りて帰っていった。
「初対面なのに、ハルさんって気安くない?普通山脈(やまなみ)さんっていうでしょう。あの子、絶対私より年下だから。20代前半よ!」
香は失礼な人だと彼が帰った後も憤慨していた。しかし、遥はそうとも思わなかった。遥がワンマンで周囲の意見を入れずにやっている庭だという話は本人の耳にも届いていた。役所に協力する気がないのも本心で、春と秋の季節の良い時ならともかく、冬山に人を呼ぼうというのが遥には賛同できない考えなのか。では、なぜ、遥は冬になっても貸庭にいるのかと聞かれたら、それで不自由がないからとしか答えられないのだけれど、遥にとっての不自由のなさと世間一般で考えられている利便性は若干以上乖離があるのだ。
役場の若者が帰った後も、香は妖精小屋に居座った。妊婦の香は徹底してカフェインを避けて、最近では白湯と紫蘇柚子茶を好んで飲んでいる。ハーブティーも厳選して、そうやって気を配るのが気晴らしになって楽しいらしい。遥はハチ(林田九州道の愛称)に渡すイベントのチラシ作成の指示書の作成のためパソコンとにらめっこしていた。時折香にアドバイスをもらいながら、遥は自分だけ何をどれだけ混ぜたかわからないハーブティーをがぶがぶ好きなだけ飲んだ。ハーブティーが煮詰まって投げ出しそうになる頭を少しだけ安らげてくれるのだ。しかし、ハーブティーの効果があっても、今日の遥は思考があっちこっちに脱線しがちだった。
この貸庭の山が遥の物語の世界になっている。役所の担当者の表現は悪くなかった。そうかもしれないと納得するところがある。遥の思いつきの物語の世界が峠道の坂道で次々と実現しているのだ。遥はこの果実町のお山の大将だ。偶には遥に面と向かってやっかみをぶつけてくる人も前にはいた。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いで紫蘇柚子茶がヒットしてから、お茶の間の噂話はネットに移って、現実には人の悪口を聞くこともない。まるで子供のころに戻ったようだ。
「ハルちゃんはえらいわねえ」
と行く先々で知り合いから褒められてばかりいる。
そうやって幸せな山暮らしで、レストラン『かえる亭』の美味しいごはんを毎日のように誰かとご相伴に預かり遥は最近太ってしまった。だが、同じような状況のはずの他の貸庭スタッフはみんな痩せている。むしろ以前よりみな健康的な体型と肌艶の良さになっているくらいだ。遥は生きていくうえで自身の見た目なんてどうでもいいと思ってきたけれど、さすがに周りとの差が気になりここひと月ほど食生活を改善しようと遥はダイエットを決意していたが、成果は芳しくない。
それなのに、美味しいからという理由でイベントのメニューにしてしまってもいいのだろうか。町の栄養士さんに監修してもらえば安心だけれど、いつものごとく遥は自分のやることや思いつきに自信がないのだった。けれども、今日だって周りの評価は、オンライン会議で見学者のいる中で遥が会議の進行をそつなくこなしたと言ってもらえた。これでは、今後会議の進行役を誰かに代わってもらうことは難しい。冬のイベントについて貸し庭メンバーと役所を橋渡しすることができるだろうか。農協さんにも参加してもらって。香の作った目の前の美味しいスコーンをいかに食べないようにするか格闘しながら、遥は全く会議に出なかった形でのイベントの実施を考えていた。
2.思いがけない評価
「ハルさんって本当に隙がないよね。山に入って世捨て人みたいに生活するんだと思っていたら、園芸とか似合わないこと始めたなって思ってたの。ほんと悪く聞こえるかもしれないけど、学歴を無駄にして園芸家になった勿体無い人って感じてたのよね。でも、やりはじめたらこうやってちゃんと成功させる。人見知りだから不器用そうに見えるけど、本当は苦手なものがないんだよね」
(そんなことない。苦手なことだらけ)
午前6時前の早朝に貸庭に牛乳配達に来たのは、高校の時の同級生だった。ずっと暮らすが同じで割と仲良くしていた。成人式で会った以来没交渉だったので、再会して少しだけお互いの近況を話し合った。気心知れたというには、あまりにも疎遠になってしまった幼馴染でも、かつて親しかった人に人物評価されると強く否定しにくかった。人付き合いが苦手というのは、生きて働く上では致命的だ。そのせいで苦手なことばかりだと思っていたけれど、この貸庭の事業というより慣れない庭作業や山暮らしに没頭するうちに、苦手なことも少しずつ克服できたのかもしれなかった。隙がないというより、自分には思ったより胆力があったのだ。
そんなにまちづくりに貢献したいなら役所勤めにしたらいい。そんな妬みとやっかみを言われることもあったけれど、なんとか続けてこられた。そして、遥に嫌みを言う人も少なくなってきた。
高校の同級生が帰ったのと入れ替わりに、貸庭のスタッフのカエルと野人が出社してきた。午前10時30分からのモーニングランチの準備の前に小一時間ほど庭作業に関わるのがカエルの日課だ。特に最初に自分で作ったバラ園の手入れがカエルは好きだった。レストランの外観についても鉢植えの植物をこだわりを持って並べている。建築士でもある野人にデザインしてもらったレストランの建物はカエルにとっては誇りであって、少しもその景観を損ないたくないのだ。カエルこそ完璧主義で自分の世界のある人だと遥は常々感心している。
「師匠、今日の庭の調子はどうですか?」
「どうかな。よか、塩梅たい。春も夏も秋も冬も人の暮らす庭は良いものよ」
カエルがレストランの作業に行ったところで野人に声をかけると、野人が機嫌よく応じた。庭作業のいろはを遥に教えてくれている野人は、遥にはひと際親切でどんな素人質問をしても怒られたためしがない。実の孫のカエルには好きなようにしなさいと質問しなければ自ら教えることはしないのに、遥だけ特別だった。カエルは最近ますます料理を張り切っている。早いうちに出社してきて、好きなパンを作りをしていた。そのパンは売り物ではないが、貸庭のスタッフに配って好評を得ている。あれもこれも手作りして売るのは現実的でないと断念したけれど、カエルはやっぱりパンとお菓子も手作りして売りたいのだろう。その気持ちがわかっても遥には背中を押してあげることができなかった。
「冬庭もやはりいいものですか。やっぱり人を呼んで見てもらうべきでしょうか」
「泊まり客がおるじゃろ。そんな年がら年中祭りみたいにせんでもいいと思うよ」
野人いわく遥と野人には感性が似たところがあるそうだ。枯れ木も山の賑わいだ。花咲き落葉する山が賑やかなのはいいが、それは人が多くなって賑やかになるということではない。第一、遥も野人も人に会ってばかりだと気疲れするのだ。
しかし、気分が上がらない時に限って連日来客が多かったりする。赤石みどりが夜のレストランの営業時間に合わせて出社してきたときに小学5年生の男の子を一人連れてきた。治人(ハルト)くんという遥とひらがな一文字違いの名前の子だった。近所の人が遠方の両親が亡くなって葬儀にかけつけなければいけないが、子供がひとり車に乗り切れないということで預かってきたのだ。そのルートくんは気の利いた(家族や周囲にルートと呼ばれていると自己紹介した)子で、レストランの皿洗いだとかよく手伝ってくれた。
「俺、将来は飲食店を経営したいから今から経験しておきたいんだ」
なんてませたことをいう子だった。体も動かすが口も達者で好奇心旺盛な子だった。レストランの就業時間の後に、イベントのことでみんなに相談をしようとしたところ、まだ眠くないからとルートくんもレストランに居残った。今日はカエルと野人とロッジに泊まると聞いて嬉しそうな顔を一瞬見せたものの、祖父母が亡くなったという状況が状況のためか「わかりました」と言っただけで手放しで喜んで見せたりはしなかった。
「ルートくんにも試食してもらおう。クッキーつまんだだけで、ごはんがまだだもんね。お豆腐のハンバーガーなんだけどどうかな?今度のイベントで作る予定なんだよ」
「それなら、姉ちゃんが参加するって言ってた!あ、でも、じいちゃんばあちゃんが死んじゃったからどうかな。俺も一緒に参加する予定だったんだけど」
遥がカウンターの内側の厨房で準備をしながら話しかけると一瞬うれし気な顔を見せたが、すぐに表情を曇らせた。
「お姉ちゃんが参加できなくなったら、おばさんが一緒に連れてきてあげるわ。」
「うん、どうせ今日食べられるしね。母ちゃんたちが帰ってきたら聞いてみる!でもな、来年は無理だな。じいちゃんたちが俺に留学してほしがっていたし、ヨーロッパのどっかいかないと。みどりさんが行ったことあるところがいいな」
やはり一人だけ葬儀に行けなかったことにこだわりがあるのか、ルートくんは祖父母のことをどうしても話題にせずにはいられないようだった。交通事故で急にということだから、涙を見せないのはまだ実感が湧かないのかもしれない。
「優秀であるが上での悩みね。でも、海外ならおばさんより野人さんの方がいっぱい行ってらっしゃるんじゃないかしら。有名な庭師さんですからね」
少しでも明るい雰囲気に変えようとみどりが野人に話題の水を向けた。
「庭師の人って海外に行くの?」
ルートくんは驚いた同時に興味がわいた様子で隣の野人に椅子を近づけた。
「そうね。じいちゃんは、建物も作るからね。ヨーロッパは大概はどこも行ったかな。ばってん、日本が一番好きなのよ」
野人の言葉に目をキラキラさせながら、ルートくんは大きくうなずいた。「日本がいちばん平和だっていうもんね」と日本が好きだと言った野人の言葉にいたく感銘を受けたようだった。なんでもルートくんは小学校1年生の時から学校でも持て余すほどの秀才で、半年前からはご近所のよしみでみどりに習って英語とフランス語の二言語を学習中らしい。それもすでに日常会話程度にはできるというのだから、多少学校で浮いても仕方のないことではあるのだろう。ルートくんが興味を持って話す内容のほとんどが同級生には興味がなかったり、理解できなかったりすることなのだ。それでも、理解しようとして聞いてくれる友達もいるので、ルートくんは学校が好きなのだそうだ。けれども、周囲は日本で勉強しているのはもったいないよとすすめてきて、特に亡くなったというルートくんのおじいちゃんおばあちゃんは財産をはたいてもルートくんを留学させたがっていたらしい。
「トンビがタカ産んだってさ。わからんやん。おれ、まだ小学生なんだから。社会に出たら全然通用しない凡人になるかもしれないでしょ。理科とか数学とかそんなに得意じゃないし」
ルートくんは遥がこしらえた豆腐ハンバーグを試食しながら、野菜の切り方とかあれこれ注文をつけつつ、そんな風に愚痴をこぼした。しかし、ルートくんが得意でないという数学や理科はよくよく話を聞いてみると年上の兄弟の教科書で学んでいる内容の話なのだ。つまり高校の教科書だ。ルートくんは5人兄弟の末っ子で、兄弟はみな成人していた。「おれ、おとなの中に子供一人で育っているから甘やかされているんだ」と自己分析して自嘲するところが、子供らしくなく老成している。だから、家族も将来が楽しみというだけでなく、心配しているのだろうとその場にいたメンバーでもすぐに察しがついた。ルートくんが豆腐ハンバーガーについて指摘することとかもっともで参考にはなるけれど、彼はあまりにも素直で率直だった。
「話が面白ければ、絵なんていらんよね」
何のための夜の集まりだったか。ルートくんを中心に話題が次々と移り変わり、いつの間にか貸庭のスタッフの湧水が描く漫画の話になっていた。ルートくんはほとんど漫画を読んだことがないらしく、文章の方が情報が多いので漫画のようにゆっくりと話が進むのはまどろっこしいらしかった。漫画に否定的な少年は、食べ物だって見た目なんて関係ないという。健康的なのが一番だよねって胸を張って主張するのが危なっかしい。周りの小学生の子たちに、「よっぽど面白ければ別だけど、漫画より小説読んだ方が早いし時間の無駄だよね」と言い切ってしまったら、共感を得るどころか顰蹙を買いそうだ。
「なんで、湧水さんは話を考えるのがうまいのに、小説家でなくて漫画家になったの。絵を描くのに手が痛くなって腰が痛くなって大変なら、続きは小説にすればいいんじゃない?」
湧水がここの貸庭を舞台にして描いている漫画はルートくんも読んでいた。けれども、なかさか最新刊が出ないのがじれったいらしかった。
「漫画で描いたものは、漫画で続きを描かないと読んでもらえないよ」
「そうかなあ。今時は逆に漫画が先でノベライズすることもあるじゃない」
料理をもぐもぐと食べ進めながら、少年は大人たちの職業に疑問が尽きないようだった。「湧水さんは貸庭の風景を漫画に描いているから」と遥は口をはさんで弁解しようかとも思ったが、それだって「写真を挿絵にすればいいじゃない」とルートくんに反論されそうでやめにした。
「ルートくん、そうやってなんでも無駄を省こうとする考えはよくないよ」
どうやって説明したらいいものか大人たちが悩んでいたところ、窘めたのは野人だった。
「ひとが好きなものを否定したらいかん」
「否定してないよ。疑問に思ったから、聞いただけ」
ハンバーガーを食べ終えて、ルートくんは真面目な顔をして野人を見た。
「豪華な建物も快適な暮らしも無駄といえば全部無駄だよ。口で言葉を紡ぐなら、文字に書くことすら無駄じゃないか。生きている人間とだけ話せばいい。でも、人間は死んだ後でも誰かと話したいんだよ。君が今学校で描いた絵は君が大人になったときにお母さんたちが懐かしく眺めるよ。絵も言葉も文字も無駄じゃない。君は花が無駄だと思うかね」
「実がなるから無駄じゃないね。野菜や果物が食べられるもんね」
「じゃあ、花は人間に食べられるために咲くのかい?花が咲かない植物は君にとって存在価値がないのかい?」
「そんなことはないかな。だって、植物は光合成して酸素を出してくれるもんね」
「ほら、そうやってすぐ自分の都合で考える。植物は君のために存在して漫画も小説も君の知識になるために描かれるわけじゃないということだよ。楽しいことは無駄じゃない。何にもしないで生きていい。生きることすべて無駄じゃないよ。つまんないと思う時間をこれからも持つことだ」
「じゃあ、僕にとっては小説で描かれた方が早く話が分かってうれしくても、漫画の方が楽しい人もいるから無駄じゃないってこと?いや、無駄とか無駄じゃないとかで考えちゃダメなのか。つまんない時間がたくさんあるのも人生か」
自分の漫画を読んでつまんない時間だったと思われるのはやりきれないと湧水は思ったが、口に出しては言わなかった。大人というのは賢明だから、無駄な口は利かないのだ。
遥も野人の話に感心させられた一人だった。見た目を気にしなければ、聞きかじりの知識で豆腐をハンバーグやハンバーガーにはしなかった。遥には絵心はないけれど、楽しむためのわずかばかりの感受性は備わっている。健康印のハンバーガーというその雰囲気が楽しいのだ。本物の肉肉しいハンバーガーの方が美味しいなら妙な改変は無駄じゃないかと考えるのは無粋だ。その遊び心が楽しくて、参加する人たちも粋に感じてくれているのだから。
たった一夜の少年の来訪が大人たちに変化をもたらした。そんな夜だった。野人と意気投合した少年が寝付いてから、カエルは遥のロッジに来た。
「俺は、やっぱりパンやお菓子も作りたいんだよ。それで昼は弁当にしたらどうかなって。それなら、1年中やれそうだろう。お菓子やパンを手作りしてどうしても売りたくてさ」
日中にハーブティーを飲み飽きたので、遥は最近みどりにもらった紅茶を淹れた。どこの紅茶か忘れたが、カエルの作ってくれた柚子ジャムのクッキーとよく合う。遥は終始カップに視線を落としていた。町の人たちは遥ばっかり好きな事できていいなという。それは裏返してみれば、他の貸庭のスタッフは好きなことをできているように見えないということではないだろうか。ただし、やっぱりカエルのようにやりたいことが多い人だとすべてを任せるのは不安だった。
「さっきルートくんが言ってたよね。アイデアを出すのは大変だって、その大変な部分はハルさんに任せるつもりだけど、俺はランチを弁当で出すのはどうかと思ったんだよね。昼間は席とお茶だけ提供してさ。パンとお菓子を売るんだ」
どんな話の流れだったか遥は忘れてしまったが、確かに夕食の席でアイデアを出すのは大変だと少年に庇われたのは覚えていた。お肉たっぷりの料理をクリスマスには食べたいよね?って遥が言ったのではなかったか。いろんな人のニーズに合わせて少しくらい突飛なことをしても面白いよとルートくんが言ったのだったか。とにかく、語彙の豊富な少年だ。よく口が回る。主人公気質だねと言ったら、「オレ一人で物語は作れないですよ」と返ってきた。登場人物の複数がよくなければ、物語は面白くならない。舞台が整っていなければ、役者は揃わないという。おとなびた少年に感心する大人たちだったが、感心されるより、少年は共感されたかどうかが気になるようだった。話をすると困惑されることが普段多いからだろう。
誰にも共感されない自分だけの世界を作っても仕方ないだろう。けれど、新しいものが受け入れられるかは、やってみなければわからない。
「今度のイベントで公表だったら豆腐ハンバーガーのお弁当を出そうよ。全粒粉パンとか、俺、作りたい。ジビエバーガーより手軽だ。この山に似合うし、美味しいパンの開発市街がありそうだ。和食の健康弁当もよさそうだ。せっかく温泉施設に売店ができたんだから、そこにおにぎりも何もおいてないのは寂しいと思ってたんだ」
カエルの言うことはもっともだと遥にも思えた。温泉施設に飲料と地元の野菜や凍った肉が売ってあって、すぐに食べられる総菜がないのは少し寂しい。土産物はおいてあるけれど、隣のレストラン『かえる亭』を有効活用してそこで弁当を食べてもらえばいいのだ。あとはお茶とお菓子とパンをお出しするだけ。それなら、カエルは料理に集中できる。接客上手だから人前に出ないのはもったいないけれど、その人が日々向いていることのすべてをやりきれるわけでもない。
「全部手ごねでパンを作るってわけじゃないんだよね?専用の機械とかいるんだろうし、冬の間にパン屋さんで修行するとか?」
「うん。もう実は前から相談してたんだよね。趣味の延長だとどういう調理器具が必要なのかわからないし。ただ、お弁当分の1種類くらいなら春からでもできないかって考えてるんだ」
カエルが口では春からと言っても、本当は冬から始めたいのだろうことは遥でも察することができた。遥が手伝うことは可能だが、この町のはずれの山近くまで寒い時期にパンやお菓子やお弁当を買いにどれだけお客さんが来るだろうか。ケーキ屋さんもパン屋さんも隣町や山を越えた隣県にはある。何よりコンビニなら果実町にも10数店舗はあった。
12月から2月の冬期は貸し庭を休業しても借りている庭の使用は可能だ。スタッフはつかない。レンタルガーデン利用者のロッジ利用は天候次第では可能。冬の間にお試しでかえる亭から持ち帰りメニューを出すことができるだろうか。その間に献立を試行錯誤すればいい。来期の開店時間の見直しよう。弁当販売は春からだ。これからの構想が目まぐるしく遥の頭の中を回った。考えるだけなら体を動かさなくていいけれど、カエルの夢のために遥も今年の冬は少しだけ活動しなければならないだろう。
貸し庭で献立を考え、弁当は富居家の川辺のホテルにもおろしていいかもしれない。厨房の人材をホテルから派遣してもらおう。厨房の拡大を春までに。冬の間に山の手入れはしておかなければ。業者に頼んだり冬の間の貸庭の管理の担当は赤石みどりに頼もうか。冬に漫画の執筆の集中をしたいという野沢湧水と林田九州道に春には駅前の写真とイラストパネルのデザインを頼もう。夏にはHPのリニューアルをしてもいいかもしれない。一つ変えることを考えると、いろんなことを変えたくなって動きたくなる。カエルに相談されて考えているうちは楽しいけれど、実際に取り組むとなると遥にはいろいろ億劫だ。
「夜は山道が危ないと思っていたんだ。お弁当がうまくいったら、夜の営業時間をさらに短縮しよう。そして夕ご飯用のお弁当を売ればいいじゃないか。それに、俺どうしても手作りのパンやお菓子を売りたかったんだ。日が昇ってから、お店の準備を始めて日が沈む前に店を閉めるんだよ。それがこのハーブガーデンの宣伝にもなると思う。健全な営業だよ」
カエルの言い分は、働く人間にとっては理想的だが、貸庭に来るのは遠方の客が多い。時間をかけてやってきて、夜は温かな料理を宿泊所のそばのレストランでゆっくり食べたいものではないだろうか。今はなし崩しに夜8時の営業時間が9時頃まで延長されることもあった。客と話が弾むのも、道に迷って遅くなった客を労って迎え入れるのも悪いことではないと遥は思う。ただし、レンタルガーデンはやはり冬季休業が長い。営業時間の短縮云々の前に何もなくても年末年始にこの場所で過ごしたいという人に自炊だけでなくお弁当を提供するくらいの機会があってもいい。今年は貸庭に銭湯やコインランドリーができたので、冬期も週4で銭湯と売店は営業することが決まっている。弁当の販売をするなら願ったりかもしれない。
ただ、その弁当の販売が今回のイベントの反響にかかっていると思うと、遥にはプレッシャーだ。
「来年から弁当が販売できればいいんだよね?」
「うん」
カエルに念押ししたけれど、年明けになってもそれは冬からにした方がいいんだろうと意欲的に目をギラギラさせているカエルから視線を外して、遥は手元のスケジュール帳に弁当の献立作りのことを書き込んだのだった。
3.クリスマスを健康に過ごそう!
まるでクリスマスのプレゼントボックスのような庭だ。霞は結婚してから、ここに来る度、庭を眺めて泣きたくなる。駐車場に車を止めた時から、クリスマスを待っている子供のように期待に胸を膨らませてしまう。そしてその期待は裏切られることがない。
視線を向けるたびに、赤いリボンが解かれていくようだ。この庭に関わって、こんなに幸せになれたといつも晴れやかな気持ちになる。一生大事にしたいプレゼントのぬいぐるみのような庭だ。イルミネーションの飾りはないけれど、かがんでみれば庭を明るくするような小さな手乗りサイズの置物がたくさん飾られていた。風でくるくる回る木工細工の三羽鳥が古めかしい建物の前でつり下がっているのが、本物の鳥のようで訪れる人を少しだけぎょっとさせるのもご愛敬だ。
行く道の脇を固める紅白の山茶花が冬らしく、ふと建物に目を転じれば薄赤い花をいっぱいに咲かせたシャコバサボテンの鉢花が窓辺のあちこちに飾られていた。花壇のパンジーの後ろに咲いている薄ピンクの花の名前を知らない人が多く「あれは何の花ですか?」と尋ねられるたびに、出迎えたスタッフが「金のなる木です」と答えた。今日のために呼ばれたスタッフの中には花の名前を知らない人もいたけれど、そういう時は貸庭のメンバーをすぐに呼んで庭木の花の名前を客に説明してもらったりした。
クリスマス料理にいかがですか?とチラシの宣伝文句を作ったからだろうか。料理教室にしては、心なしか客の装いも華やかに見えた。エプロンを持参した人の中には、『峠道の貸庭』オリジナルのエプロンをつけてくれる人もいた。遥がつけたエプロンは最初にカエルが作ってくれた初期のものでもう2年以上使っている。その着慣れたエプロンをつけると、普段にはない緊張を感じた。久しぶりのイベント進行係だ。もう1年以上イベントの司会はしていない。話し出す時に少し噛んだ。それを心配そうに見ているルートくんの姿を見つけて気持ちが落ち着いた。お姉さんと来たようで、楽しそうな大人たちと打って変わって真剣な面持ちで遥の説明を聞こうとしていた。
最初の挨拶と材料の説明が済めば、それぞれの席でつくりはじめてもらい、スタッフがそれぞれの席を回ってアドバイスをしながら、遥が壇上でトークしながら作る。スライドと違うスパイスを使いそうになったり、うっかりパンを焦がしたりしても、それを参加者が笑って聞いてくれたので、遥は和やかな雰囲気にほっとした。
外に薪ストーブをそれぞれ置いただけの簡易キッチンでの作業は笑ってやらなければ寒いばかりだ。
スライドに表示されたメニューと材料は以下の通り。
《レシピ》全粒粉パンの豆腐照り焼きハンバーガー
柘榴ゼリーと玉ねぎスープは霧山酒造からの提供だ。現在、霧山酒造か山鳥のどちらかで柘榴ゼリーの販売と検討しており、このイベントで認知度が上がるかは分からずとも少しでも感想が聞かれたらということで、遥が開発者の香たちに提案して出すことにした。イベントには参加費がかかっているので、収益が減るとしても損をすることはない。
ハンバーガーのバンズもロールケーキの生地もあらかじめ、貸庭で作っておいたものだ。さすがにすべての料理をいちから作ると1日かかっても作り終わるかわからないので、家庭で作れるように全粒粉のバンズも紙でレシピを配っている。
ニョッキとそのヨーグルトソースとじゃがいものオイル焼きと豆腐ハンバーグがこのイベントで実際に作るメインメニューだ。ニンニクを効かせたヨーグルトソースは照り焼きにした豆腐ハンバーグにかけてもいいし、野菜のマリネにかけても、またマリネを作らなくても野菜サラダのソースになる。このソースは霧山酒造の社長の夕が知り合いの栄養士さんに今回のイベントのメニューの監修を頼んで提供されたものだ。遥は自分で作った通り、照り焼きソースにマヨネーズやケチャップをかけた方がハンバーガーは美味しいと感じたけれど、たくさん作り置きするニョッキはバターソースだけでなくヨーグルトソースがあったら、味が変わって食事が楽しくなると感じた。
緊張のためかここ1か月毎日のように作ってきた豆腐ハンバーグを遥はいつもより美味しく作ることができなかった。外で寒かったためか、手がかじかんでかぼちゃのニョッキをショートパスタのような細長い形に作るのも失敗した。しかし、それでも参加者は自分たちの料理の出来の方に夢中だったので遥の料理の出来については笑って流してもらえた。ロールケーキについては、遥はもはや諦めて作らずに、司会進行のトークに専念した。柘榴ソースの他にも、マリネソースや照り焼きソース、柘榴ゼリーや柘榴のガトーショコラについては、今後『山鳥』というより果実町の商品開発部で、思考錯誤を重ねて販売に乗り出すそうだ。ガトーショコラもこのイベントで披露でいたらよかったが、レシピの開発が間に合わなかった。
「なんだかたくさん作って食べた気がするのに、案外腹八分目なのね!」
実際に食事をはじめて大方食べ終わると、参加者からちらほらとそんな感想が聞かれた。その感想こそが遥が懸念していたところだ。ロールケーキはほとんどの人が持ち帰ることにしたようだ。それを想定して、ケーキの箱も用意していた。しかし、ゼリーまでしか食べないとそれほどお腹にたまらない。なんといっても健康メニューだ。九州では飲食店では満腹以上の献立が出てくることが多いから、材料費がそれなりにかかっているのに満腹にならないのは損した感じがしないだろうか。でも、満腹になったら年末年始に食べすぎて太るっだけなので、こんな献立の日が1日あってもいいんじゃないかと貸庭のメンバーに励まされ、「クリスマスメニューにいかがですか?」と参加申し込みのチラシやネットの申し込み画面に書いてみたのだった。
豆腐ハンバーガーのパティの豆腐は豆腐1丁も使えば二人分以上作れる。バンズに挟まなくても冷凍保存して普通の日の献立に豆腐ハンバーグにしてご飯と合わせてもいい。イベントの日は紅葉の綺麗な秋だから、炊き込みご飯のレシピを配ってもいいんじゃないかとカエルが提案したけれど、イベントの後はすぐ真冬に入るからと却下になった。
地元の和菓子屋さんの奥さんがイベントに参加していて、来年は秋か冬にイベントをするなら焼き菓子と和菓子もそれぞれ地元の洋菓子店と和菓子店におろしてもらうことになりそうだ。多分、弁当の販売についてもスタッフが集まりそうだ。人と会うのが苦手な遥だが、このイベントでいっぺんにいろんな人に会って、食事の席ではいろんな人から話しかけられていろんな話が進んだ。そうやってイベントが成功に終わって片付けをする最中には、何にもなかった山に人が住む街が作られていくようだと感慨深い思いがした。宿泊客のためにこの山にクリーニング屋さんができる話まで持ち上がっているのだ。
「すべてハルさんのアイディアで決まるなら、果実町に商品開発部は要らないですね」といつか星祭のイベントを持ち掛けてきた役場の職員が来ていて、また遥は彼に嫌みを言われた。けれども、今日のようにいろんなアイデアを持ち掛けらえるなら、それを実現するのが遥だとしてすべてが遥のアイデアという彼の感覚は間違いではないだろうかと遥は思う。
彼に言い返しはしなかったけれど、今日のイベントだって多くの人の力を借りているのだ。もしお弁当を出すなら全粒粉のバンズは、町のパン屋さんから降ろしてもらうことになりそうだ。遥がパン屋さんにバンズの話をして、そんな提案をされたことを言ったら、「弁当分一つのパンばかり一人で作るのも大変かな」とカエルはあっさり翻意した。冬の間お菓子作りをさせてもらえばそれはそれでいいらしい。バンズがあれば中身のパティは変えられる。ハンバーグの手ごね感があればパン作りの恋しさも解消されるなんて笑うカエルはどうしようもなく料理に夢中だ。
けれども、遥が嫌みを言われた話をしたら真面目な顔をして「他人のアイデアばかりでなく、俺はハルさんにアイデアを出してほしいな。この貸庭が実現したみたいに、ハルさんの世界観というかアイデアの中に住んでいたいんだよ」と言ってきた。自分のアイデアの中に誰かを住ませるなんてメルヘンだなと遥はカエルの表現に意表を突かれて笑ってしまった。
料理の他にも、今回は好評を得たものがあった。もう秋も終わりだけれど、冬仕様は間に合わず、野人に習って今年みんなで作った秋の寄せ植え鉢をイベントした場所の周りに並べたのだ。一昨日思いついてスタッフに話したら、早朝からみんなでこの鉢はここに置こうとかあっちに置こうとか相談しながら作業に協力してくれた。遥のアイディアを形にしようと奔走する貸庭のメンバーの原動力は何だろうと遥には不思議だ。単にここの暮らしが気に入っているからだろうか。仕事だからか。秋の寄せ植えの反響はよく、野人に話しかける人は多かった。けれども、野人は誰にも具体的なアドバイスをしなかったようだ。「まあ、実際作った鉢を見せてください」と言って写真で自分の鉢植えを見せてくれた人の数人とは少し話をしたようだ。寄せ植えは湧水とみどりがセンスを発揮した。
ハチくんも写真の勉強を続けていて、Instagramの運用も板についてきているので、寄せ植え鉢の写真のアップとそれぞれがどこにこだわって作ったか彼が文章を構成して後日あげてくれるだろう。
今年は、レンタルガーデンで猫を飼う人も増えた。普段はそれぞれの場所に住んで暮らしていて果実町にはいない人たちが、飼育費用を貸し庭に払ってくれるのだ。それで、この冬は野人が作ったキャットハウスの猫たちだけでなく、群れない大型の猫たちも貸庭で快適に暮らせそうである。彼らがそれぞれ暖を取れる場所を作って縄張りを分けようとしているが、どうしてもたまに喧嘩はしてしまう。
今回のイベントの参加者は本当に色彩豊かだった。同業者を名乗って「柚子紫蘇茶のヒットの秘訣を探りに来た」と遥に話しかけてきた人もいた。「何もわかりませんでしたけど、楽しかったですよ」と言ってもらえたが、イベントに参加すれば”紫蘇柚子茶”のことが本当にわかると思ったのか、遥には腑に落ちず謎だった。
旅行予約サイトの旅記事を書いているという人も見学及び参加してくれた。
”いい旅はいい香りがする。思い出は香りによって蘇る。果実町のレンタルガーデンはよく香る思い出深い場所だった”
そんな書き出しで、貸庭の今年一年の出来事を知りたいので、改めて後日遥に取材したいと言われた。今日のイベントをそのまま書いてくれればいいのにと遥は面倒くさかったけれど、相手は断る隙を与えず、空いている日程を押さえられてしまった。
4.春になるまで弁当作り
「ハルちゃんとカエルくんは貸庭の運営もお弁当の販売のこともあるでししょう。レストランを昼は喫茶店にするというし、イベントは霞に任せていいわよ。私も協力するから」
冬に弁当を売るなら、12月はもう無理でも1月と2月にはイベントをした方がいいだろう。星祭や樹氷探しは無理でも、役場の若者の意欲を汲んで日中にイベントをやろうと好評だった豆腐ハンバーガーのイベントの数日後に貸庭のメンバーと霧山酒造の親族交えて話し合いをすることになった。遥とカエルとほかのスタッフも冬に長期休みは取りたいので、自分たちだけでイベントをするのは負担が大きいと考えて社長の夕に相談したのだ。
「貸庭の場所を借りてもいいし、役場で台所のある場所を用意してもらって霧山酒造主催でリース作りや味噌作りなどのイベントをしてもいいわ。それで、お昼に新作のお弁当を売りましょう。野人さんの講演会だって冬にまた一度くらいしてもらってもいいんじゃないかしら。冬の庭の手入れについてお話してもらいましょう」
イベントごとを考えるのが好きな夕が次々とアイデアを出して、日程まで大まかに決めてしまった。人員には困らないというが、人件費がどれくらいかかるのか気になった遥に「むしろハルさんたちが今までやってきたほどお金はかけられないわ。急ごしらえだから、ごめんなさい」と謝られて、遥は恐縮してしまった。確かにこの間の料理教室のような人手と材料費がかかるイベントをそうそう何度もやっていられない。賑やかなイベントは一見楽しいが、年に何度もあると飽きられてしまうだろう。
「そうだ。イベントの話だけじゃなくて、年始にはみなさん、霞と香さんの新居に遊びに来ませんか?まだ見てないでしょう。富居会長ご夫妻のお宅もお隣だし、年末年始は果実町の家で過ごされるそうなのよ」
イベントの内容の話が固まってきたところで、夕がそんな風に口を挟んだ。久しぶりの緑茶に温まって、スケジュール帳に仮の日程を書き込んでいた遥は手を止めた。
年末年始は山を降り、実家に顔を出して、香たちの新居にもお呼ばれするのもいいかもしれない。少なくなった保護猫たちは貸庭に人がいない冬の間野人宅と遥の実家とみどり宅で交代で預かることになっていた。その猫たちの運搬と様子を見るのに互いの家を行き来する必要もあるだろう。
「いいですね。ハルさんどう?ほかの人も来られる人は一緒に初もうでに行きませんか?そうそうこの間のイベントのハルさんの豆腐バーガーすごくおいしかったから、私もモリモリ食べられたの。お礼を言ってなかったわ」
「え、ヤマさん本当に香さんにあげたの?バンズは焦げて、照り焼きソースの片栗粉は多すぎちゃうわ、緊張してさんざんだったのに」
豆腐ハンバーグは一人分以上のレシピで、遥は見本にハンバーガーの形を何個も作ったので、余った分は霞にあげたのだ。今回イベントに参加できなかった香に食べさせると言っていたけれど、「出来が悪いから、あんまり見せないで霞くんが食べて」と頼んだのにやっぱり香にあげたらしい。香にあげるなら、遥が保存して自分で後日食べると注意したのに、聞いてもらえなかったようだ。
「ううん、美味しかったよ。おかげで食欲が戻ってきたの。年末年始は元気に過ごせそう」
香に嬉しそうに言われて、遥は柄にもなく照れてしまった。最近は人から褒められることも多くなったが、毎回反応に困る。カエルにもお弁当のメニューにしたいと言われて、何が二人の琴線に触れたのかわからなかった。遥より香やカエルたちの方がずっとセンスがいいのだから、遥の下手なレシピもこれからブラッシュアップされそうだ。お弁当の献立はカエルが主体で考えたらいいと遥が言うと、それは違うなと口を挟んだのは湧水だった。
「やっぱり、何をするにもハルさんのアイデアがどこかにほしいよ。ハルさんが考えたくない時は休憩していいけどね。でも、あの場所はハルさんがいなければ成り立たない。料理でも何でもかんでもハルさんの世界にしてほしいんだよ。僕の漫画は僕が死んだら連載は終わりだ。貸庭だってそうであっていいんじゃないかな。ハルさんがいなくなれば、別物だ。ハルさんの感性を愛する仲間が貸庭のスタッフなんだ」
遥のアイデアの中に住んでいる彼らは遥の世界の登場人物になりたいのだ。いつかのカエルの言葉を聞いたのか、湧水はカエルと似たようなことを言ってきたが、それに喜ぶべきか遥は戸惑った。私をお山の大将にして、リーダーにして彼らは後悔しないのだろうか。それとも、みんな賢い人だからリーダーのような損な役回りは遥に押し付けてやっぱりしたいことをしているのが楽なのだろうか。穿った考えが頭をよぎったが、猜疑心にまみれて人を悪者にするのはよくないと暗い気持ちをすぐに振り払った。
「ーまあ、とりあえず、初詣は集まれる人で集まりましょうか。ちょっと山の世界から降りて年始くらいは俗世に戻らないと」
「町の奥の八幡宮?私も母を連れていっていいかしら?」
遥が初詣に乗りきになると、普段母を介護しているみどりもわくわくしたように真っ先に賛成して、その場の全員が当日に集まりそうな雰囲気になった。遥はそれに戸惑いながら、スケジュール帳に初詣の予定を書き込んだ。貸庭を初めてから、4年。今年はスケジュール帳に書き込んで毎日見ないと予定を確認することが習慣化した。
霧山酒造を出るときはほとんど暗くなりかかっていた。遥は運転が苦手だけれど、カエルが遥の実家に送ってくれると言ってくれた。来るときは霞が迎えに来たのだ。
冬の厚い雲の隙間から白い月が見えた。初詣に何を願えばいいか、遥は今から悩んだ。ほかのメンバーは貸庭に多くの夢を持っていそうだけれど、管理人の遥は日々流されるまま過ごしているだけだ。隣で運転してくれているカエルなどは、これからは魅惑のハーブ料理の開発を貸庭で続けていく事になるだろう。貸庭のメンバーのほとんどは遥以外もとは果実町の住人ではない。
あるいは、遥はこの果実町で新しい暮らしをはじめたカエルたちのような人たちが日々安らかに暮らせるように見守っていくだけの貸庭の管理人を目指せばいいのかもしれない。