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我が家の庭の風景 part.132「欠けた庭」

 私には欠落した感情がある。痛いと辛いである。これが、恐らくよく分かっていない。

 悲哀はあっても嘆きはしない。悲嘆に暮れたことがない。あったのは社会に対する失望だ。これもあれもこうなる事が定められ、私に求められるものはなかったのだ。社会に対する失望は、自分に対する失望である。

 他人の忠告は聞かないで、痛い言葉は忘れてしまう。そうやって生きてきた。

 重たい足が地面にくっついている。この家から一歩も出ないで生きていけるだろうか。

 おうち時間を充実させるは何が必要だろうか?例えば、家の中にものが増えても片付けが大変になるだけだ。庭に何か植えたとて、その乱雑さばかりが目につく。何か増やせば増やすほど足りないものがわかってくる。

 物を減らして、必要最低限にしたほうが、人生の充足はより得られそうだ。

白い日々草が他の花を圧迫。

 たくさんの種をまいても全てが芽吹くわけではない。それを見越して、さらに多くの種類の種をまく。計画通りには咲かない花たち。思った季節に咲かなくて、一斉に揃わないので前の花が枯れた隣で次の花が咲いたとしても、私の理想の花園にはならない。まだ更地のままにしておいた方が良いのではないか。あるいは1種類だけ花を増やしたらいい。

 それでも私はいろんな花に浮気する。ハーブのない庭はもはや考えられない。これでもハーブがまだ足りないのだ。実際に育ててみなければ、知識も身に付かない。

 野菜だって植えたいだろう。私が変わり種を好むせいか、父もいつもとは違った苗を買ってきたようだ。夏から秋にかけて赤いオクラがゆっくりと育った。夏の間は私の口には入らず、手ずから収穫したのは9月だ。

葉っぱが虫食い。

 見た目には、赤い以外は普通のオクラと違ったところがない。育てて、 楽しいのは見た目の美しさにあるだろうが、なにぶん手入れが行き届かないので、葉っぱは虫食いだらけだ。結局は植えない方が景観が良かったのではないか。野菜を育てるにしても、手間のかけ方だとか知識だとか、いろんなところが私には欠けている。植物が庭に増えるほど、私に欠けたところがわかるのだ。

赤いオクラ。
刻んで、納豆に混ぜた。

 初めて収穫した赤いオクラは、刻んで、納豆に混ぜた。刻むとせっかくの赤色が目立たない。納豆と赤いオクラという組み合わせが良くなかっただろうか。しかし、本来同じ粘りものとして納豆との相性は悪くない。普通の味がした。

 食事量を増やすには、庭の作物を減らした方が良いだろうか。あるいは猫に手をかけるためには、植物に対する手間を減らすべきだろうか。何かをしなくなったところで、その分何かに手をかけられるというものでもない。

 今年の秋性懲りもなく、たくさんのハーブの種を買った。花は家族に言われた時に買うようにしている。そうやって言い訳をして、結局は花壇の花はまばらのまま。草むしりが追いつかない。

 人間の欠点というのは、欠けたところだ。それは心象風景に完璧な庭を求めることによって生まれる心の穴なのだ。決して、他人にはわからない自分だけが知るところだ。

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