ようちえんの先生をやめた本当の理由。
おはようございます。うかいゆうこです。note久しぶりになりました。
前回は、新年の目標を書きました。
実際に行動して、ご連絡した方もいて、言葉にして外に出すって大事だなと感じています。言霊ですね。
さて、2月になりました。旧正月だと今が新しい1年のはじまりのお祝いですよね。なんだかお正月が2回きてるみたいで、うれしい(笑)
幼稚園に勤めていたときのこと
さて、今回はタイトルにあるように、幼稚園の先生として勤めていたときのことを書いてみようかなと思います。あくまでわたしがわたしのために書きます。
ちょうど幼稚園を退職したのが、2016年の12月。5年前くらいになるのかな。
12月に退職ってあれ? って思った方もいらっしゃりますかね。通常、幼稚園や小学校などは、年度としての終わりは3月なんです。卒園式や卒業式は3月にありますよね。4月になって、年度がかわり新しい学年になり、先生も変わったりしますよね。
そうなんです。わたしはもっていたクラスの子の卒園を見送ることができずに退職しました。
少し説明すると、わたしの勤めていた園は、モンテッソーリ教育をしていた幼稚園でした。モンテッソーリ教育は、マリア・モンテッソーリというイタリアの女医さんが子どもたちを観察して、編み出した教育法のひとつです。
モンテッソーリの「ママ、ひとりでするの手伝ってね」の言葉にモンテッソーリの言わんとすることが含まれているとわたしは感じています。
特徴としては、一斉保育でないこと、縦割りクラス、部屋には教具があるということですかね。あくまでざっくりですが。
教師は何をするかというと、子どもたちひとりひとりがやりたいことをできるように手伝う。ただそれだけです。「はい、絵をかくよ~」「うたをうたうよ~」はありません。一斉で何かをするのは、体操の時間や音楽の時間などだけです。お部屋にいるときは、自分の過ごしたいように過ごします。
そのこどもたちにただただ寄り添う。こどもたちを観察して、何をしたくて、どこに困っているのか、困っている部分を手伝うだけ。
それが教師の役割でした。
私自身、もともとこどもの前に立って、自分主導でなにかするのが苦手だったので、モンテッソーリの方針はとてもやりやすかったです。
そんなモンテッソーリ教育の幼稚園に約5年勤めました。
ほんとに子どもがすき
会う人にいつも言うのですが、わたしはこどもがめちゃくちゃ好きです。
理由は単純。こどもといるとわたし自身が解放されるから。一緒にいて、楽しいんです。だからだいすき。
「じゃあ、幼稚園の先生は天職じゃなかったの?」 「なんでそんな思いがあるのにやめたの?」と。
小学校6年生のときから思い焦がれていた先生というお仕事。実際楽しかったです。
だけど、楽しいだけじゃない現実も味わいました。前置きが長くなったけど、幼稚園の先生をやめた本当の理由を書きます。
書くことで自分自身を癒したいという思いで書くので、なぐさめやはげましのメッセージはいりません。自分で現実をしっかり見たいから。
幼稚園の先生をやめた本当の理由
さて、現在わたしは佐賀県で地域おこし協力隊をしています。おかげさまでひとや土地、環境に恵まれて、しあわせ~って思う日々を過ごしてます。
佐賀で出会う人に幼稚園の先生してました。と伝えると「こどもがすきなんだね」「幼稚園の先生してそうだね」と言われます。
「幼稚園の先生からなんで今の仕事してるの?」と聞かれることもあります。
そのたびに「自分が世間知らずでこどもたちに伝えられることが少ないから」と答えたりしていました。実際そうではあります。
25年間、実家から出たことがなかったし、勤めていた幼稚園にも自転車で通っていました。おばあちゃん、おじいちゃんも一緒に住んでいたので、甘やかされた部分もあったり、逆に厳しい部分もありました。
ご飯を作るのもお母さん。いつもお弁当も作ってもらってました。(幼稚園はお弁当の園だったんです)
「世間を知らん」というのは事実なんだけど、そう答えるたびに違和感がありました。
「苦しくなってやめた自分もいるよね」と。そうなんです。ポジティブな気持ちいっぱいで幼稚園をやめたわけではありません。
むしろ逆です。「行けなくなった」が正しい。
ストレートに言うと、うつ状態になってやめました。
幼稚園に勤めて、2年目で担任をもたせてもらいました。
縦割り保育だったので、3学年(年少、年中、年長)のこどもたち30人くらいと一緒に過ごしていました。もちろん一人担任ではなく、副担の先生と一緒にふたりでこどもたちを見守っていました。
担任をもちながら、モンテッソーリ教育の勉強に広島へ月1回、1週間行ってました。モンテッソーリの資格があったので、資格をとるためのコースに通っていたんです。そのコースが2年間。
けっこう大変な勉強で、アルバムと呼ばれるものを5領域分を提出が資格をとる上で必須条件でした。アルバムはこどもたちに提供するお仕事(教具をつかうものをお仕事とよんでます)を絵に書いて、文章書いて、完成させる。
ファイルの厚みが辞書くらいかな。まあ、これがけっこうな量で、先輩の先生たちにも親にもてつだってもらってました。
私の容量の悪さもあったのですが、とにかく時間がかかって、睡眠時間も削って、ふらふらで。アルバム作成と同時に、提供するお仕事の練習もしなくてはいけない。もちろんクラス運営もある。
もともと睡眠を削ると、すぐ体調に出てしまう私は、勤めて3年目できつくなってしまって、もういっぱいいっぱいで。3か月休職をさせてもらいました。
休職するのも始めてだし、こどもたちと先生たちに申し訳なさすぎて、休んでいても自分を責めまくってました。だけど3か月経って、徐々によくなり、3か月の休職を経て、復帰しました。
こどもたちが「うかいせんせいがよくなりますように」ってずっと祈って待っていてくれたことが何よりうれしかった。
それから4年目を過ごし、5年目も同じクラスで担任をもたせてもらっていました。
だけど、ついがんばりすぎたり、人に合わせすぎたりして、復帰はしたものの、根本が変わらないから同じような生活しちゃうんですよね。
それで、ある出来事をきっかけにうつさんがまたやってきました。
保護者の方とのトラブル。詳しくは書きませんが、子どものけがを見逃して帰してしまい、その子のお父さんに電話でめちゃくちゃ怒鳴られました。
今やっとお父さんの言いたかったことがわかるし、なんでそうなったもわかります。だけど、24歳のわたしには受け止めきれず「わたしが悪い、担任失格や、けがして帰したらあかん」と自分を責めることでどうにかしようと思ってしまいました。結果、子どもを見守るじゃなく、見張るような形になってしまい、わたし自身が苦しくなってしまいました。
こどもたちの前でも何回も泣いてしまったり、保護者の方から電話があると怖くなったり、お迎えで保護者の方に会うのも、こわくてどきどきして。
もちろん、いろんな保護者の方がいるので、関係性を育めていた方もいたのですが、担任の重圧、責任に耐えきれなくなってしまって。
ある日突然、自転車で通るいつもの通勤道で立ち止まってしまい、動けなくなりました。
「どうしたらいいんだ。またうつになってしまった。」
しばらくぼーっとしていまいました。そのあとひとまず家に帰ったのかな。
それから園に電話して、急すぎるのでひとまず休もうということになり、またもや休職をしました。(人生で2回も同じ職場で休職した)
3か月休んだけど、もうこれは続けられないなと思って。退職の旨を伝えました。だから12月という中途半端な時期でやめています。
こどもたちに会いたい、かえしていきたい
退職してから、その次の月の1月にこどもたちに会いに行きました。
きてほしいって言われたのかな。たしか。
もう忘れられないあの日のこと。今でも涙が出ます。
「うかいせんせいまってたんだよ」「いないあいだね、ちいさいくみさんのおせわがんばったよ」「うかいせんせいあしたからまいにちくるの?」
こどもたちに会えたことはもちろんうれしかった。その反面、自己都合で退職してしまって、この子たちの卒園をみれないんだと。勝手だなとも。
ほんとに申し訳ないきもちがいっぱいでした。
だけど、こどもたちにはほんとにたくさんのものをもらいました。
ピュアに人を思うきもち、全力でじぶんを表現すること、「ごめんね」「いいよ」のあったかい関係性。
もらったというか学んだことが多すぎて、返しきれんくらいです。
ほんとうにありがとう!!!こどもたちに出会えたから今のわたしがあります。
多分、初めて担任した子はもう中学生とかになってるんじゃないかな。
「大きくなっただろうな。どんな風に生活してるのかな?
ただただ会いたいな。ずっとずっとみんなのこと応援してます。
ほんとにだいすき。」
「うかいせんせいもがんばっています。みんなのおかげで元気に過ごせているよ。」
だからわたしはこどもたちがやりたいことをやれるサポートをしたい!
形はなんだっていい。こどもだけじゃなくて、おとなもやりたいことをやれるような愛ある世界にしたい。
それで、ほかの生物と地球をまもりたい。こどもたちに渡すバトンをしっかりつなげたい。
これは一生かけてのテーマです。まずは自分を愛することから。だから自分を責めず、愛するためにこのnoteを書きました。
「だいじょうだよ、わたし」
これからもわたしと共に歩んでいきます。
みなさま、ほんとにいつもありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いします!!
おわり。
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