全音HP公式メッセージ(22 II 2022)に見られる問題点
エキエル編ショパン・ナショナル・エディション日本語版。翻訳が(ポーランド語を読めない)監修者により勝手に変更され、そのまま出版されてしまう。この問題が広く世に知られても出版社は沈黙し、何の対応もなされないままでした。
全音が公式メッセージ ※ を出したのは、3か月以上も経った 2022年2月22日。2月10日に「事態は一歩も動いてい」ないこと、全音が何も対応していないことに多くの人が驚き、また翻訳者がポーランド側に助けを求め、PWMが動いたため。もしこちらが動かなければ、つまり“外圧” がなければ全音はまったく何もしなかった。
( ※ 注: この全音HPの公式メッセージ は 2024年6月21日に全音により消去され、「ページが見つかりません」と表示されます。)
この公式メッセージには、当事者が読んで明らかに問題だと思うところが多くあります。批判を続けるのは精神的につらいものです。しかし事実でないことや明らかなミスリードは「それは違う」と指摘しておかないと後で大変なことになります。
「全音公式メッセージに書かれていることは本当ですか?」と聞かれることも増え、当事者として“証言”を記録しておかなければと考えるようになりました。
監修者/全音担当者の考え方には “机上の空論“ が多いのです。そしてなぜ批判されるのかよくわかっていない。驚くような嘘もある。問題の本質に向き合わず、弁解や保身ばかりが目立つ。
このメッセージ/弁明を読んで感じるのは、正しい情報が全音楽譜出版社の部長さんや社長さんへは おそらく上がっていないだろうということです。公式メッセージで出版部の担当者の方がこう書くということは、社内でも上司に対し同じように説明していらっしゃる可能性が高い。
しかしこれでは全音楽譜出版社の社長さんは本当の情報を得ることができず、会社としての適切な判断はできないでしょう。つまり日本のピアノ界(ショパンに関して)の未来に大きく影響するため、現状を軽視すべきではない。そのためこうして事実をひとつひとつ書き、皆様にご覧いただくことが大切だと思います。
この問題を表に出さざるを得なくなったのは、長い間プロジェクト内で複数の翻訳者が監修者/全音担当者に対しどれほど訴えても、状況が何も変わらなかったためです。
2021年11月にまずひとりの翻訳者が声をあげ、その後、先輩翻訳者もやはりSNSに書き、多くの読者がこの問題について知ってくださいました。以来、読者の皆様が、この日本語版プロジェクトがとんでもない状況にあることをさらに多くの方々に伝えてくださっています。
これらに対し全音担当者は “歪曲された批判が発信されて“ としていますが、私も先輩翻訳者も事実を書いています。また多くの方々が的確なコメントをくださっており、そこに歪曲されたようなものは見つかりません。
全音はポーランド語が読めない先生に監修を依頼。監修者/全音は勝手に翻訳文を大量に変更し、翻訳者に何も知らせずそのまま出版。これでよいはずがありません。この指摘のどこが “歪曲” なのですか。
“歪曲“ と書くのは明らかなミスリード、印象操作であり、問題に真正面から向き合わない逃げであり、良心ある人間の心の底からの訴えに対してあまりにも不誠実だと思います。
認識が甘過ぎます。事態の深刻さを理解せず、なぜ批判を浴びているのかをわかっておられない。
メールで苦情を入れてくださった方、電話をしてくださった方、全音HP “お問い合わせ”ページに書き込んでくださった方。私に知らせてくださった方々だけでもかなりの数です。ショックだったのは、全音の電話での回答には簡単にわかる嘘があり、メールの回答にも事実でないことが書かれていたこと。そして全音はポーランド側にも嘘を言っていたことが (ポーランド側からの知らせで)わかったこと。
私はショックで「日本はこんな嘘ばかりの国じゃない!」とポーランド側に言いました。
“解説部分や脚注部分を日本語に翻訳“ すればよいのに、監修者による注が多すぎます(なぜか [訳注] と表示)。訳注とは、文中の訳語への訳者の補足です。訳者による注というつもりで訳注と書いていると思われますが、訳者に断りなく[訳注]を色々なところにつけている。これは訳注ではない。訳者注でもない。監修者注です。
解説や脚注の他は原書と同じというなら、なぜ楽譜の目次ページをこんなにも破壊してしまうのでしょうか。
果たして同じと言えるでしょうか。脚注の数は異なり(監修者がポーランド語版にない文を加えている)、曲のタイトルは左側から真ん中へ。作品番号表記もわざわざ変更。ポーランド語では op. と o (オウ)は常に小文字、ハイフンは使わず、最初のノクターンでしたら op.9 nr 1 と書きます。日本語版で初めてナショナル・エディションに接する人は、ポーランド語版も Op.9-1 となっていると思ってしまう。まさかここで原版からわざわざ変えているとは読者は夢にも思わない。
言語ごちゃ混ぜの目次ページ。このページを見て拒否反応を起こし、「あり得ない。この日本語版は買いたくない」と思った人は多い。ポーランド側は日本語版の目次ページを見た途端、言語のごった煮、ごちゃ混ぜ状態にぎょっとしたと。協議や合意がなかった証拠です。
良い方法を模索するのであれば、翻訳者たちの必死の抗議に耳を傾けなければおかしい。監修者の、複数の翻訳者に対するパワーハラスメント/ひどい嫌がらせ を放置し、見て見ぬふりをするのはあり得ない。
先輩翻訳者が今回の日本語版の問題点について指摘し、「あくまでもエキエルの意図に忠実な編集をお願いします。」(2021年11月24日) と真摯にお願いしたにもかかわらず、全音担当者Wさんは「社内でも検討いたしましたが、現行のまま(全音が、もとのポーランド語版とは違うように変えてしまった状態のまま)とします。ご意見ありがとうございました。」(2021年11月24日)と信じられない回答。つまりエキエル先生の望んでいるようにはしない、ナショナル・エディション編纂者の意図に忠実にはしないと平気で言明するのです。
このように、重要なことを指摘されても平然と突っぱねてしまう。要するに担当者は、言われても何のことかよく理解できずピンと来ないものは無視して切り捨ててしまうのです。それが「検討いたしましたが、現行のままとします」という “判断” になっているに過ぎない。何がいけないのかよくわかっておらず、とんでもないことになろうがそのまま強行する。その代表的な例が、言語ごちゃ混ぜの目次ページです。
全音は日本を代表する楽譜出版社のひとつであるはずなのに、ポーランド語版からわざわざ手間をかけて変更して目次ページを破壊し、平気で世に出してしまう。「(…)よりによって、ポーランド国家事業のショパン原典版全集で。全音楽譜出版社さんには、こうした大変に間違った判断をしてほしくない。これでは信頼を得られない。」(2021年4月5日)と、またこれ以外にも何度も何度も訴えてきたのに強行されてしまったのです。
体制を整えなくても直接連絡するのは当たり前で特別なことではありません。
2021年11月に実態が明らかになっても全音は対応せず、批判が殺到してもただ沈黙。翻訳者がPWMに助けを求め、結果PWMが動き、発売から3か月以上経ってから(2022年2月22日)全音はようやくHPで弁明。
つまり(翻訳者からPWMへの直訴によって、ようやく) “PWM社より指摘を受けた事項“ には真摯に対応するが、読者や翻訳者からの訴えに対しては、まったく同じ事項/指摘なのに対応しない。その指摘の重要性を理解していない証拠です。
実態は、ポーランド語を読めない監修者の先生の “監修”を待つ時間が1年以上。“監修”により破壊されてしまった箇所が見つかると、なぜそれを元に戻さなければいけないか、監修者の先生をできるだけ傷つけないよう、論理的かつ丁寧に何度も説明しなければならず、翻訳者は疲労困憊。あまりにも無駄が多すぎる。
監修者の先生に意見を集約することは、“偏り” をなくすことにはつながりません。監修者はポーランド語が読めず、細部を深く読み込んで重要な判断を下すことが不可能。監修者のところに意見が集約されても、よりよい翻訳文にはなりません。
事実を見れば明らかです。大きいは太いに、小さいは細いに変えられている。źródła podstawowe に関しては、先輩翻訳者が資料を示して的確に問題を指摘したにもかかわらず、監修者の先生はどうしてよいかわからず回答を避けて逃げ続け、5か月待たせた後、指摘した先輩翻訳者には一切知らせず黙って修正。
原文を深く理解しなければ “よりよい翻訳文”かどうかは判断できません。
「基礎となる原稿」という言葉、こうした書き方に担当者の考えが如実にあらわれています。
「翻訳者から翻訳原稿という素材/基礎さえいただければ、後は(ポーランド語のわからない)監修者と全音担当者とで好きなように ”わかりやすく” 整えて仕上げます」と。これでは大変なことになります。翻訳とは何かをわかっていらっしゃらない。
ある日突然、私たち翻訳者は他の巻の “ダブルチェック” をするように言われました。自分の巻の翻訳を磨き上げなければいけない時期に、当初の約束にはなかった責任ある重い仕事、多大な時間とエネルギーを要する追加の仕事を無償でするよう急に要求される。これは、ポーランド語を読めない監修者に監修(チェック)する力が十分にないため、翻訳者たちにその分の仕事も代わりにさせたということなのです。
監修者はシリーズ全体を見渡せていません。見渡せていたら、このような事態にはなっていない。監修者は翻訳者5名の原稿を受け取り、5巻分の日本語を眺め、“監修”する。シリーズ全体のコンセプトを理解せず、深く考えずに安易に変更してしまう。また全音担当者の考える“見渡す”とは、単に複数巻の日本語訳の表面をただ眺めているに過ぎない。原文の理解なしに正しい判断は不可能。
監修者は ”日本語表現を整え”てはいない。 「リズムを次のように“厳密に示して”いる。」の部分を「ぎゅっと引っ張るようなリズムが音価どおりに書き換えられた。」と、読んでも意味がわからない訳に勝手に変えてしまうことが、 ”日本語表現を整える“ ことになると全音はおっしゃるのでしょうか。
別の箇所では and を or に変え、また「澄み切った響き」は「濁らせずに響かせる」に変えてしまう。それでは監修とはいえない。
忠実で、かつわかりやすい訳であること。ポーランド語が読めない監修者/全音担当者が “調整” した結果、原文の意味から変わってしまった場合が少なくない。重版の際の訂正も、最終判断は翻訳者ではなく(ポーランド語が読めない)監修者がすると全音担当者は主張し、押し通そうとする。
“ユーザーのみなさまにとってよりわかりやすい言葉や表現に“ というのであれば、なぜ「欠けている」をわざわざ「欠落している」に変え、「(右手で)とる」をわざわざ「取り分ける」(手の分担でこの言葉は使わない)にしてしまうのか。
また「保続」とする必要があるところ以外は、単に「保つ」というところをわざわざ「保続」に変えるべきではない。
言っていることと やっていることが違う。
全身の感覚・神経が研ぎ澄まされている状態、集中しきって練習している状態で解説を読むピアニストのことを思いやらなければいけない。
また「繰り返して弾く」を「打鍵し直す」になぜ勝手に変えてしまうのか。忠実に訳し、わかりやすかったものを、わざわざ忠実でない訳に変え、弾く人にとって伝わりにくいものにしてしまう。“打鍵”という動作のことを言っているのではない。“し直す” のではなく、響きがもう一度生まれるのです。原文を破壊してはいけない。
協議なく勝手に変更され、意味が変わってしまったからこそ翻訳者が抗議しています。
全音担当者/監修者が ”自然で読みやすく整えた“ と考える例が「澄み切った響き」から「濁らないように響かせる」への勝手な変更です。文意を汲み取ってはいない。ポーランド語が読めない監修者/全音担当者が、翻訳者と相談・協議せず、どのようにして文意を正しく汲み取るのですか。
翻訳者は承知をしていません。手を加えるのであれば、翻訳者に確認しなければいけない。それとも「監修者は翻訳者に無断で手を入れます。監修者はポーランド語が読めないため、手を入れた後も原文に忠実かどうかはわかりません。それらの変更の詳細は翻訳者にまったく知らせず、そのまま出版することをあらかじめ承知のうえで」ご協力いただく、とおっしゃるのでしょうか。
2020年2月末に翻訳原稿提出。それから1年3か月にわたる “監修“期間中、翻訳細部に関して膨大な回数のやりとり(担当者⇄監修者⇄翻訳者)があり、その後の2021年6月に翻訳者は原稿を最終提出。しかし監修者/担当者はその最終提出後、つまり翻訳者の手を完全に離れた後に、翻訳者に何の連絡も相談もしないままさらに何百という箇所を勝手に変更して出版。これが異常なことであると全音担当者は思わないのでしょうか。
事実ではありません。あらゆる箇所において議論は重ねられてはいない。すり合わせたのちに各巻を出版、とはなっていない。なっていたらこのような問題は起こっていない。
慎重とは言えません。慎重であれば、決してあのような目次ページにはならない。
解説の他の箇所も同様です。「同時に。」を「同時に弾くとよい。」と勝手に変えてしまう。エキエル先生は「…と弾くとよい(と自分なら思う)」とは書いていない。原文どおりではなく、慎重さからは程遠い。
全音が慎重なら、ポーランド語を読めない監修者の問題を真っ先に解決するはずです。“監修者”の先生に監修はできない。原文が読めないのですから。全音担当者には「原文に忠実に」という意識がない。公式メッセージにあらわれる言葉で明らかなように、「(全音にとって)わかりやすい」というのが大切で、原文に忠実かどうかは考えておらず 大切ではない。
現実離れした机上の空論が多い。翻訳の本質を理解しようとせず、抗議に耳を傾けず、訴えの内容を理解できず、何のことかピンと来ていない。ご自分の頭の中で考えた枠組みだけでとにかく押し通そうとする。うまくいかないに決まっています。
現在の監修者の先生と全音のやりかたでは大変なことになります。必死に抗議・忠告する翻訳者たちはことごとく監修者のパワーハラスメント/ひどい嫌がらせに遭い、健全な精神状態では仕事ができないところまで追い込まれる。全音担当者はそれを放置し、見て見ぬふり。正常な仕事の環境とはとても言えない。
ナショナル・エディションをある程度以上理解している翻訳者たちは、監修者と仕事を続けることは不可能。一方、仕事が欲しいイエス(ウー)マンは決して嫌がらせを受けることはない。つまりこの先の日本語版は、現在の全音の体制では、大きな妥協をも厭わないイエスマンのみが仕事を受け、一直線に質が低下する道をたどる。
全音は、翻訳者が訴える訂正依頼を素直に受けてください。訂正箇所の決定を、ポーランド語が読めない監修者に委ねてはいけない。「重版時の修正は、翻訳者ではなく、監修者である加藤先生の責任」(2021年11月17日)でおこなうという全音担当者の考えは間違いです。
そして日本中(世界中)の優れたピアニストの声に耳を傾けていただきたい。現在の全音担当者の姿勢は、ピアニスト・教授・学生・生徒・愛好家が望む方向とはあまりにも違いすぎます。
全音の公式メッセージ「ショパン ナショナル・エディション日本語版プロジェクトについて」(2022年2月22日)は 18 の文から成っています。
明らかに問題であるところを指摘していった結果、上記のように (1)から(18)までを列挙することになりました。つまりひとつ残らず、すべての文がおかしいのです。
問題が公になった2021年11月から3か月以上、全音は何も対応せずただ沈黙し、その後ポーランド側の介入により、ようやく初めて発信された公式メッセージ。
しかしその公式メッセージには、おかしなところのない文、問題のない文がひとつも存在しない。事態の深刻さがおわかりいただけると思います。
エキエル編ショパン・ナショナル・エディション日本語版、
一体何が起こっているのか《1》
一体何が起こっているのか《2》ーー私たち(国内外)の声を受け止めて
エキエル先生との出会い・ポーランド語をどのように学んだか・私の翻訳の師匠
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