稲垣えみ子さんの「寂しい生活」を読んで
おはよう、8月3日。
ヨガを30分ほどやって、気持ちの良い1日のスタート。
約半年、全く無職の状態からの脱却をして、社会復帰を叶え、今日は休日。
フルタイムでのいきなりのスタートは、少々の不安もあったが、さすがに初日は疲労困憊でシャワーを浴びてすぐに寝落ち・・・というより興奮冷めない神経が昂って、疲労した体とバランス悪い寝つきで、深い眠り(ノンレム睡眠)に落ちる瞬間に起こるパニック発作のような症状が久しぶりに起こったのだが、それを受けてパニックを起こすような若さ(心の未発達さ)は卒業しているので、落ち着いてその状態が正常に戻るのを待った。そして熟睡して気持ちの良い目覚め。
二日目となった昨日の勤務後は、疲労もそれほど感じず、これならやっていけるかなと安心しながら、廊下の灯りだけで浴室にも脱衣室にも電気を点けずにぬるい湯船に浸かり、スイカを食べて、ベッドの上で軽くヨガをして就寝した。昨日は、久しぶりに、つばめグリルへ行って、ひとりディナーをした。息子は当直日。帰宅を待つ愛兎ちゃんが心配ではあったが、就職祝いと思って。もう、アルコールや甘い飲み物にストレス解消してもらう若さ(未発達さ)も卒業し、飲み物は水。お茶のリスクも悲しいけど履修済みなので、水が一番いい。
若さという武器のようなもので生き抜くしかなかった時期は、あらゆるものにその戦いの緊張を癒してもらって生き抜いてきたように思う。時代の洗脳にまんまと嵌められてしまったのもあるかもしれないが。ミーハーにだけはなりたくないと抗ってきたものの、所詮ミーハーだったのだと振り返る。ミーハーが全て悪いとは言わないが、やはり、なりたくないと思うのだから、美しい生き方ではないのは間違いない。でも、ミーハーな生き方をせざるを得ない社会だったということだ。人間は、個で生き方を断行し続けられる生き物ではない。少なからず、大人になる過程で、育った環境下での保護者の価値観や、教育環境の指導者により、伴走をされて社会へ走り出すものだ。その後、30歳くらいになるまで大抵10年ほどは、不安定なまま、大人の伴奏が続く。日本の戦後のシステムで生きる限りは。そしてその後も、社会の歯車は、若干のミーハーさを滲ませて生きる方が、生きやすいのである。軋まないように、痛くないように。そうやって私たち世代は、時代の風に乗って生き抜いてきたのだ。
脱・ミーハー。叶うだろうか、57歳にして。
稲垣えみこさんの「寂しい生活」を一気に読んで、すっかり影響を受けている。
これだ、探していた価値観。と思った。一部、反原発デモをしている人たちへの記述には、反論をさせていただきたい点があるけれど、それは、実際に福島で原発事故を経験した人間とそうでない人との差異であろう。実際に、子育て中で、自宅の庭が9, 99μsv/h限界の測定器で、9,99を表示したのを確認したら、きっと稲垣さんは、伊方の実験の反対デモに対して、「迷惑でしかない」とは、書かれなかったのではないだろうか。当時彼女は大手新聞社の記者だった。「ヒッピーのような人たち」それは今の彼女の個人的な感想であり、一部の記述に過ぎないので、見解の相違として読み流した。そこ以外は、ほぼほぼ、共感の言葉で埋まっていた。対岸を生きてきた2歳年上の彼女。キャリアを積んで、母親となる道ではない道を歩いてきた彼女と、家庭に収まり母親として生きてきた私とでは、本当のところ、その、いわゆる社会から求められる社会への貢献力の高い青年期・中年期、全く違うものを守る岸にいたのだが、その青年期・中年期をを終えていこうとしている50代の後半、最後はまた子供時代のように、対岸に生きてきた者たちも、同じ岸を歩く老齢期を迎えていくのだと感じた。
彼女へのリスペクトは、徹底した電気なし生活の実現。すごい。もう、人間の域を超えている。文体は敢えて俗っぽさを残す言葉尻を選んでいるのかなと感じた。これがまたいいと思った。欲を捨てたいと気づき始めた私たちより少し下の世代の女子たちにも、ハードルを下げて読みやすくしたのかなと感じた。
家電品を捨てる、か・・・
私は未だ、息子との同居で、息子のお弁当を作っている母親業から卒業できていない人間で、電力なしの生活はさすがに不可能に近い。職務上、毎日出る洗濯物はまるで野球部だった中学生の頃のようで、しかも手で洗える厚さの衣類ではなく、洗濯機なしはまず、あり得ない。もちろん、コインランドリーを使えば良いのかもしれないけれど、家に洗濯機のない暮らしなんて考えたこともない。
そして、何より稲垣さんの凄いのは、冷蔵庫まで捨てたということ。捨てたのか、電源を入れていないのか、本は娘に返したので確認できないが、とにかく使っていないと。えっ!さすがに冷蔵庫は、、、、と、”思い込んで”生きてきた、私。
還暦まであと3年を切った。めでたく還暦を迎える頃にはきっと、息子との二人暮らしも、形を変えていくだろう。その時、いやできればその前に、ようやく私は一人での生活ができるようになる・・・かな。そうなると良いんだけど。高齢の母が、その頃どんな健康状態かな。今は一人で実家を守っている。
わたくし実は生まれてこの方、57年間、一人暮らしをしたことがないのだ。一人暮らしをしないまま、結婚は実家から嫁いだので。
そして青天の霹靂、結婚丸20周年の記念日の翌日に、あの地震が起こり、未曾有の原発事故。公的避難の体制が敷かれるのを待つも、悪夢か、線量のまだ高いまま、子供たちは通常通りに学校生活をさせられるという、まさに文字通りの本物の悪夢を現実に見た。取り繕えない信じ難い「大人の都合」が露呈していた当時の現地。親次第で子どもの健康被害を守れるのか守れないのか、分かれるなんて。どうするべきなのか本当に死ぬほど悩み苦しみ、様々な専門家の方々のお話を直に聴きに行き、最後は、チェルノブイリの事故の時にキエフへ5年間赴き、現地の子供たちの甲状腺疾患を手術して観察してきた外科医の先生の講演会で決意した。その先生は、その当時、長野県松本市の市長をされていた。そして、自治体として初めて、福島の子どもたちを「留学」という形で避難させる体制を整えてくださった方だ。このお話は、また別の記事で詳しく書きたいと思う。そう、それで自力での母子避難を決め、4年後に離婚となった私。その嵐のような自力避難生活は、読者の方々の想像を超えるかもしれない。筆舌に尽くし難いとはまさにこの事。書ききれないほどの困難の連続だった。
そういえばみなし仮設へ避難した時、赤十字からすぐに家電品が送られてきた。戦後人間の生活は欲望の留まるところを知らず、家電ありきになっていた。その結果が原発事故だったのだ。あの事故に至ったのは、大人としても近代史もしっかり興味関心を持たず、騙されるままに騙されて、電気使ってくれたらありがたい原子力事業に賛同していた、加担していたと言われてもおかしくない暮らし方の結果だったのだ。なんとも皮肉というか、悔しいというか。悔しさを自分にも向けなければならないという・・矛盾だらけのテーマに直面していると感じたものだった。
その家電セットは、冷蔵庫・洗濯機・炊飯器・電子レンジ・そして、テレビ。電気ポットもあったかな。使わなかったけど。
テレビはあの当時、まだまだなくてはならないものだった。いや、そうのような刷り込みに気づいていなかった。今のように、ネットで情報を取り込むにはまだまだ未熟な世界だったし、テレビが嘘を流すわけがないと、盲信していた。力に操作されているなんて、知らなかった。
当時はまだガラケー時代で、スマホもなく、パソコンも個人で持つ人は少なかった。テレビを信じている人がほとんどという、今ではちょっと信じられないくらいの時代だったのだ。たったの13年前。
稲垣さんも、きっかけは原発事故と書いてあったので、決して無関係ではない私の被災経験。私も、原発事故がまさに自分の人生の転機となったのであり、本当の自分の覚醒という意味では原点であり、出発だった。
なので余計に、稲垣さんの「寂しい生活」は、自分ごとのように一気に読めたのだと思う。
私は、そんな避難生活で、原子力事業に関しての諸々を知ることで、全身が魂から震えるような怒りを抑えながら、まだ学生だった子供たちを守り、学生生活を支えて、それぞれの希望通りの社会へ送り出すことでいっぱいいっぱいだった。長い間家庭にいたために、なかなか慣れないフルの仕事、それと同時に、法的に戦わなくてはならないことが次々と起こり、負のループはこうして負のきっかけが呼び寄せてしまうのだなと、身を以て知ったことだった。抜け出せないのだ。ひとたび謂れのない被害を受け、誠意のない対応に真っ向から勝負をすると、結局、個人のレベルでは巨大な権力で構成されているものに、勝てるはずはなかった。だから多くの人たちは、危険であることは知りつつ、将来健康被害が起こるかもしれないとわかっていても、国が引いた線に従い、避難させてもらえないのならそこに住み続けるという判断をするのだろう。
原発事故からの避難を巡って私が知ってしまった事実は、簡単には書ききれない。とても根が深く、人間の正義は一つではないと知ったことは、確かだ。
今、娘は結婚をして幸せな家庭を築いている。
息子も幼少期からの夢を叶えさせてあげることができた。
背中を押してくれる、独り立ちするまで物心ともに守ってくれる親無くしては、子どもは社会へ羽ばたけない。片親になっても、私はそれだけは責任を果たしたかった。様々な目に見えるものとも見えないものとも戦い、築き上げてきた20年も失い、その不条理と失望感で心身ともにボロボロになったけれど、今は、子育てをやり切った感で満足だ。もう何かを責めても、誰も責任を取ってはくれないし、私自身の残りの時間を考えたら、もう、戦いモードのスイッチを入れたくはない。入れてしまったら、おそらく、この生が肉体の終わりを迎えるまで、その戦いは終わらないだろうということは、過去の先輩方の、私と同じ正義を持つ方々のお姿を見て、想像がつくので。その方々のことは心からリスペクトしているし、本当は当事者としてもっと積極的に脱原発を叫ぶに相応しい(耳を澄ませてもらえるという意味で)のかもしれないが、今は、私は、もうこの13年をちょっと脇に置いて、人生最後の幕となる日々は、心も身も、穏やかに暮らしたいと思うのだ。
もう。
もう傷つきたくない。
3年後には、私も、冷蔵庫のない一人暮らしができるだろうか。
洗濯機も。洗濯は手で洗うことはできても、一番欲しい機能は脱水機能であるので、それは厳しいかな。手動の絞り機があるのは知っているが、それにしようか。電力を使わないのが目的であるのなら。
稲垣さんのように、現実にその風景を目にするまでは、私はまだまだ段階を踏んで行かねばならないけれど、目指したい方向は決まった気がする。この道を目指して進む私を阻む敵はいないだろう。裏切る者もいない。失う悲しみも最小限になる。そう。
所有すること、所有すればするほど、悲しみも所有してしまうということなのだ。
ならば、もう、目に見えることも見えないことも、なるべく、所有しない。
空で、無で。
しかし起伏のない、愛がそこにあることは、自分だけが知っていればいい。
※ 追記
朝、気持ちよく目覚めて、文章作成していたのですが、老兎ちゃんの換毛期の体調不良が起こり、病院へ行って落ち着くまでに随分と中断してしまいました。もう、空は柔らかな夕焼けの時間。離婚とほぼ同時に我が家にお迎えしたネザーランドドワーフの雌。子を産まないまま9歳を過ぎ、子宮に腫瘍ができていることは確認されていて。でも、福島で飼っていた兎さんを、オペで5歳で亡くしているので、我が家では家族一致で、手術はしない方針。命の限り、自然に、できるだけ一緒に暮らして、彼女の生を見届けたいと思っている。離婚後、止まらない悲しみの夜、涙の海で溺れそうだった頃、離婚後一年の時に私の父が他界し、その次々起こった悲しみのどん底の時期に、この子の存在がどれだけ私たちを励ましてくれたか・・・
なるべく痛い思いをさせないで、穏やかに日々を送っていきたい。