自分の願いから場をひらく人、 誰かの痛みから場をひらく人
対話の場や何かのワークショップを開く人は自分の願いから始めている人と、他人の痛みから始めている人がいると思う。
「自分の願いから始める」とは、自分の気持ち一番最初に扱うこと。例えば、わたしが主催している「死の対話」でいうと、わたしの経験と気持ちを最初に扱い、そこから始めるということです。
わたしは24歳の頃に父親が亡くなっており、同世代の人よりは早い段階で、死に向き合う体験がありました。
そこから、父との関係を見直したり、「終わりがある」今を大切に生きる人生になったことで、より今を大切に自分らしく、豊かに生きられるようになったんです。
だから死をダイレクトに話す時間をわざわざ枠組みとして作ることで、終わりがある、今という人生を大切に生きるということを分かち合いたいし、わたしももっとそういう、「今を大切に生きる生き方」を探求したいなぁと。
そしてわたし自身が死について対話することで、もっと今、大切にしたいこととに気づきたい。
そう思って開催しています。つまり、わたし自身の気持ちから始めています。
さらに言うなら、「なぜ分かち合いたいの?」を掘り下げると、わたし自身が深いつながり(自分とも相手とも)を感じあえる社会に生きていたい、という気持ちがあるからです。
つまり、どこまでも自分の痛みや、願いが起点なんですね。
「他人の痛みから始める」は、例えば身近な人を亡くしている人が周りにいたとして、その人たちを何とかしてあげたい、が起点となっていることです。(誰かの気持ちを扱うことが先になっている、ということ)
参加者の方の気持ちを癒すため、とか前向きな気持ちになってもらうため、とか。誰かを何とかしてあげたい、という気持ちから始める人が他人の痛みから始めること。
誰かのためにって良さそうな言葉だけど、これって自分を起点にする場合と、開く場が変わります。
前者は主催者、ファシリテーターが「共に探求する人」という構造なので、参加者に近くなるし、後者はそれらが「癒す人」「癒される人」というような構造を生み出す。主催者やファシリテーターのランク(立場)が上になりやすいのも、他人から始める人の場だと思っています。 (いい悪いではなく)
単純に好みの問題かもしれませんが、わたしは人の痛みを何とかしてあげるって、失礼だと思っています。
痛みって、今その人に必要だからそこにあるし、その人自身が自分の痛みを扱う力を持っている。 ( 余談ですが、わたしは人に「あなたが苦労するところを見たくない」と言われたことがあり、本当に傷つきました。わたしが、自分の苦労を扱う力があると本気で信じていたら、その発言は出来ないはずだからです。)
誰かを何とかしたいって、その何とかしたい裏に「相手が悲しむのを自分が見たくない(見る力がない)」とか、「自分が力になって感謝されたい」という、裏の願いや意図があるはずだし、それを隠したまま、または自覚しないまま場を開いている人が、参加者の気持ちを本当の意味で大切にできる人はいないです。
自分の気持ちを置き去りにしている主催者の開く場ほど、軽くてつまらない場はありません。
もし、私が身近な人を亡くして悲しんでいる人に助けになりたいと思ったら、なぜ助けになりたいのかを自分に問いかけて、その答えとなる、自分の気持ちを起点にして始めます。
例えば、「なぜ助けになりたいの?」という問いかけの自分の答えが、「悲しむ人の助けになるのは人として当然だと思うから」なら、" 人として当たり前のことを、もっと大切にできる社会にしたいので、身近な人を亡くしたときに、自分たちがどんなことができるのかを話し合いませんか" と呼びかけます。
あくまで、自分がこうしたいから。こんな社会に生きたいから。こんな願いがあるから。一緒に探求してもらえませんか、というスタンス。
誰かの気持ちを変えたいから。社会にこう変わって欲しいから。ではないんです。
自分の内側を起点にするか、外側を起点にするか。それだけの話ですが、これって主催者となる、ならないに限らず、普段の心の癖からくるものです。
普段、自分の内側を基準にしている人は自分のための場を始める。外側を基準にしている人は誰かのための場を始める。
わたしは「自分のため」に場を開きたいし、そういう主催者、ファシリテーターの開く場に参加したい。
なんて言うかね、結局、自分は自分しか生きられないんです。誰かを何とかしてあげたいだなんて、本当、おこがましい。
その人の情熱が全開の場の方が、結局、エネルギーをもらえるし、癒されるしね。
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