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弱い時こそ強い

人は弱い。
どんなに強そうに見える人も、弱さは人の数だけある。
嫉妬、不安、恐怖、妬み、傲慢、怠惰、依存、偽善、、、
単語を並べるだけで、醜さと切り離せない自分から目を逸らしたくなる。まだ気づいていない自分の弱さも、他人には見えているのではないかと想像し、また逃げたくなる。消えたくなる。
私は弱い。


でも、私は、弱い時こそ強い。



追い込まれると実力を発揮するとか、次のステップに進むチャンスとか、ギラギラした自己啓発本のような意味に捉えられるかもしれない。
あるいは潔く諦める決断力があるとか。学生時代のテスト前日、謎の自信が湧いてきた午前3時のあの感じ。残念ながらそれが言いたいわけではない。

私はプロテスタントのクリスチャンだ。クリスチャンと言っても聖書の知識は浅いし、何にも揺るがない信仰を持っているとは残念ながら胸を張っては言えない。「クリスチャンですか?」と聞かれればそうだと答えるが、信頼できると思った人にしか打ち明けたことはない。隣人を愛せと言われても、現実はそうはいかない。
まだまだ言い出せばキリがないほどに、私の中身は弱さで構成されている。


こんな出来損ない人間でも、100%神様によって生かされている。神様を頼り、助けてください、私を変えてくださいとすがりつくことで、私は生きていける。それで良いよと神様は言ってくれてる気がする。
なぜなら聖書に書いてあるから。「喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。「そこに神様の力が完全に現れる」から。


弱さは誇れるものだった。
隠したり、抱え込んだり、疲れきってしまうほどに頑張って、踏ん張って、いっぱい我慢して見ないふりして、自分の力で乗り越えようとするものではなく。
ある日その頑張りが自分の中で限界なことに気付いて、表面張力が効かなくなったコップの水のように溢れてしまうこともある。

神様は私たちの弱さを100%受け入れて、嫌な顔を少しもせず、人が想像できる最高最大MAXを遥かに上回る、無償の愛と豊かな恵みを与え続けてくれる。もれなく世界中の人たちに。こんな私でさえも。もちろんあなたも。

弱い時でも。弱い時こそ。
神様、あなたによって私を強めてください、と祈る日々。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

第2コリント人への手紙 12章9-10節


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