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小町がいたこと

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花家小町という、クールで、潔く、そして誰より美しい少女がいた。 彼女と深い関わりのあった青年・伊勢は、小町の十回忌という節目に、長い間封印していた記憶をたどることになる。 十…
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【小町がいたこと】 Episode① 十年

「花家小町の命日から、もうすぐ十年だ」
 手にしたビールのジョッキをテーブルに置いて、赤ら顔の折原はそう言った。
突然口にされたその名前に、心がはっきりと波立つのがわかった。僕は気持ちを鎮めるために、ウーロン茶のグラスに手を伸ばす。
「そうか」
 注意深く言葉を選んで、そんな抽象的な相槌を返す。
「伊勢、お前、大学に入ってから一度も地元に帰ってないんだって?」
 ビールの泡がついた口元をおしぼりで

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【小町がいたこと】 Episode㉘ Happy Birthday 2

 それから四月三十日まで、僕たちは穏やかにすごした。特筆すべき出来事はなかった。平日は学校に通い、週末にはデートをした。そして、片手で足りるほどの数のキスをした。
 その間、誕生日の話題が上がることは一度としてなかった。けれど僕は、心のうちでずっとその日のことを考えていた。
 誕生日の前日に、小町の家に泊まる。それはどういうことを意味するのだろう。
 期待と、緊張と、わずかばかりの覚悟。どれも実体

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【小町がいたこと】 Episode㉗ Happy Birthday

 冬休み以降、小町とは映画を観たり、服を選んだりと、僕たちらしいと言えば僕たちらしい、代わり映えのしないデートを重ねていった。クリスマスは彼女が伯父の家族と一緒に過ごすとのことで会えなかったけれど、正月には折原も含めた三人で初詣に出かけた。
 恋人同士になってからというもの、小町の有する積極性は、よりその性質を強めていた。デートの度、小町は「好きよ」と僕に対する思いを口にする。人目につかない場所で

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【小町がいたこと】 Episode㉖ 幸福のループ

「折原君とは会った?」
「朝に会ったよ」
「彼、なにか言っていた?」
「お幸せにって」
「そう」
 満足そうに小さく頷いて、小町は微笑を浮かべた。
「折原に、僕たちのことは話したんだね」
「隠しておくようなことじゃないもの。それとも、やっぱり一番の友人には自分の口から話しておきたかったのかしら?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 それにしても――と僕は思う。
 僕は、目の前に座るこの美しい女の

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【小町がいたこと】Episode㉕ クールに恋をしていた

 終業式の日、実に三週間ぶりに教室へ入ったとき、僕に浴びせられたのは名状しがたい種類の視線だった。クラスメートの誰もが遠巻きに僕を見ているだけで、そこから話しかけくることはなかった。居心地の悪いことになるだろうな、と予想はしていたけれど、実際に身を置くと神経がすり減っていくような気分だった。こういうとき、このクラスで僕にためらいなく話しかけてくるのは、たった一人だけだ。
「一足先の冬休み、楽しんで

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【小町がいたこと】Episode㉔ ロマンの正体

 小町の唇は、僕がこれまでに触れてきたどんなものより柔らかかった。僕は息を止め、思考を止めた。目を閉じて、小町の唇を感じ、記憶に焼き付けようとした。
 やがて、小町が僕から離れていった。僕たちが唇を重ねていた時間は十秒となかったはずなのに、彼女の感触が遠ざかったことで、僕はずっと手にしていた大切なものを手放してしまったかのような、とても心許ない気持ちになった。
「伊勢君」
 小町が、改まった様子で

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【小町がいたこと】Episode㉓ 小町がいた

「僕は君に恨まれていたんだね」
 右手の甲で目を覆いながら、僕はどうにかそう返すことができた。
「ポーランドに発つ前の日、伊勢君は私の意思を無視して家までおしかけてきたわね」
「そんなこともあったかもしれない」
 そうやってとぼけてみても、小町は特に反応を示さずに淡々と続けた。
「だから今日は、私を拒否し続ける伊勢君の前にこうして無理やり来てあげたわ」
 僕は観念して目元から手を退けた。そしてのろ

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【小町がいたこと】Episode㉒ 闇を暴くは

 停学処分から三日目、四日目と、僕は暗い部屋の中で息をひそめるようにしてすごしていた。部屋から出るのは、食事のとき、トイレに向かうとき、シャワーを浴びるとき、そして毎日律儀にやってくる担任教師との面会に応じるときだけだった。
 担任教師がリビングにいる光景に、僕は少しずつ慣れ始めていた。相変わらずコートを預かる一声はかけられないでいたけれど、代わりにコーヒーを出すようになった。僕がテーブルに湯気を

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【小町がいたこと】 Episode㉑ 苛むもの

 ベッドの上で、僕は目を瞑って横たわっていた。眠気を手繰り寄せるためではない。けれど、むしろこのまま眠ってしまえればどれだけいいだろう、と思う。
 目を開けると、明かりのついていない部屋を、わずかに開いたカーテンから漏れている橙色の日差しが滲ませている。右手を掲げてみると、手の甲のいくつかの擦り傷はまだしっかりと残っていた。
 その傷を目にする度に、僕は深い自己嫌悪に陥る。『許されない行為』に出て

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【小町がいたこと】 Episode⑳ 焦熱

 僕と小町が付き合っているのではないかという噂が囁かれるようになってからというもの、好奇の目と中途半端に潜められて聞こえてくる声が煩わしかった。けれど、そのことで誰かに表立って揶揄されるような事態もなく、僕の懸念をよそに、日々はどうにか穏やかに過ぎていった。日毎に風は鋭くなり、雲は重くなっていき、木々は徐々にその梢を晒していった。冬の訪れを感じながら、僕はどうかこのままなにごともなく二学期を終えら

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【小町がいたこと】 Episode⑲ 強さ

 中間テストが明けた十一月の最初の日曜日、僕は小町を誘った。そのとき、イレギュラーな事態が起こった。
 冬物の服を見るために様々なショップを歩き渡っていたその様子を、同じクラスの女子に目撃されてしまったのだ。
 僕と小町が一緒にいる所に立ち会った彼女は、なにか信じられないものを見たかのようにぽかんと口を開けていた。次の日には、僕と小町が一緒に歩いていたという噂は不特定多数のクラスメートが知るところ

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【小町がいたこと】 Episode⑱ 八月三十六日のデート

 土曜日。予定時刻ぴったりに待ち合わせ場所へやって来た小町は、襟がついた半袖の黒いワンピースを着ていた。膨らみの抑えられた膝丈までのデザインで、右の肩にかけている小ぶりなショルダーバッグは白いレザーのものだった。
 彼女が歩くと、ワンピースに浅く入ったスリットから眩しいくらいに白い太ももの側面がちらりと覗いた。足元はヒールの高いミュールを履いているせいで、僕とほとんど背が並ぶ形となっている。
 僕

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【小町がいたこと】 Episode⑰ 弱さ

 僕の夏休みは、小町の安否を気遣い、小町とお互いの気持ちを断片的に伝え合い、小町が負った心の傷が少しでも早く癒えるよう祈っているうちに過ぎ去ってしまった。そうしてすごした四十日が長かったのか短かったのか、僕にはよくわからない。
 そして始業式である今日、本来であれば放課後に折原も含めた三人で再び集まるはずだった。けれど、それは叶わなかった。小町が、風邪を引いて欠席してしまったからだ。
 最初に彼女

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【小町がいたこと】 Episode⑯ 信頼と好意

小町が眠ってしまってからも、僕はしばらくベッドから動けずにいた。繋がれていた手をゆっくりと離して、彼女に背を向ける形で座る。僕の目はすっかり暗さに慣れて、今では暗色に染まった寝室の全容のほとんどを把握することができた。
 寝室の隅に、小さな化粧台が置いてあるのが見える。僕は、一ヶ月前にポーランドへ発つ前の小町がそこに向かい合っている姿を想像した。そして、言葉では言い表せない寂しさを覚えた。
 彼女

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