【短編】月夜の代償


 言葉にするには、あまりにも痛すぎる心がある。

 この胸の奥底に、笑顔の裏側に。
 目を背けて、きつく蓋をして、なかったことにしてしまいたい感情がある。

 それを直視してしまうことは、
 誰にでも見える形を与えてしまうことは、

 怖くて、痛くて、恐ろしくて。

 だから手を触れずに、目を向けずに、
 ずっとずっと、見通しの効かない湖の底に溶かしておきたい。

 そんな脆くて、汚くて、疎ましい部分に、言葉という輪郭で縁取ってしまうことを――


 誰だって、それを無意識に恐れてる。


「自分の最期を選べるなら、どういう死に方をしたい?」

 彼女の脈絡のない問いかけは、いつものことだった。
 いちいち驚いていたら埒が明かないから、私は彼女の突飛さにもう慣れてしまっていた。
 だから私は、あの問いかけに特に何も考えずに答えることができたのだろう。

「そうだな…苦しまずに、スッと死ねればいいよね」

 何気なく、私はそう答えた。
 すると向かいで文庫本に目を落としていた彼女は、私の答えを聞き終えるなりふと視線を上げ、長い睫毛の下の物憂げな瞳で、私の両の目を捉えた。
 その半ば呆れたように、口元に苦笑を浮かべる様子から察するに、私の返答は彼女の期待に沿うものではなかったらしい。
 それとも、彼女は初めから私には何も求めてなどいなかったのだろうか。

 彼女は、その薄い唇を開いて、おもむろに話し始めた。

「私はね、自分の全てを言葉にしたい」

 静かな力を持った台詞が、私と彼女の間に流れる空気を、しんと密度の高いものにする。

「どんなに大切に匿っておきたいような脆くて儚い思い出でも、どんなに目を背けたくなるような汚らしく忌々しい感情でも…私は全てを言葉に変えたい」

 小さな蝋燭の火が静かに揺れるように、彼女は淡々と言葉を紡ぎ続けた。
 私はその危なげな一筋の炎から目が離すことができないように、身じろぎの一つも出来ずに、その声に耳を傾けていた。

「たとえ心が空っぽになって、体が朽ちたとしても…この肉を削ぎ落として、血の最後の一滴までをも言葉に変えて、物語を編めるなら…そんな最期を迎えられるとしたら、本望だわ」

 そう言って、妖しく微笑む彼女に、どうしてか背筋が冷えるような感覚に襲われた。

「相変わらず、ストイックだね」

 茶化すように、私はそう返すしかなかった。
 しかし彼女は、先ほどまでとは打って変わって、その白い顔に平然と柔らかな笑みを湛えた。
 そのあまりの自然さに、私は一瞬のうちに感じた胸騒ぎを、うっかりどこかへ落としてきてしまった。

「あはは。そうなのかも」

 二人の間に横たわる空気は、すっかり寛いだものに変わった。
 和やかな笑いが妖気を溶かして、彼女は先ほどまでと同じように文庫本に視線を戻した。

 どうしてあの瞬間、私は彼女の不穏から目を背けてしまったんだろうか。

 あの時、彼女の問いかけに疑問を抱いてさえいれば、胸騒ぎの正体を確かめようとさえしていれば、私は気づけたはずなのだ。

 彼女の瞳が、私の姿なんかじゃなく、
 ずっとずっと暗い何かを捉えていたことに。


***

「わかなの言葉は、まるで水彩の絵筆のようだね」

 同好会の先輩からこう言われた時、私は心が浮き足立つのを感じた。
 目を奪われるような美しい光景や、忘れられないような儚く煌めく記憶を、紙の上に写しとる。

 私は言葉によってそれを成したかった。

 文が綺麗。情景が浮かぶ。
 人に小説を読まれるごとに、そう言われることが増えてきた。
 いつの日か、私自身もそれを信条とするようになった。美しい文章を綴ることや、脳裏に鮮やかな景色を映し出せるような表現を紡ぎだすこと。蜘蛛の糸を愛おしむように撚るようなその作業は、自分にさえ安らぎを与えてくれた。

 だから、私はこの上なく嬉しかったのだ。
『水彩の絵筆のよう』
 それは私が紙の上でやりたかったことを、この上なく優しく形容してくれるものだった。


 ――そんな風に、ほんの少しだけ浮かれていた私には、彼女との出会いはまさに青天の霹靂だった。

「あなたが石橋わかなさん?」

 すっかり日も沈み切った後のキャンパス内、ガコンと自動販売機から炭酸飲料を落とした直後に、背後からそう声をかけられた。その日の私は、同好会室に遅くまで粘って、しぶとく一人きり執筆をしていた。

「失礼ですが、どなたですか?」

 暗がりの中、自動販売機からのわずかばかりの光に照らされて立つ細身の女は、同い年か少し上くらいに見えた。しかし、知らない顔だったため、少し困惑しながら、警戒するように彼女の頭の先からつま先までを見渡した。
 すると彼女は、少し笑みを作ったようだった。

「ごめんなさい、突然声をかけて。私は英文学科の2年、古沢梢枝(ふるさわこずえ)。あなたの小説を読みました」

 その言葉に、薄闇の中がパッと華やぐような光が、私の前で弾けたように感じた。

「大学祭の時に、漫画文芸同好会で会誌を発行していたでしょう?その中にあった、あなたの『やさしい悪夢』を読ませてもらいました。今日はその感想を伝えたくて」

 古沢梢枝は、一息で滑らかにそう語った。そのそつなく流暢な調子は、彼女の英文学科所属という要素をとても違和感なく裏打ちしているように感じた。
 私の方はといえば、喜びか興奮か、はたまた照れなのかなのかわからないが、体の奥底からかっと熱が上がってくるように感じられた。今しがた手にしたばかりの冷たいコーラをペタペタと触りながら、自分か相手のどちらかが口を開くであろうまでの間を、そわそわと持て余していた。
 梢枝は私の応答を待っている様子で、言葉を続けないようだったので、私は突然のことに動揺を隠せないまま、おどおどとしながら辿々しい返事の口火を切った。

「本当ですか。とても光栄です。あ…こちらこそ申し遅れました。そうです、心理学部2年の石橋わかなです」

 頭の中で、言いたい言葉がとめどなく溢れ出し、何を優先して口にするべきかわからなくっていた。同好会の外の人から、小説に関してこんな風に真っ向から話しかけられるのが初めての経験だったから、私は要領を得ない想いの端々を思いつくまま口にするしかなかったのだ。
 こういうとき、どうしたらいいんだろう。せっかく来てくれたのに、ただ感想をもらうだけもらって終わりでは、少し不躾ではないだろうか。

「あの…せっかくですし、よかったらうちの同好会室でお話ししませんか?簡単なお茶菓子とかもありますし、私以外の会員はみんな帰ってしまって、誰もいませんから…」

 私は特に深く考えずに彼女を同好会室に招くことにした。
 すると彼女は、スマートにその提案に乗ってくれた。

「いいんですか?それじゃあ、ちょっとだけお邪魔しようかな」

 そう言った彼女の品のいい微笑みは、薄暗い秋の宵の中、おぼつかない視界の中でも、私の瞳の中にくっきりと光を灯した。
 その瞬間、私は不意に彼女の背後の、彼女の笑みと同じくらいの強さで光る三日月に目が行った。
 真っ暗な宵闇に突き立てるように煌めく、細く鋭利な月。
 そんな三日月が、どうしてだか、そこから立ち去った後もいやに私の頭の片隅で輝いていたのだった。

 あかあかと電灯が照らし出す同好会室内は、夜の中を抜け出したばかりの私には、しばらくの間目が慣れなかった。
 会員で少しずつ出し合って、作業の合間の休憩用に買いためている菓子を、彼女に差し出す。色気のないもてなしで恥ずかしかったが、そうするより外なかった。

「とても情景がきれいで、鮮やかで、眩しかったです」

 彼女がそう口を開いたとき、私はどうしても口角が緩むのを抑えられなかった。
 何度言われたことでも、自分の文を褒められるのは、くすぐったくて、熱っぽくて、情けないほど嬉しい。
 それでも、謙遜するのが普通の流れであるし、事実拙い部分はまだまだたくさんある。だから私は、間髪入れずに「いやいや…」と否定しようとした。
 しかし、その前に彼女はこう言葉を続けたのだった。

「すこし、目が痛いくらい」

 そう口にした彼女は、先程まっすぐに私に賛辞を贈った時に比べると、心なしか弱弱しい口調だった。そして、長い睫毛に縁どられた目は、私の顔より下、作業机のカレンダーがある辺りをあてもなく眺めているようだった。
 私は、おや、と思った。
 直感に過ぎないが、これは賛辞ではないと感じたのだ。

 行く当てを失った謙遜が、口の中に留まってしばらくの間さまよっていた。
 もしかしたら彼女は、手放しに私にポジティブな感想をくれるわけではないのかもしれない。思い返せば、彼女は『感想を言いたくて』としか言っていないのだから、苦言を呈しに来たとしてもおかしくはない。
 そう思うと、舞い上がっていた自分が途端に恥ずかしくなり、耳のあたりがカッと熱くて痛かった。軽率な自分の感情が恨めしい。
 しかし、彼女ほど、“いい意味”で外面を保つことにそれなりに力を注いでいるような人が、ネガティブな言葉を面と向かって伝えに来るだろうか。大体の人はそんなエネルギーの必要な行動には出ないだろうし、誰かにそこまでさせるほどの力のある言葉をしたためる能力は、自分にはないとも思った。
 己の中でひたすらに逡巡していると、彼女はまた何かを振りほどくようにパッと顔を上げて、私の瞳を温かく見つめた。

「だから、書いてくれてありがとうと伝えに来ました。何気なく手に取った会誌でしたが、いい出会いがあるものですね」

 彼女は何でもないように、当然のようにそんなストレートな誉め言葉を吐いた。私はそれまで一度凹んでいたので、拍子抜けしてしまった。
 むずがゆいような嬉しさを全身に感じながら、はたと思い至った。
 素人が作っているような同人誌を、何気なく手に取るもの好きなんて、そんなにいるものではない。それも小説なら尚更。

「もしかして、古沢さんも何か書かれるんですか」
「え?」

 梢枝は驚いたように一瞬表情を止めた。
 私は、梢枝が会誌を手に取ったのは、自身も創作活動に興味がある人間だからではないかと考えたのだ。
 彼女は、ほんの数秒程度、視線をさまよわせて考えるようなそぶりを見せた後、苦笑いを浮かべながら口を開いた。

「ご明察です。あまり人と交流するのが得意ではないので、どこかに所属したりはしていませんが…ネット上に小説を投稿しているんです」

 気恥ずかしそうにそう述べる彼女に、私は一気に心の距離が縮まるように感じた。

「読みたいです。読ませてもらえませんか?」

 純粋に興味が湧いた。彼女の人柄や、どんな文章、どんなシナリオを書くのか。気になったら、とてもわくわくしてきたのだ。
 彼女は、少し戸惑ったようだった。しかし、意を決したように承諾してくれた。

「自分がいる場所で読まれるのははずかしいから、あとでリンクを送らせてもらいます。ありがとうございます」

 彼女はとても繊細に丁寧に礼を言い、連絡先を交換してくれた。

 辺りは真っ暗で、部屋の中だけが隔絶されたように煌々と明るかった。それはまるで、スポットライトの中にぽっかりと浮かんでいるようなシーンとして、この彼女との邂逅は後々何度も再生される記憶になるのだった。

 彼女を部屋から見送った後、自分も同好会室を片付け、大学からほど近い一人暮らしの自宅へと帰った。
 私は、古沢梢枝という女の、あの柔らかな物腰と、どこにも引っかからないような滑らかな人柄にとても惹かれていた。そして、何一つ世の中から浮いた様子がなく、むしろ完璧に自分の社会的な足元を確立しているような彼女が、空想の世界に何を求めているのか、非常に興味深く思ったのだ。
 家事や寝支度を済ませていく中、ああでもないこうでもないと、頭の中で色見本帳をとっかえひっかえしながら、彼女の”色”をぼんやりと考えていた。いよいよ種々の準備を整えて、液晶画面と向き合う。

 彼女の姿を脳裡に投影する。穏やかで、水のように清らかで整ったイメージを思い浮かべながら、私は活字の並びを目で追い始めた。

 しかし、それは大間違いだった。私はすぐさま、語る言葉の全てを失うことになる。

 この世の中には、言葉にするのはあまりにも痛すぎる心がある。

 彼女はそんな心を、全て描ききってしまっていた。

 差別や憎しみや嫉妬。そんな入れ物では足りないようなおどろおどろしい感情の数々。
 貼り付けた皮膚の下で、つくろった笑顔の下で、確かに私は、これを感じたことがある。

 目を背け、逃げ出したいような事実を、一つ一つ暴くように目の前に突き出す。
 宛ら彼女の言葉は証拠を突きつける刑事で、私は自分の罪から逃げ回る殺人鬼だった。

 いや違う、そんな無骨な形容では足りようがない。

 無機質な活字の向こうに、彼女の背後に見た、鋭く闇を切り裂く三日月がフラッシュバックする。

 そうだ、彼女の言葉は、ナイフのようだ。あの月を研いで作った、冷たく静かに輝く光の刃。

 私は今、外側から鍵を閉められた部屋で、彼女のナイフと対峙させられている。
 その鋭利な切っ先が月光に照らされて、私は固唾を飲む。恐ろしくて、逃げたくてたまらない。
 それなのに、私はその刃から目を離すことが出来ない。
 当然だ。だってそれは、静謐な光を研磨して作っているのだから。

 気が付くと私は、息をするのも忘れていた。
 圧倒的な洞察力だった。彼女は人間の全てを見ている。
 あの澄ました笑みの下で、彼女は確実に、相対するすべての人間を明らかにしている。

 ぞっとした。

 その日の私は、完全に文を書くことに打ちのめされてしまった気持ちや、突きつけられた秘め事に憔悴しきってしまって、とても彼女に感想を送ることは出来なかった。

 しかし、私はあの夜、確実に彼女の虜になった。

 ぐったりと重い身体を投げ出して瞼を閉じれば、暗い部屋の中で、冷たい月明かりに照らし出された彼女の姿が浮かんだ。
 それは私が本当に見た光景だっただろうか。
 そうだとしても、そうじゃないとしても、それ以上に彼女に似合う箱は、きっとほかにない。

 これが、十年来続いた、私と古沢梢枝の出会いであった。

 彼女の言葉は、決して暴力的じゃなかった。ストレートに人を罵るような、そんな汚い言葉は頑として使わなかった。
 あくまで整って、清らかで、朝霧のように澄んでいた。
 安直で適当な言葉も使わなかった。
 刃こぼれしたなまくらのナイフじゃ、なにも切れないから。
 極限まで磨き上げるからこそ、彼女の言葉は、心の深いところを容易に突き刺す。

 私は梢枝のことを、とんだサディストだと思った。
 誰かの胸の大切な部分を傷つけることを楽しんでいなきゃ、あんな文章書こうと思わないだろう。
 それに、誰よりも強い心を持っていなければ、あんな言葉を紡ぎ続けることに耐えられるはずがなかった。
 自分の中の柔らかい部分を必死に踏みつけて、切り刻んで、中身を明らかにする。
 彼女がやっていることはそう言うことだ。

 古沢梢枝は、とんでもなく強く美しい人間だった。


 やがて彼女は、プロの小説家になった。

 当然だと思った。彼女ほどの才能が、埋もれていいはずがない。
 一度は彼女に打ちのめされた私ではあったが、同時に一番のファンであるとも思っていた。
 だから彼女が賞を取ったりして、どんどん売れていくのを見るのは、純粋に誇らしかった。

 私の方は私の方で、趣味で小説を書き続けていた。でも、あくまで趣味だ。
 ただ心が動く出来事やシーンを書き起こす。自分の心を満たすだけの執筆は、純粋に私にとっての救いだった。

「初めてわかなの文章を読んだ時、羨ましくてたまらなかった」

 私たちは、大学を卒業してからもしばしば会ってお茶をしていた。
 これはそのうちのどこかの逢瀬で、コーヒーを飲みながら彼女がぼそりと呟いた言葉だった。

「え?」

 思いもよらない言葉に、ただそう訊き返すことしかできなかった。
 羨ましい?彼女ほどの人が?

「どんな風に生きたら、世界がこんなに眩しく見えるんだろうって。どうしてそんな世界を信じることが出来るんだろうって」

 彼女は、テーブルの端に置かれた水の入ったコップの水滴を見つめていた。
 私は完全に虚を衝かれて、彼女がどんな気持ちでそんなことを言うのか、理解できなかった。
 その日私は、彼女になんと返したのだろうか。

 こんな風に、私たちは、会えばいろんな話をしてきた。
 今の仕事の話、愚痴、恋愛相談。もしくは、ずっと昔の遠い思い出や、全くの作り話まで。
 飽くことなく、ただひたすらに互いの琴線に触れ、奏で合う会話は、とても楽しかった。それが事実だとしても、作り話だとしても。

 だから、ぎょっとするような一言に出会うこともあった。

「私は人を殺したことがあるのよ」

 梢枝の一言に、時間が一瞬にして凍り付いたように感じた。あまりにも物騒なその台詞が、カフェにいる他の客や、店員に拾われたりしていないだろうかと、不安になって私は周りを見回した。
きっと作り話だろうが、だからこそ赤の他人に聞かせるわけにはいかなかった。

「何てこと言うの、梢枝」

 その時ばかりは私も、困ったように苦笑するしかなかった。冗談にも言って良いものと悪いものがあるだろうに。

「私の父は、不倫をしていたの。父はいつも家にいなかったし、母は毎日暗い表情をしていた」

 制するのも聞かずに、梢枝は語り始めた。

「私も小さかったから、寂しくてね。お父さんはどうして帰ってこないのかなって、母にいつも聞いてたわ。母も辛抱強く、私に真実を隠そうとした。お仕事が忙しいのよって、紋切り型の言い訳でね」

 妙にリアルで、生々しい話だと思った。しかし、彼女特有の、生まれ持ったような流暢な話しぶりが、やけにその話の密度を軽やかなものに仕立て上げていた。

「でもね、お互いに無理が来るときがある。私は寂しさに耐えかねて、母は私の子守と孤独に疲れ果てていた。そんな時に私は、駄々っ子のようにこう言ってしまったの。『お父さんはお母さんのことが嫌いになったから、帰ってこないんじゃないの』って…」

 梢枝の話は、真に迫るものがあって、私は聞き入ってしまった。手の中にある紅茶は、カップ越しにわかるほどぬるくなってしまっていた。

「子どもって残酷なものよね。そして、人は簡単に死ぬものだわ。母はひどく傷ついた顔をして、私に何も言わずに立ち去った。その翌日に、母は自殺した」

 私は息を呑んだ。淡々とした語り草から、一気に崖から突き飛ばされるような感覚を味わった。言葉を発することが出来ずに、身じろぎ一つできなかった。
 私は祈るように、心の中で彼女に尋ねていた。でも、作り話なんでしょ?

 梢枝は、じっとコーヒーの黒い水面に視線を落としていた。見ているようで見ていないその瞳の中は、何も映していないような気がした。
 しかし、彼女はふっと視線をあげて、私に向かって微笑んだ。

「冗談よ」

 ほっと、私は緊張から解き放たれたような気がした。何事もなかったかのようにコーヒーをすする彼女に合わせて、私もぬるい紅茶を喉に流し込んだ。

 その後すぐに、彼女はその日私に語ったこととよく似た内容の本を出した。
 取り返しのつかない罪の意識や、幼いが故の残酷さが克明に描かれた、とても心をえぐる物語だった。またしても心奪われる彼女の筆致に、同じ物書きとして悔しいような気持がしつつも、やはり私には尊敬や誇らしさが前に出たのだった。
 それなら、あの日の話は、小説に書く予定のネタを披露しただけだったのだ。そう思って、私はすっかり安心した。

 でも、私はそんな時までも、彼女に本当に母親がいないことを知らなかったのだ。

 問題の作品が出版されてからしばらくして、彼女と連絡が取れなくなった。
 私は心配して、彼女の自宅兼仕事場のマンションを訪ねた。

 何度も何度も呼び鈴を鳴らす。最悪の可能性が頭の中を巡りだし始めると、ベルの一音一音がはやるように、悲鳴をあげているように耳にこだました。

 しかし、何度めか分からないベルの後、いよいよ救急車を呼ぼうかという考えが過った時に、ようやく重いドアを開けて、崩れ落ちるように彼女は姿を現した。

「梢枝…!」

 ぐったりと、憔悴しきった彼女を引きずるようにして、ベッドの上に彼女を寝かせる。
 部屋の中はごみが散乱して、彼女の頬や身体がひどく痩せこけていた。

 力なく体を横たえる彼女を前にしながら、やたらとチカチカとうるさいように、パソコンのディスプレイは白く輝いていた。弱く脈打つ彼女の手首よりも、熱を排出しようと回るファンの方がよっぽどしぶとい命の営みをしているようにさえ感じられた。

 その時になって、ようやく私はわかった。
 彼女が母親を殺したという話は、本当にあった話なのだ。

 実際に梢枝が手を下したわけではない。幼い彼女には責任など何もない。
 けれど、彼女にとってはどうしようもなく、彼女の過ちだったのだ。

 それこそ、何年も何年も目を背け続けたほど。

 それを直視してしまったから、言葉にしてしまったから、
 彼女はこんなにも削れてしまったのだ。

 今にも崩れてしまいそうな彼女の手をキュッと握りながら、私は土のような色をした彼女の顔を見つめた。

 彼女は決して強い人間ではなかったのだ。

 全てを直視すること、そしてそれに耐えうるほどの精神力などない。その痛みがわかるからこそ、彼女はあんなにも物悲しいシナリオを描けるのだ。

 汚いものが見えてしょうがないから、美しいものだけを描く私の文章が、羨ましいのだ。
 強くなんかないから、こんなに彼女はこそげ落ちてしまうのだ。そして、そうまでして言葉を紡がないといけないのだ。

「梢枝…このままじゃあなたが消えちゃうよ」

 彼女のあいまいな体温に少しでも熱が戻るように、私は両手でしっかりと彼女の手を包み込んで、彼女の隣で長い時間看病した。


 ――いくらかの時間が過ぎて、彼女はちゃんと回復した。
 食事もきちんととって、執筆も再開した。

 以前のように私をお茶に誘うことも増え、彼女が健康な笑顔を浮かべて会話をしている姿に、胸をなでおろした。

 倒れていた彼女を看病したお礼にと、久しぶりに彼女の自宅で夕食を振舞うと言われて、私は喜び勇んでお邪魔した。

 訪れた彼女の部屋は、あの日のようにごみが山になっているようなこともなく、整然と片付いていた。
 薬袋がキッチンの端に置かれているのが気になったが、あれから健康に気を使うようになり、医者にかかったらいろいろもらったのだそうだ。
 生きる気力が戻ってくれたようで、私は本当に安心した。

 強く美しい彼女が戻ってきてくれた。私が好きな、美しい梢枝が。

 ――思えば、私は笑ってしまうほど本当に愚かだった。
 美しいものが描きたいばかりに、私は美しいものしか見ようとしなかったのだ。

『自分の最期を選べるなら、どういう死に方をしたい?』

 食後のくつろいだひと時に、本を読みながらそう問いかけた彼女の目は、本当に私を見ていただろうか。
 思えばあの時に、彼女は既に悪魔との取引を終えていたのだ。
 そうでなければ、あんなおかしなことを、急に尋ねたりしないだろう。

 梢枝のもてなしの数日後、私はまた彼女にメールを送った。
 しかし、返事が返ってくることはなかった。

 何か得体のしれないもので復路を遮断されているかのように、梢枝との言葉の見通しが失われる。目の前に不可思議な暗雲が立ち込めると、私の耳の中に、彼女の言葉が不意によみがえった。

『たとえ心が空っぽになって、体が朽ちたとしても…この肉を削ぎ落として、血の最後の一滴までをも言葉に変えて、物語を編めるなら…そんな最期を迎えられるとしたら、本望だわ』

 胸騒ぎがした。

 全てを放り投げて、私は夢中で彼女の部屋へと再び足を向けた。

 『強く美しい彼女が戻ってきてくれた』? 
 いいや、違う。

 耐えられるわけなどない。言葉を紡ぐために、身を削るような行為に、延々と耐えられるはずなどなかった。けれどそれを止められるほど、彼女は正気ではなかった。
 
 それを私は知っていたはずなのに――

 たどり着いた彼女の部屋は、鍵が閉まっていなかった。
 人の気配がしない部屋は、しんと時が止まったように静まり返って、だからこそパソコンの唸るような音が、やけに鮮明に耳に届いた。

 彼女はベッドで横になっていた。
 眠っているというには、その肉体は余りにも冷たかった。
 ゴミ箱には、まるっきり抜け殻になった薬のシートが入っていた。

「梢枝…」

 絶望的な気持ちで、彼女に触れることが出来ないまま、スクリーンセイバーを動かして、ディスプレイに白い光をともした。

「ああ…」

 それはおそらく、彼女が書いた完成した原稿だった。
 声にならない声が、喉をすり抜けるように零れ落ちる。

 読めばわかる。ナイフのように鋭い彼女の言葉。
 極限まで研いだ美しい月の刃が、とうとう彼女自身に突き立てられてしまったのだ。

 だから言ったのに。

 頭の中が真っ白になって、ただ延々とそんな意味のない言葉がこだましていた。

 私は、目を背け続けた。美しくないもの、暗いものから目を逸らし続けた。だから彼女がこんなになるまで気付かなかった。気付こうとしなかった。

 そして彼女は決して目を背けなかった。すべてを直視したがために、こんなに全てを使い果たしてしまった。

 これは一体、どんな皮肉だろうか。

 どうしようもない後悔と、救いようのない狂気。
 戻れるものなら、止めたかった。彼女が隣で笑っている未来をもう一度手にしたかった。

 それでも、私はこの光景を見て、心底納得してしまった。

 時の止まった部屋に、抜け殻になった彼女の肉体と、対照的に煌々と輝くディスプレイ。

 梢枝は、望み通り、

 彼女の全てを言葉にしたのだ。


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