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断片自由に


誠意
 足りないものを探すのも窮屈な今日である。満ち足りた気持ちで朝を迎えれば、昨日の夜が悲鳴を上げる。足りないものは畢竟、自他への誠意。それだけであるのだろうと。

自他
 自分を他人から切り取ってやっと、人間と言うのは臆病になる。臆病な現代人は個人の権利を主張するその反面、それを誰かに不意に取り上げられたいと渇望している。いわれのない罪を甘んじて受け入れるその準備を、着々と進めているのである。酒を飲ませればそれがわかる。

飲酒
 酒の味はよく知らない。法律で制限されているから。しかし結局は、自分が自分で制限しているから。天秤にかけ、よく知らないその味を選択しないことを決定してきたのだ。これも一種の未知への恐怖であるに違いない。或いは、他者の観察からくる摂生か。

未知
 遭遇したい。退屈な日々から抜け出す、その為だけに馬鹿になりたい。そう願う自分がどこかにいる。すでに馬鹿だと嘲る自分もどこかにいる。どちらも馬鹿だと知っている自分が此処にいる。未知はそこら中に転がっている。けれども拾い上げる手間が随分と億劫である。やはり自分は馬鹿である。

鹿
 奈良に行くと鹿に会える、と言うが別段奈良に行かずとも鹿はいる。ただ賢い鹿と言うのは見たことが無いから一度見てみたいと思っている。賢いと思っている鹿は多く居るが。

奈良
 廃墟にならないうちに懐古主義が台頭してひとまず安心しているのが現代史学である。そこから学ぶことを忘れてはあっという間に、廃墟である。

懐古
 過去だけが嘘をつく。このこと自体が嘘である。と言う人もいる。誰か一人は本当を述べている。さてさて、どこからが真実か。


 世界人口の半分からの嘘は容易に許せる。だが、大人のつく嘘は決して許さない。と嘘をついてみる。笑顔で言えば、自分を自分で騙せるでしょう。誤魔化せるでしょう。

本当の自分
 自分を中心に置き、方々から眺めてみれば、なるほど何処かしらに本物がいるようである。ただ、自分を内から眺めてみれば、誰も彼も本物に見える。世界との狭間で、必死に生きている。

小林秀雄先生について
 あったこともない。手紙を送ったこともない。文章を読んだことがある。偉い人だと批評されるのを聞いたことがある。偉くない人がいるのかは知らないが、知への向き合い方は見習うべきものがあると思う。他人を食ったような書き方をする私では足元にも及ぶまい。そのことに物足りなさを覚えるから今は書いている。



小林秀雄「断片十二」に敬意と甘えをもって。

雪屋双喜 2023.5.18

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