「詩」について
「感想」より「詩」について
「詩」に共感しろ、と言うのは土台無理な話であるように思います。詩は手を動かして成るもので、脳で考えて書くものではないですから。詩は小説とは違い、脳が手に直接に働きかけ、手が脳に直接の感覚を共有するものです。だから、詩は特別な人のみが描くものではありませんし、小説を書く時ほど思想を強く意識せずとも詩は簡単に描けます。詩が詩であるというのは単に、詩が描かれたものであるということだからです。しかし、だからこそ人は詩を描き、鑑賞し、肉体的感覚として楽しみ、また自身も詠うのです。
詩は共有の形式ではないと私は考えます。これは単に言葉の定義の問題ですから「詩」と呼ぶものが人によって異なっていても、それはそれで影響し合うような性質のものではないでしょう。少し話が曖昧に進んでいるようですから私にとっての「詩」をもう少し話しておこうかと思います。 「詩」と私たちが呼ぶのは「小説ではないもの」です。もちろん小説を詩の一種と捉える方がいるのは知っていますし、素敵な考え方だと思います。しかし、小説が読まれることを前提として物語の形式を持つのに対し、詩は個人の経験や感覚をあくまで個人的に描き出したものです。詩は誰かに明確なメッセージを向ける物でもないですし、長く遺ることを想って描くものでもないでしょう。美しく着飾る必要も「ありのまま」を描く必要も、ともにない物です。 このようなことを述べていますと、詩はもっと自由なもので、定義や形式に囚われるべきではない、と反対されるかもしれません。現代詩的な自由詩はそうした自由への活力とも呼べるものに満ちているように感じます。しかしやはり、私には自由詩という名を得たうえで描く詩が、むしろ自由詩以外の何かになりえない、つまり詩の可能性とでも言いましょうか、詩を自由たらしめていたはずの未定義の曖昧さと個人主義的な私的文学の独善性とが損なわれているような気がしてならないのです。他者の目にさらされることを前提とした創作は詩に限らずかつての純粋な美の探求を失っていきます。我々が詩で描くもの、また詩に見たものは、果たして何であったのか。それを共有しようとする現代詩の現代的在り方を、私は批判するものであります。現代が孤独からの脱却を目指しつつあるのなら、詩はそれを手助けすべきでない。人間的な営みを詩の世界へ持ち込んでしまえば、それは肉体的な感覚よりも精神的な共感によるものに縋ってしまう。
詩とは、と問われて現在の私が思うことは以上のようなものです。詩の世界を現実に擦り合わせて表現を妥協したそれは、詩ではなく小説と呼ばれるべきだと考えるのです。
雪屋双喜
「感想」より「詩」について