頑張って可愛くなったのに、雨とマスクが気力を吸い取った。
朝、偶然はやく目が覚めたので洋服を買い物に行こうと思った。明日でもよかったし、仕事終わりでもよかったけれど、今日いってしまった方がうまくいくような気がした。
起き抜けの顔を洗って丁寧に化粧水と乳液を肌に塗り込む。馴染むのを待つ間に服を決めた。数年前に買った紺色のワンピース。まだ着れると思ってクローゼットにしまってあるけれど、丈が短くて流行遅れかもしれなかった。
最近は丈の長いスカートが流行っている。それも好きだけど、このワンピースも好き。あと、おしゃれに疎すぎて未だにミモレ丈がどれくらいの長さなのか知らない。
目が大きくなると聞いて使いはじめたカラーコンタクトを入れて、休日用のちょっといい下地とファンデーションを塗って、色とりどりのパレットから色を掬ってまぶたにのせる。休日のお出かけメイクはわくわくする。誰に見せるでもないけれど、少しでも可愛い私が鏡やガラスにうつるといい。
仕事の日は10分足らずで終わらせるメイクに1時間かけた。まつ毛をビューラーで上げて買ったばかりのボルドーのマスカラを塗る。思ったより黒っぽかったけれど、いい感じ。チークもハイライトもシェーディングも丁寧に重ねていく。ピンクのリップはそれだけで可愛い女の子を演出してくれる気がした。
雨の日なのに髪を巻いた。お気に入りの鞄に荷物を詰めて、思い出す。
マスクしなきゃ。
買い溜めているマスクを手にとってから、私はベッドに座り込んだ。あんなにもうきうきしていたのに、私の右手から出かける気力が音を立てて吸い取られていく。昨日充電したばかりのBluetoothのイヤホンを充電しなきゃいけないと言い訳して、私は30分ほどベッドでスマホをいじっていた。
せっかく可愛くしたのに、マスクをしたら顔の半分以上が隠れてしまう。きれいに発色したチークも、可愛い女の子にしてくれるリップも、きれいにのせたファンデーションも全部隠れてしまうし、崩れてしまう。
ひとりで街に出たところで、私のことなんか誰もみていない。メイクがうまくいったからって、アイドルみたいに可愛くなれたわけじゃない。それでも、マスクをしなければならないという気持ちが、私のうきうきした気持ちをかき消していく。
雨だし、髪もふくらんじゃうじゃん。
お出かけに後ろ向きになった私を雨がさらに追い詰める。ストッキングは濡れちゃうし、せっかく巻いた髪も戻っちゃうし、濡れるし。準備をはじめる前からわかっていたことなのに、嫌な気持ちが増えていった。
感染症が流行っているからマスクをしなきゃいけない。雨だから濡れるのはしょうがない。そういう私個人ではどうにもできないことのために自分の気持ちを諦めるとき、確実に私の気持ちは削られている。どうしようもないからと諦めて、自分を納得させるけれど納得できない私が心の端っこで喚いている。
感染症の影響で外に出るためにマスクをするのが当たり前になった。以前は営業先ではマスクを外すのがマナーだったのに、今やマスクをするのがマナーになっている。よくわからない理由で守らされていたマナーとやらも、感染症予防の前には無力だ。
結局、私はおとなしくマスクをして出かけた。湿度の高い空気が肌にまとわりつく。口元もまたひどい湿気で、エレベーターに乗る前にすでに憂鬱だ。ため息が溢れても外には逃げてくれなくて、もう一度憂鬱を吸い込んだ。
電車に乗って街に出る。周囲のみんなマスクをしている。目元だけのひとたち。社用携帯のiPhoneのFace IDは開かない。iPhone8の私用携帯は指紋認証だからすんなり開いた。流行りに遅れた私が「ほらみろ」と笑っている。
人でいっぱいの百貨店もショッピングビルも、消毒液とマスクでなんとかなるんだろうか。下着のフィッティングは自分でやるしかない。コスメのテスターは使えない。しょうがない、だって感染症予防だもん。第二波が来ないように諦めるしかないのだ。
ショッピングは楽しかったし、心は満たされた。薄いビニールで仕切られたレジカウンターもソーシャルディスタンスを守る接客も、それほど影響はない。素敵なスカートとブラウスを買って、可愛い下着も手に入れた。問題は何もないのに、満たされた心と紙袋を持って家に帰って、マスクを外してからため息をつく。
朝、あんなにもきれいに頑張ったメイクはマスクのせいでどろどろになっていた。白いマスクの裏にべったりとついたファンデーション。流行遅れのワンピースを脱ぎ捨てて、メイクを落とした。憂鬱も一緒に排水溝へと流してしまいたかった。
仕事の日にマスクをしても苦ではなくなった。暑いし息苦しいけれど、しょうがないと思って納得できる。休みの日にスーパーへ買い物へ行く程度なら、気にもならない。なのにきれいに整えた私が、嫌だ嫌だと駄々をこねる。
私だって大人なので、気持ちのままに行動して人に迷惑をかけてはいけないと思っている。実際、ちゃんとマスクをして出かけた。
ただ、どこかで何かがすり減っていくような気がする。私を女の子にしてくれるリップは私でさえ目にすることがなかった。
「しょうがない」が私をすり減らす。でも、しょうがないからすり減って明日もしょうがないまま生きていく。