#7 愛と現代西洋社会におけるその崩壊
西洋社会を客観的に見てみれば、兄弟愛・母性愛・異性愛問わず、愛というものが比較的まれにしか見られず、さまざまな形の偽りの愛によって取って代わられていることはあきらかだ。そうした偽りの愛こそ、じつは愛の崩壊のあらわれなのである。
エーリッヒ・フロム著の「愛するということ」を絵で描いてみた・#6「愛する力と対象について」では、愛する能力の基本的なスタンスと、理想的な愛の形についてまとめました。今回は、現実にスポットライトを当て、現代の資本主義社会に生きる人間がどのような(本当は崩壊している)愛を営んでいるのかについてまとめていきます。
現代資本主義社会に生きる人間が抱えている問題
資本主義社会で求められる人物像とは、無理強いせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分自身の目的がなくとも、「実行せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見てすすめ」といった命令に黙々としたがって働くような人間。
資本主義によって人生の最大の目標が、「自分の技能・知力・パッケージをできるだけ高い値段で売ること」になってしまった
しかし、機械的な仕事をこなすだけでは孤独感を克服できないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。人生にはもはや、前進する以外に目標はなく、消費以外では満足できない。
今日の人間の幸福=楽しい(なんでも手に入れ、消費すること」
現代人は、オルダス・ハックスリーが『すばらしき新世界』で描いているような人間像に近い。うまいものをたっぷり食べ、綺麗な服をきて、性的にも満ち足りているが、自分というものがなく、他人ともきわめて表面的なふれあいしかない。
今や、私たちの性格は、交換と消費に適応している。物質的なものだけなく、精神的なものまでもが、交換と消費の対象になっている。
「楽しい」現代の恋愛
必然的に、愛をめぐる状況も現代人の社会的性格に影響を受け、自分の価値に見合う最大限の相手と付き合い・結婚するようになった。
だからこそ、現代には病んだ恋愛が蔓延する。
具体的にはこのような例が見られる。
「楽しい愛」の限界
なぜ、双方に好ましくない結果しかもたらさないかといえば、ほとんどの人の対立が、実は、真の対立を避けようとする企てに過ぎないからである。
もともと解決などありえないような些細な表面的なことがらで仲違いにしているにすぎないのだ。二人の人間の間に起きる真の対立、すなわち、何かを隠蔽したり、投射したりするものではなく、ない現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。
本来、愛とは2人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意思を通じ合うとき、はじめて愛が生まれる。
「楽しい状態を保ち続けること」が愛するということではない。
常に愛は安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さが実ることが愛である。
内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知と能力を得る。
「神の概念」も変化
宗教が自己暗示や精神療法と組んで、成功のための信仰に変化した。神への信仰や祈りは成功のための能力を高めるものとして現代では推奨される。
愛と正義と真実において、神と一つになりなさいということではなく、神とビジネスパートナーになりなさいというニュアンスになってしまった
まとめてて思いましたけど、前回の理想の愛とは程遠い現実ですね...。
これまで、「愛の技術」の理論的側面について論じてきましたが、次回は最後の章「愛の技術の修練(愛する技術を体得するということ)」についてまとめます!
次のnote:#8 「愛の修練」
索引
(まとめ)『愛するということ』を絵で描いてみた
第一章 『愛は技術か』
#1「愛は技術か」
第二章 『愛の理論』
#2「人の愛について」
#3「孤独の克服歴史」
#4「愛の定義」
#5「愛の成熟プロセス」
#6「愛する力と対象について」
第三章 『愛と現代西洋社会におけるその崩壊』
#7「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」(現在のnote)
第四章 『愛の修練』
#8「愛の修練」
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