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滲む ⑩【短編】

 わたしはその人のことを、先生と呼んだ。先生はわたしを橋本と呼んだ。
 先生は高校二年生から国語の担当教諭になった。わたしは二年生に進級した最初の授業で先生と話したときから先生のことが好きになった。

 先生は細身でやや背が高く、影が薄い人だった。存在感が薄いという意味ではなく、地面や床に引きずる影自体が、わたしには薄く見えた。
 顔はどうだろう。少なくとも誰もが振り返るような男前ではなかった。でも何人かの女子生徒からは人気があった。理由はわからない。
 漢字を暗記しろとか、代名詞が何を指しているのかといったごく当たり前の国語の授業だけではなく、雑談を通じて生徒を物語の中に誘導して、生徒自身にいろんなことを考えさせ、想像させて皆で語り合うという、一風変わった授業をしていた。いま思えば、こんな授業じゃ試験でいい点数がとれないと文句をいう保護者もいたかもしれない。

 わたしは中学生になってからよく本を読むようになった。子供の頃から本を読むことは嫌いではなかったし、母はわたしが勉強をしなくても本を読んでいる分にはわたしを𠮟りつけたりはしなかった。勉強が出来なくても本を読む習慣があればそれでよいとかんがえている節さえあった。
 幼稚園児だったころは絵本や図鑑。小学生になって伝記に児童文学。そして小学生でも高学年になってからは平家物語や今昔物語といった古典を子供向けに訳したもの。それから友人達が回し読みしていたライトノベル。そして中学生になってからは夏目漱石に芥川龍之介といった古典文学。月並みだけれど、そんな風に読書体験を積み重ねてきた。紙の匂いやザラっとした手触りや、すべすべした手触りだったり、ページをめくるときに紙がしなる感触だったり、ハードカバーの拍子を指で叩いたときの音だったりと、そんな本にまつわるいろいろな感触が好きだった。
 そんなわたしが、高校生になってから夢中になったのが太宰治だった。とくに『斜陽』を繰り返し読んだ。『斜陽』のどこにそれほど惹かれたのか。いままでのわたしの人生には縁がなかった退廃的な美や、旧来の倫理感に反する登場人物の造形と描写に惹かれたのだろうか。気持ち良い布団の中から出る気になれずぐずぐずしていると、部屋の中にいきなり飛び込んできた誰かにカーテンと窓を乱暴に開けられて、いきなり部屋に差し込んできた強い日差しに目が眩んで、吹き込んできた風がわたしの顔を撫でて髪の毛を揺らしているというような、急に目の前の景色が変わったような気分になった。
 昼休みに友人達と離れて自分の机で本を読んでいたら、「橋本、おまえ太宰なんか読んでいるのか」と先生がわたしに声を掛けてきた。そして「太宰にはあまり夢中になり過ぎるなよ」と言った。
 「何故ですか」そうわたしが訊ねると、「太宰は自我が出来ていないうちから読んだら毒や」先生はそう答えた。そのときはその言葉の意味がよく分からなかった。
 たしかに太宰はその頃のわたしには毒だったかもしれない。高校生のわたしは自分の弱さを太宰で肯定するようになった。そんな弱さとは、アンモラルな価値観に惹かれていく自分を制御しようとしなくなったことだ。天才だったが故に、自らが持つ矛盾に気付き、そしてそれが許せず自分はクズだと云った太宰。感性が純情な十代の、まだ人格がきちんと形成されていない時期に太宰のアンモラルな一面だけに憧れをもつのは、決していいことではなかったのかもしれない。

 何故先生のことを好きになったのか。それが何故かは分からない。わたしが読書が好きだと知ってからは話しかけられることが増えたからなのか。それに先生からいろんなことを教えてもらうのが楽しかったからだろうか。いままで男子生徒から感じたことが無かった落ち着きや、穏やかさや優しさのせいなのか。先生に恋愛感情では無いけれど好意を抱いている生徒が何人かいると知って、何かを意識し始めたせいなのか。例えばそれは、わたしが先生の一番のお気に入りの生徒になりたいというような、優越感を持ちたかったのか。それとも父性による愛情を知らずに育ったから、年上男性への憧れがあったのか。そんな幼少期に欠けたものを埋めようとしたのか。
 そもそもなぜ好きになったか説明ができる恋なんてあるんだろうか。なぜ好きになったのかを説明できなければいけないのか。その頃のわたしは真剣にそう思った。
 いままで恋という感情を知らなかったわたしだったけれど、いろんな思いが恋に変わりつつあると理解するのにそれほど時間はかからなかった。そしていままでのわたしは恋愛に関しては空っぽの壺のようなものだったから、恋という水をどんどんと飲みこんでいく。そして水はわたしが望む壺の形に姿を変えて、どの程度まで満たせばいいのかの加減も知らずに、溢れんばかりの勢いで水を満たしていく。

 爽やかな男子と自転車に二人乗りして下校するとか、そういう恋愛だってしようと思えばできたはずなのに、そんな恋愛には全く興味が持てなかったわたしが初めて恋をした相手は、この人と一緒になりたいと願ったのは、はるかに年上の、それもよりによって教師だった。
 同級生の男子をみてもなんとも思わず、彼氏ができた友人から惚気話を聞かされても心が揺れることもなく、わたしに気がある男子がいるから仲介したいと友人から言われてもなんの反応も示さなかったわたしが三十五歳のオジサン先生のことを好きになるなんて、もし同級生のみんなが知ったら正気の沙汰では無いと思っただろう。そう思われるだろうことは何となく予想できたから、この思いは誰にも打ち明けなかった。それに三十代の教師が女子高生の恋愛相手として相応しいのかと言えば、相応しくはないどころか、青少年育成条例に違反するケースだってあり得たし、倫理面の問題だってあった。懲戒解雇だってあり得た。
 やがて本気で先生のことが好きだと気づいてからは、からかわれるのが嫌だからなどという理由ではなく、相談相手が欲しいという程度の理由で友人に打ち明けていい話ではなくなったと思った。本当に信用できる友人になら打ち明けても良かったのかもしれない。でもきっと反対されるだろうし、わたしが望むような言葉は返ってこないだろうと思った。

 恋を自覚してふた月も経つ頃には先生に欲情するようになった。
 先生のことを想像すると、胸の鼓動が高まり、顔が赤くなり、身体が火照って熱くなることがあった。先生の髪の毛に触れてみたい。耳たぶに、鼻の頭に触れてみたい。頬を、それから髭の剃り跡を撫でてみたい。そして先生の身体がどうなっているのか知りたい。シャツの下に隠れた裸の上半身を、スラックスの下に隠れた下着と、その下に隠されているものが知りたくなった。
 そして自分の身体のことも知りたくなった。鏡の前に立って服を脱ぎ裸になった。鏡に写った自分の姿をじっとみた。決して高いとはいえない身長に華奢な上半身。控えめな乳房。上半身に比べるとすこし肉のついたウェスト。膨らんだ下腹部。細い骨盤周り。そして恥骨の膨らみのあたりに生えている皆より薄い陰毛が、華奢な上半身や小さい乳房とあわせて自分の体つきを幼く見せているような気がした。細いけれど真っ直ぐではない、ややO脚な足。誰かの前で裸になるなんて恥ずかしくてたまらないという感情と、好きな男性にみっともない身体を見せたくないという感情。
 それからあることに興味を抑えきれなくなって、鏡の前に座って恐る恐る脚を広げてみた。そこには一切毛が生えていなくて、剥き出しの女性器が鏡に映っていた。それがみんなのものと同じなのか、わたしだけが違うのか気になって仕方がなかった。なぜなら鏡に写ったそれはとても美しいものだとは思えなかったからだ。
 女性器にそっと触れてみた。ぬるりとした感触を指先に感じて、それもすごく濡れていたから驚いた。みんなもこんなふうになるんだろうか。それともわたしは変なのか。初めてのとき、相手にどう思われるのだろう。
 いつか先生の指がここに触れるのだろうか。何とも言えない奇妙な気分になって、身体が震えた。酒屋の梶原さんと水商売の若い女が溺れている行為の意味が、今頃になってようやく分かったような気がした。

  フロントガラスの上で雨粒が跳ねた。いくつかの雨粒がガラスの上を風に流されていく。
 正午前なのに随分暗いような気がする。左右を山に挟まれているせいで閉じ込められているような感じがするせいもあるんだろう。そんな山間部の道路をこの旧いクルマはもう何時間も快調に走っている。対向車もいない、快適なドライブ。左に見える山の頂には雲が懸かっていて、山が空に飲み込まれているように見える。深い緑色の山々の連なりと目の前に伸びる黒いアスファルト。それから左の方に見える畑の茶色以外、すべて灰色に覆われてしまった世界。
 「もう二時間は走ったから、あと一時間半ぐらいで着くかな」そう言いながら長谷川さんは暖房をつけてくれた。暖かい風が脚に当たって、足元が冷えていたことに気が付いた。
 「長谷川さんのこと、訊いてもいいですか」長谷川さんの顔をみながら訊ねた。
 「いいよ。なんでも訊いてくれていいよ。なんでも答えるよ」長谷川さんが前をみたまま答えた。
 「奥さんとは、どういう風に付き合い始めたんですか」そう言いながら、もっと明るくあっさりと訊いたほうがよかったかもと思った。含みがあるように聞こえてなければいいけれど、と思いながらも、含みがあるんだから仕方がないとも思う。
 「知ってると思うけど、高校の同級生だったんだ。違う大学に進学したんだけれど成人式で再会して、みんなとは別れてそのままふたりで遊びに行ったんだ。俺はスーツで、彼女は振袖のままで」
 「楽しそうですね」
 「親父のクルマで成人式の会場に行っていたから、そのまま京都市内をクルマでぐるぐる走ったんだ」それはそれで楽しそうだなと思った。若い頃の長谷川さんはどんな感じだったのか、気になった。
 「ふたりとも別に行きたいところは無かったんだ。それで結局ファミレスに行って、ご飯食べて別れた。もう連絡来ないだろうなって思った」
 「そしたら何日か経ってから向こうから連絡があったんだ。今度は何処に行こうかっていうから、もしかして彼女はもう俺と付き合ってるつもりなのかなって、驚いた」
 左手に旧い街道のような集落が見えた。もしかしたらもうすぐ福井県なのか。
 「それで、どうしたんですか?」
 「そのまま付き合うことになっちゃったんだ」へぇーっと思わず声に出た。なんだか長谷川さんらしくない気がした。
 「もちろん流されてズルズルという訳じゃないよ。成人式の後で二人きりになったときから女房のことをいいなって思っていたわけで、きちんと付き合いたいとは思っていたんだけれど、でも最初に主導権を獲ったのは女房の方だった」
 「その頃から結婚したいって思っていたんですか」
 「その頃はそんなつもりはなかったよ」
 「いつ結婚したいと思ったんですか?」
 「なんだよ随分食いついてくるなぁ、そんなに面白い話かな」長谷川さんが大きな声で笑った。さも可笑しそうにクスクスと笑い続けている。そんな長谷川さんを見ていたらなんだか嬉しくなると同時に、恥ずかしくもなってきて、そこまで笑わなくてもいいのにと思った。
 「知りたいんですよ」
 「そんなに?俺のこと知りたいの?」何気ない一言だろう。長谷川さんにはなんの他意もない、ただの冗談に違いない。でもわたしには、何て答えればいいのか咄嗟に判断に迷う言葉だった。知りたい。長谷川さんのことが知りたい。店で接客しているときの、お客様としての長谷川さんじゃなくて、もう一つの長谷川さんのことも知りたい。
 「知りたいです。もっと知りたいんですよ」そう言ってから咄嗟に、「大事なお客様ですから」と付け加えた。「だよな」と言いながら、長谷川さんはまだ笑っていた。
 「こんどは真衣ちゃんのことを教えてよ」長谷川さんが言う。わたしも教えたい。わたしのことを、隅から隅まで全部教えたい。知って欲しい。心でも身体でも、わたしのことを知って欲しい。
 「わたしのことはまた今度ですね」そう、そしてまた今度は無い。