ミュージカル「燃ゆる暗闇にて」観劇感想
こんにちは、雪乃です。今日は池袋のサンシャイン劇場にてミュージカル「燃ゆる暗闇にて」を観てきました。
サンシャインシティは仮面ライダー展のときに来たきりなので2年ぶり。サンシャイン劇場に至っては2012年にキャラメルボックスの「アルジャーノンに花束を」を観に行って以来なのでなんと12年ぶり。劇場のことを全然覚えていなかったので池袋駅から来てしまったのですが、東池袋駅を使った方が近いんですよね。次から有楽町線で来ます。
初日からグッズの売り切れがあったというポストがXに流れてきたのですが、今日もランダムアクキーは開場から8分で完売。ランダムブロマイドも開場15分後くらいには完売していたので、アクキーとランブロが欲しい方はマジで早く劇場に行った方が良いです。今日は割と余裕を持って劇場に着いたつもりなのですがかなり並んだので。
本作はスペインの劇作家アントニオ・ブエロ・バリェホの同名戯曲を原作とする韓国ミュージカルの日本初演版。ドン・パブロ盲学校にイグナシオという転校生が来たことで、生徒たちの暮らしが変わっていく過程を繊細に、時に苛烈に描き出すロックミュージカルです。
ミュージカルということで重要なのが音楽。時に原作者バリェホの出身地であるスペインらしいラテンのエッセンスを取り入れながらも現代的で、登場人物たちのヒリつき、焦燥感、不安、希望、怒り、哀しみなどをテンポの良い楽曲で描写しておりどの曲も良かったです。プログラムに作曲を担当したキム・ウニョンさんによる作曲コンセプトが書いてあるのも嬉しい。
本作は盲学校を舞台とする作品なので、学校創設者ドン・パブロの妻であり学校の教師でもあるドニャ・ペピータ以外の登場人物はすべて視覚障害があります。
「見えない」のか「見えていない」のか「見ようとしない」のか、「見ることができない」のか。作中における「盲目」であるという言葉、あるいは状況は多義的で、障害の有無に関わらず誰もが当てはまる普遍的な作品でもありました。
そして何より大事なこと!!!この作品の主演は「王様戦隊キングオージャー」でヤンマ総長を演じた渡辺碧斗さん!!!!生でお芝居を拝見するのはキングオージャーのファイナルライブツアー以来なので半年ぶりです。こうしてご活躍されている姿を拝見できるのが本当に嬉しい!!!ブロマイド買いました!!家宝にします!!
キングオージャーの素顔の戦士公演で、キングオージャーのメインキャストは全員0番に立って欲しい!と心から思っていました。なのでこうして大好きなミュージカルの世界で主演として舞台に立つ渡辺碧斗さんを拝見できて今本当に嬉しいです。
渡辺碧斗さんのお芝居はキングオージャー放送時から大好きで、毎週渡辺さんのお芝居が見られるあの1年間が本当に幸せで。キングオージャーの感想で渡辺さんの演技力こそキングオージャーの屋台骨だと何度も書いたのですが、今作でもその芝居力を遺憾無く発揮。イグナシオとの出会いにより揺らぎながらも自らの「正しさ」を生きる優等生カルロス役を、圧倒的な牽引力と存在感を以て好演。芝居の繊細さはそのままに、劇場全体に向かって大きく広がる歌声も素晴らしかったです。渡辺さんのソロがたくさん聴けて幸せでした。個人的には「1789」のロナンを演じて欲しい……!あとイグナシオ役の坪倉さんと一緒に「フランケンシュタイン」に出てほしい……!あと「RENT」とかどうですか?(このまま書き続けると無限にやってほしいお役が思いついてしまうので以下省略します。)
ドン・パブロ盲学校の理念──見えない人と見える人は平等である、目が見えずとも見える人と同じように暮らすことができる、盲人と自称しない、自己憐憫などあり得ない──こそが幸せであると心から信じるカルロスはドニャ・ペピータからも信頼され、常に生徒たちの中心にいる明るいリーダー的存在。しかしイグナシオの登場によって次第にその均衡が崩れていく。正しさを貫くことと自分の居場所を守ろうともがくことが、カルロスにとっては常に不可分の行いで、ゆえに彼は最後の選択に至る。ドン・パブロ盲学校の生徒、そして障害者である以前に彼はまだ守られるべき子どもだと感じさせる繊細さや脆さが、彼の持つ美点であるはずの聡明さや真っ直ぐさゆえに誰からも守られない、その結末を徹底して「現実」として描写してくる芝居に圧倒されました。ラストはとにかく救いがなく、観ていて本当に辛かったです。
カルロスの恋人であり、カルロスと共に生徒たちのリーダー的な存在であるホアナを演じるのは数々のグランドミュージカルに出演歴のある熊谷彩春さん。レミゼの原作から抜け出してきたようなコゼットを拝見してからファンです。今年のスウィーニー・トッドで演じられたジョアンナ役も素晴らしくて、今作のホアナ役も楽しみにしていました。
ひとつひとつのナンバーに対して真摯かつ豊かな歌唱はやはり圧巻。転校早々に学校を去ろうとするイグナシオを真っ先に引き留め彼を理解し受け入れようとするホアナの生き方にも嘘がなく、だからこそイグナシオに共鳴する生徒が増え、学校の在り方が変わっていくことに耐えられなくなる。包容力と等身大の若者らしさの両面に説得力があり、引き裂かれそうになりながらも「正しい世界」を、自分の居場所を、カルロスを愛し信じようとする姿を奥行きと品のある表現で体現されていました。
そしてもうひとりの主人公と言えるイグナシオ役はダブルキャストで、今日のイグナシオは坪倉康晴さん。統制の取れた平和なドン・パブロ盲学校の生活を「嘘の楽しさ、悲しいパロディ」と言い、自身が視覚障害者であること、自分は健常者と同じようには生きられないことを強く自覚する、ドン・パブロ盲学校の理念とは相反する考えを持った生徒です。
ドン・パブロ盲学校に通うことになったイグナシオは自らの考えをただ真っ直ぐに表現し、次第に校内には彼に共鳴する生徒が増えていきます。校内で唯一白杖を使って歩き、白杖を己の身体の一部であると言う。白状を取られそうになった時や白状を拾い上げる手の震えこそが「白状は体の一部」の何よりもの証左となっていました。
イグナシオはその信条により盲学校に混乱と変化をもたらす人物。転校してきたばかりのイグナシオが歌う「悲しいパロディ」は健常者の世界で生き、「人と違う」ことに苦しんできたがゆえにイグナシオが持つ内なる炎が燃え上がるナンバーです。柔らかな声からつっけんどんな態度を取るときの硬い声、そして燃え上がる炎のような、体温以上の高温を放つエネルギーに満ちた伸びやかな歌声。坪倉さんは声の多彩さ、バリエーションがとても豊かで、他のミュージカル作品でも見たくなる方でした。
イグナシオが学校の理念とは正反対の考えを持つのは「光」を誰よりも望んでいるがゆえ。たとえそれが綺麗なものでなかったとしても、それでも光を渇望し、見える世界を望み続ける。彼の光を強く冀う心の純度の高さが学校内に共鳴者を増やしたのだろうと思います。
そして共鳴する生徒が増えたあとのイグナシオはかつてのカルロスのように生徒たちの中心的存在になり、理解者がいること、友人がいることの幸せを噛みしめます。健常者に囲まれて生きてきたイグナシオが自分と同じ視覚障害を持つ友人を得たことは間違いなく彼にとっては救いであったのだろうし、ホアナに対して告げた思いも決して嘘ではない。イグナシオも、カルロスも、ホアナも、彼に共鳴した生徒たちも、誰も間違っていない。見えない光を見上げるイグナシオの姿の清らかさは決して間違いではなく、ただカルロスの「正しさ」とは違っていた。いくつもの正しさが混在するこの作品の中で一番共感する人物でした。
歌声で印象的だったのが、ミゲリンを演じたコゴンさん。ミゲリンはイグナシオと寮で同室となり、生徒たちの中で最初にイグナシオと同じ考えを持つようになるのですが、歌声の引力がとにかくすごい。歌声によって場を染める力があり、ミゲリンが最初にイグナシオの共鳴者となる展開に説得力をもたらしていました。
登場人物の中で唯一視覚障害を持たないドニャ・ペピータを演じた壮一帆さんは、生徒たちを純粋に思う気持ちと抑圧的に見える一面が絶妙なバランスで同居しているお役。ドニャ・ペピータがイグナシオに向かって歌うナンバー「幸福は」は、イグナシオを抑圧する歌詞に反してそのメロディは美しく柔らかい。矛盾を感じさせるナンバーが「ドニャ・ペピータ」の人物像に落とし込まれることでドニャ・ペピータの解像度を高めていました。
「燃ゆる暗闇にて」で効果的に使われていたのが視覚・聴覚・触覚です。
劇中で演者は芝居を続けている中で一度すべての照明が消えるシーンがあるのですが、「舞台の上に人はいるのに何をしているか分からない、ただ声だけは聞こえる」という、生徒たちが身を置いている環境を観客が疑似体験する演出も印象的でした。
視覚的表現でいえば白杖。物語開始時点で白杖を使っているのはイグナシオただひとりなのですが、イグナシオに共鳴する生徒たちが増えるごとに、慣れているはずの校内でも白杖を使う生徒が増えていきます。イグナシオによって生徒たちが変わっていくことが「白杖」によって表現されていました。
また白杖を使う生徒のいない校内でイグナシオの使う白杖の音が聞こえることで、目の見えない生徒たちは「自分たちとは異なる誰かが来た」ことに気が付く。視覚障害を扱う作品だからこそ白杖の使い方がこの作品特有の演出として際立っていました。
生徒たちの中心がカルロスからイグナシオに移ってから、生徒たちは皆イグナシオの名前を呼び、イグナシオを探します。その一方で、目の前にカルロスがいても、生徒たちは目が見えない以上カルロスが声を出さない限りその存在に気が付かない。この描写が後半のカルロスの孤独を際立たせていました。五感のうち「視覚」が欠落し、また「聴覚」が際立っているからこその表現でした。
そして触覚。生徒たちは身体に馴染んだ校内を白杖なしで歩いていますが、イグナシオが登場してからは手すりや椅子、そして友人たちの身体に触れることが多くなる。慣れ親しんだはずの学校が異質な場所へと変わっていく感覚が「触覚に頼ることが増えていく」描写によって表現されているのも唸りました。また親友であるエスペランサとロリータは互いの身体に触れあっているシーンが多く、「触れる」ことが重要なコミュニケーションツールであることが伝わってきました。
「燃ゆる暗闇にて」は社会批判的側面もあり、確かに政治的に読める作品でもあるのですが、純粋に「障害者の物語」として見たときに、障害のある当事者としての私が一番感情移入したのがイグナシオでした。
イグナシオは視覚障害者、私は内部障害者と障害の種類にこそ違いはあるものの、イグナシオの「光への渇望」、つまりは見える世界――言葉を選ばずに言ってしまえば、健常な世界を望むということ。障害のある状態が自分にとっての「普通」であったとしても、健常者の規格に合わせて作られた社会において自分は「普通」ではない。「普通」を、「健常」を望む感情はあって当然なのだと、障害は文字通り自分の人生の障害なのだと、そう思い続けたままでも良いのだと、そうイグナシオが肯定してくれたような気がしました。
健常者に囲まれて生きてきたイグナシオは自分が人と違うのだということを知ってしまう。一方ドン・パブロ盲学校の生徒たちは、同じ視覚障害を持つ友人たちと共に安定した世界で平和に暮らしている。この対比も身に覚えがあるというかとても共感できるもので、同じ難病の仲間に囲まれて平和に過ごしていた病院から幼稚園という周りに健常者しかいない世界に放り込まれ、そこで初めて自分が人と違うことを、自分に障害があることを知った幼少期を思い出しました。
「アルジャーノンに花束を」で、知能が上がったチャーリィが「自分がどのように世間から見られ、扱われてきたか」を知る描写を原作や舞台で見た際にも思いましたがやはり「知らないままなら幸せに生きられた、でも知ることを避けられなかった」ときのの痛みはとても共感できるものですし、前向きさや明るさでコーティングされていない、人と違う苦しさを透明化しない障害者表象は今後も創作物を通じて発信され続けて欲しいと思います。
本作はあと1回分チケットを取っているので佐奈イグナシオも観られるのが楽しみです。そして私は何が何でも原作戯曲を手に入れてみせる……!もっとこの作品を理解するために……!まだチケットもあるようなので、ぜひ私と一緒に燃ゆる暗闇に焼かれてください。私は障害のある当事者としてこの物語を受け止めましたが作品そのものは普遍的で、誰が見ても一歩立ち止まって考えるきっかけになると思うので、たくさんの人に届いてほしい作品です。
初見の感想なのでいろいろとまとまっていない気もしますが、my初日の感想はこんな感じです。
本日もお付き合いいただきありがとうございました。