動物としての自分、人間としての自分
息子のおやつのバナナを買いに、スーパーへ行った。ベビーカーに乗せた息子のお散歩がてら、あまりたくさん買い込むつもりもない。お気楽な買い物だ。
入ってすぐ、キンカンに目が行った。たくさんの苺のパックに囲まれて、小さな黄色いコロコロした果実が、お行儀よく2袋だけ並んでいる。決して安いわけではないし、夫は食べないだろう。これまでなら買わなかったけれど、なぜだか手が伸びた。
その後、ひな祭りの特設売り場に並ぶ桜餅もつい手にしてしまい(これも夫は食べない)、夫の好きなワッフルを言い訳のようにつけ足して、お店をあとにした。
数年ぶりに食べたキンカンは、思い出よりもずっとおいしくて、満ち足りた気分になった。在宅勤務をしている夫も嬉しそうにワッフルを食べていたから、結果オーライである。
最近、「食」に興味が向いている。先日、煮干しと昆布の合わせだしの味噌汁が会心の出来だった。だしから作る和食の基本に立ち戻ったことで、料理と食全般への距離感がぐんと縮まった気がする。スーパーで迷いながらも、自分の食べたいものを手にできたのは、その気持ちの変化が大きい。
それで実感したのだが、「食」を丁寧にすることは、動物としての自分を丁寧に扱っているようでとても心地が良い。生命活動を地に足つけて行えている気がして、安心感が増す。
(とはいえ、いつでもだしを取っているわけではなく、めんつゆで味付けした和え物とかインスタントスープなんかにも、たくさんお世話になっている。あくまで従来との違いであり、個人の気分の話。)
人間には、”動物”としての側面と、もっとスマートな”人間”としての側面の両方があるのだろう。
スマートな"人間”が頭を使って、効率的に成果を上げることだけを考えたなら、出来合いでおいしい食べ物がたくさん売られている現代に、だしを取って料理することはただ無駄な行動だといえる。
だけど、一見無駄にみえるもののなかに、”動物”としての自分を満たす行動が含まれている。わたしにとっては、丁寧に料理したものを食べることが、そのひとつ。
幸せな感じ、満ち足りた感覚は、”動物”としての自分が満たされたときに感じられるものだ。効率的に成果をあげて”人間”の欲望を満たしたとき、達成感はあっても満ち足りることはない。足りないもの、次の目標に向けて、さらなる展開が待っているから。
現代に生きるわたしたちは、つい”動物”としての自分をないがしろにしてしまう。でも、”人間”が安心して生きるためには、”動物”の部分を満たすことが土台として必要なのだ。
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