毒親からの解放ストーリー(54)

 それを聞いて理解したのだろうか、母は手を引っ込めようとして、少し手をよじった。私はその手を握りながら、こう付け加えた。「ママがいつも可愛がっていたヒロシに頼めばいいじゃないのよ。パパが亡くなった後は私に隠れてこそこそと何かを相談をしていたでしょう。パパが残してくれたあの家を二人で売って、私に内緒にしておこうとしていた事も知っている。

 でも残念だったわね。結局ヒロシは、独り占めをしたくて、ママをこんな病院に入れてしまったのだから。おまけに遺言書までヒロシの都合のいい様に書かされてしまったのだもの。もう私にできることなど何もないのよ、おまけに後見人をヒロシの弁護士にしてしまったのだから、弁護士の許可が無いとここから出してあげることも出来ないの」

 私が言った意味が分かったかどうかはわからなかったが、母は希望を断たれてしまった人の様に、横を向いて涙を流しているようだった。私にしてみれば、母が溺愛していた長男からの仕打ちは、皮肉にも私の代わりに仕返しをしているようなものなのだ。

 実を言うと母から助けてというサインを受けた時、急に憎しみの渦が私を駆り立てて、母の命をつないでいるチューブを抜いてやろうかと思った瞬間があった。それを思いとどまらせたのは、私の一人娘であるヒトミを、犯罪者の子供にだけはしたくないという親心が私を正気にさせたのだった。

 私が母に復讐をしなくてもヒロシが私に代わって母を病院に入れてくれて、母の全身をチューブで身動きできないようにし、栄養を送り込まれている。そんな生き地獄を心臓が止まるまで生かされてしまっている母。そんな母の最後を、善良な娘のふりをして見守って行くつもりだ。

 私に毒を吐き続けた彼女は、子供はいずれ大人になり、親よりも強くなる一方で自分は年老いて弱っていくという自然の摂理がわからなかったのだろう。そして強くなった子供にやり返されるかもしれないなどという発想さえもなかったのだろう。だから母にはなるべく長く生きていてもらって、うわべだけの孝行娘を演じよう。その期間は私の復讐の時間だ。そしてせいぜいあと半年の命なのだから。

 そうして母を見舞いに行く度に母が私に対しての暴力をふるったシーンを再現する言葉や、子供心を痛めつける言葉の数々を母の耳元で呟き続けた。はじめの頃は私から言われた言葉に対して反応を見せて、眉間にしわを寄せ、ごめんなさいというように目をつぶってく頭を下げるようなふりを見せたけれど、そのうちに私を見るなり、眼の焦点を合わせなくなり、ボーっとしたまま天井を見ているだけになった。 

 私の方もいい加減、年老いて弱々しい認知症の母親にこんなことをしている自分に嫌気がさしてきた。母の毒が解毒されたのを感じ始めると私の心も変化してきて、お母さんという言葉が自然と口をついて出てきた。これは私にとっても驚きだった。

 あとどのくらいの命だろうか。この時不思議なことに母をいとしいと感じたのだった。もっと生きていてほしいと心から思った。
母の手を握り締めながら、
「お母さん、私のお母さん、生んでくれてありがとう」
そう言うと、手を握ったまま、今まで目を合わさなかった母が、私の眼を見ながら、口を動かし始めた。何を言っているのかはわからなかったが、この瞬間、私と母の心が通じたのを確信できた。

 それからは呼吸が早くなり、眠ったり、目を覚ましたりしながら、最後の時間を母と娘として過ごせたことに、心から感謝をしていた。それでも時間は止まるはずもなく、母は母の行き着く場所へと行った。

 最後に下顎を大きく開けて呼吸をすると、そのまま息が止まった。その時の私は悲しみを感じてはいたが、同時に幸福感にも包まれていた。母を私の母親として送れたことに感謝したのだ。

 母の葬儀が執り行われた後で、今度はヒロシとの相続争いが始まるだろう。それに備えて私なりに策は打ってあるが、裁判に持ち込んだところでどうなるかはわからない。元々相続争いをして少しでも多くの金銭を得ようとは考えていないのが本心だ。

 父が残してくれたマンションを弟のヒロシが勝手に売り飛ばすことだけは防ぎたいだけだ。何故ならあの建物は父が母とヒロシに内緒で、私に残してくれたものだったからだ。父が私だけに残してくれた愛情のあかしだと思っているからだ。

 父の遺産の二分の一が母の取り分で、それを現金化したものを全てヒロシが受け取ってよいという条件を出そうと思っている。そしてその後で、中井家はきれいさっぱりと解散する運びとなるだろう。これが私の頭の中にある幸福のプランだ。

いいなと思ったら応援しよう!