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手帳持ちの娘 初めてお友達ができた小学校時代

前前回の続き。

小学校時代も、結構大変でした😅

小学校入学は北関東の近所の公立小学校。普通クラスに入りました。水色のランドセルとおかっぱ頭がトレードマーク。

発語の遅れは目立ったものの、周りの様子を見て周りに合わせる行動ができたり、本人は楽しそうに保育園でも過ごしていたので、保育園の先生たちも、かかりつけのお医者さんも「そのうち話すでしょう」と気楽に構えていました。

それでも心配で、小学校入学前には耳鼻科、脳神経外科、小児神経科、発達検査をしてくれる病院などを受診しました。それでも異常は何も見つからず、発達検査に至っては、言葉ができない(読み書き、発語、聞き取りも)と言っているのに検査には言葉を要するものばかりでした。

そして、最後は藁をも携思いで、独特な教育をしている鹿児島の保育園に数ヶ月通わせてもらいました。おかげで、マス目の中に平仮名が書けるようになったり、かけっこも一生懸命走るものだと理解できたり(笑)、殆ど跳べなかった跳び箱も11段を跳べるようになりました。もっと早くから、もっと長期間にわたってこの保育園に通えていたら、もっと違っかもしれないと思いました。

とにかく、何とかなるかもしれないと、原発事故もあったりしたけど、そのまま入学。

でも、子どもたちの健康がおかしくなってきてやっぱりダメで。友人知人の全くいない岡山に母子避難しました。 

避難して、担任の先生から発達検査を勧められました。そして、岡山市内の大きな病院で検査をしました。ここでも「言葉が苦手です」というのに、言葉を使う検査ばかりでした。結局「検査不能」。そして、「複合的な発達障害でしょう」ということで、月に2回の療育が始まりました。月に2回程度の療育で、何かが好転したとは思えませんでしたが、私と娘の気分転換になったことと、何かあった時に相談できる安心感をもらえました。あと、後々に療育手帳を取得したり、各種支援を受けるとき、また障害者年金を申請する時に、とても役に立ちました。

小学校はそのまま普通クラス。学校から帰ると、宿題をして、音読と基本的な算数の計算を毎日しました。勉強は全くできないものの、係の仕事や日直さん、委員会の仕事もできました。

言葉で伝えることが困難なので、うまくコミュニケーションがとれませんでした。たまに元気な男の子といざこざを起こしたりしました。そんな時も、状況説明が上手くできなくて、悔しくて悲しくて、二人で泣いたこともあります。

でも、転校して間もなく、お友達ができたのは、娘にとっても私にとっても大きな喜びでした。彼女は娘より一学年上で、とても面倒見の良い女の子でした。お互いの家を行き来するうちに、家族ぐるみで仲良くさせてもらいました。

UNOを教えてくれました😊
弟くんも一緒に瀬戸内海の島に行きました
大自然の中での川遊び

娘は、彼女とは今でも連絡を取り合っています。

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