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黒柳徹子さんのお母さんが書いたエッセイを読んで感動し、人生の豊かさについて気づきがあふれた話

黒柳徹子さんのお母さんである、黒柳朝さんを知っている人はどのくらいいるだろうか。

私は昨年まで知らず、むしろ黒柳徹子さんのことも「大御所」「ユニセフの活動をされているすごい方」以外には何も知らなかった。

*私の考察も交えているため、事実とは異なる可能性があります*


待って。お母さんすごすぎない?

子どもたちと映画『窓ぎわのトットちゃん』を観て感動した私は、原作の本と、最新刊の『続・窓ぎわのトットちゃん』を購入した。

読み終えて感じたのは、「待って。黒柳徹子さんのお母さん、すごすぎない……?」だった。

徹子さんはもちろんだけど、それ以上にお母さんに興味が湧いたのだ。

1944年の戦争真っ只中、それまで専業主婦だった朝さんは、NHK交響楽団のコンサートマスターだったパパ(徹子さんの父の黒柳守綱さん。ここでは「パパ」と呼ぶ)に召集令状が来たことで、突然、ひとりで11歳、4歳、0歳の3人の子を育てることになった。

東京大空襲が起きて、大田区の「北千束(きたせんぞく)」という町に住んでいた朝さん一家も疎開しなければならなくなり、朝さんは3人を連れ見知らぬ土地・青森へ。高齢の母(朝さんのお母さん)を北海道から呼び寄せ、子どもたちと母を守るために農協で働きながら、ご近所に子どもたち分のご飯を分け与えてもらった。思いつきで行商を始め、それが繁盛して、東京に家を建て直すお金を貯めた……

『続・窓ぎわのトットちゃん』では、そんなバイタリティ溢れる朝さんの話が、徹子さんの視点で紹介されていた。

朝さんはこのとき、どんな気持ちだったんだろう。さぞかし絶望的な状況だったろうに、どうやって前を向けたんだろう……

朝さんは2006年、96歳でお亡くなりになっているが、エッセイ本をたくさん出されていた。それらを11冊、4〜5カ月かけて読んだところ、「私が目指したい子育てはこれだ」、「人にとっての本当の豊かさってこれかもしれない」と、気付いたのだ。

娘と母で、当時の描き方がぜんぜん違う

『窓ぎわのトットちゃん』を読むと、徹子さんは、戦争が始まる前までは、当時はめずらしかった洋風のおしゃれな家で、優しくて素敵な音楽家のパパと、料理上手でしっかり者の朝さんの元で、恵まれた生活を送っていたように思える。

でも朝さんのエッセイには、洋風のおしゃれな家は借家で、音楽家のパパの収入には波があったうえ、朝さんが働きに出ることは許されなかったため、いつもお金がなく、質屋で服や物を売りながら生活していたと書かれている。パパはかんしゃく持ちで、これはあくまで私の想像だけど、朝さんは暴力も受けていたかもしれない(ただ、パパにはいろんな一面があるようなので、ここだけに着目はしないでほしい)。朝さん自身は、当たって砕けろの行動派。失敗ばかりだったそう。

そう、『窓ぎわのトットちゃん』と朝さんのエッセイでは、同じ出来事について書かれていても、描き方がまったく異なっているのだ。

朝さんの本で今も市販されているものは少なく、中古を買うか、図書館で借りた

徹子さんが敢えて素敵な思い出として描かれたのかもしれないし、朝さんが、子どもたちに苦労を気付かれないよう工夫されていて、徹子さんには本当にそう見えていたのかもしれない。

『窓ぎわのトットちゃん』は世界的ベストセラーだけど、朝さんとのエッセイとの違いはあまり、インターネット上では触れられていない。

朝さんは北海道で町医者の娘として生まれた。上京して、東京音楽大学に通っている最中にパパと出会い結婚。結婚までの経緯もものすごいのだけど(今なら誘拐事件沙汰!)、ここでは割愛する。

徹子さんが生まれて、長男の明兒(めいじ)ちゃん、次男の紀明ちゃん、次女の友理さん(現在は改名されて眞理さん)が生まれた。戦争が始まって、明兒ちゃんが亡くなりパパが戦争へ行ってしまった。

朝さんの魅力をひたすら語る

朝さんのすごいところ① 「欠陥だらけの私とパパの子だもの」

保護者のほとんどは、我が子を「やればできる子」だと思っていると思うし、自分は夢を叶えられなかったけど「この子ならできる。そのために然るべき方向へ導いてあげたい!」と思っているかもしれない。変なことじゃないし、我が子を愛するからこその想いだ。

でも朝さんは、ちょっと違って、こんな考え方をしていたそうだ。

「欠陥だらけの私とパパが育てた子だもの、できなくて当然!」
(私の解釈なので、朝さんの言葉そのままではありません)

だから朝さんは、「友達への思いやり」など人として大切なこと以外、子どもたちに何か指示したことは一度もないという。欠陥だらけの自分がそんなことするなんて恐ろしい、と。

その代わり、子どもたちをうんと甘やかした。「こんな厳しい時代に、親が甘やかさなくて誰が子どもを甘やかすの?」というのが朝さんの考え方。仮にパパが子どもに厳しくしても、朝さんだけは、両羽を広げてパパに立ち向かったと。

朝さんのすごいところ② 子どもたちをよく観察していた

指示しない朝さんだけど、子どもたちが悩んでいるときに、母親だからこそわかる、その子にドンピシャな道しるべを提案した。

たとえば徹子さん。小学5、6年生のとき、トモエ学園から青森の小学校へ転校し、母子4人と祖母1人の計5人で、8〜10畳のリンゴ小屋に暮らしていた。徹子さんは、友人もでき平穏に暮らしてはいたが、『続・窓ぎわのトットちゃん』によると、なんとなく、ここは自分の居場所ではないかも、と感じていたそう。

徹子さんが中学を卒業するとき、朝さんが、「ここにいても、徹子さんの好きな音楽や踊り、英語ができないと思う。徹子さんが望むなら、東京の香蘭女学校(高校)へ通ってみない?」と勧めた。下宿先も確保済みだった。徹子さんは香蘭女学校時代に「オペラ歌手」という夢を見つけ、東京音楽大学に進学し、人形劇に魅せられて、NHKを受験し採用されたのがタレントのキャリアの始まりだ。

次男の紀明ちゃんは、戦後シベリアから戻ったパパからヴァイオリンのスパルタ指導を受けていた。自ら望んだ道ではないけど、亡くなった兄に代わって自分がパパの期待に応えなければならないと、必死に練習していた。彼が20歳くらいのとき、朝さんは大胆にも、紀明ちゃんにヨーロッパ行きを勧める。パパのいない場所で、広い世界を見てきなさい。ヴァイオリンだけが人生じゃないわ、と。紀明ちゃんはヨーロッパでパパの偉大さに気付き、帰国後、ヴァイオリンに主体的に精を出すようになり、NHK交響楽団に入団したという。

次女の眞理さんは、18歳のとき、けがでバレリーナの夢を絶たれてしまった。朝さんは、日ごろからバレエ仲間の髪を器用に結ってあげている眞理さんを見ていて、「美容師になってみたら?」と美容学校へ行くことを勧めた。眞理さんは美容師になり、その後自分の店も持たれたという。

こんなふうに、その子に合った選択肢を、適切なタイミングで差し出せる母親に私もなりたい。子どもを日ごろからよく観察していないとできないことだ。

朝さんのすごいところ③ 自分ができないことはいさぎよく人を頼る

洋風のおしゃれな家で暮らしていたころ、朝さんは子どもたちに、「お友達の家で夕ご飯を勧められても、ぜったいに『自分の家で食べます』とおっしゃい」と伝えていたそうだ。でも疎開先の青森では、自分の稼ぎでは子どもたちを満足に食べさせられないので、「勧められたら『ありがとうございます』と頂いてきなさい」と言うようになった。子どもの命を守るために、迷惑になることより、助けてもらう道を選んだのだ。

それと、ここまで出てきた朝さんのお子さんは4人だが、実は朝さんは、47歳のときに三男の貴之ちゃんを産んでいる。インターネット上には、朝さんのお子さんは「3人だ」「いや4人」「男2人女3人の5人だ」などと書かれているけど、正確には朝さんは、男の子3人・女の子2人の5人の母親である。

貴之ちゃんは、朝さんがエッセイで「姉(徹子さん)の比じゃない」と書かれているほどやんちゃな男の子だったようで、朝さんは自身の体力も考慮したのか、中学校から貴之ちゃんを全寮制の学校に入れている。そこの校長先生は、トモエ学園の小林先生が徹子さんにそうしたように、貴之ちゃんのいいところを認めてくれる先生だったようだ。

貴之ちゃんはその後外資系の航空会社に就職。朝さんは、貴之ちゃんがチケットを取ってくれるおかげで、アメリカやヨーロッパなどの海外にたくさん行けたそうだ。

「豊かな人生」って、こういうことかも

朝さんのすごいところ④ 「自分のぶん」を考えずギブする

上記で、朝さんが「質屋で服や物を売りながら生活していた」と書いた。それはきっと、パパの収入が不安定だったからだけじゃなくて、人にいろいろなものを贈っていたからなんじゃないのかな、と思うのだ。

たとえば、朝さんが疎開先に青森を選んだのは、朝さんの地元北海道行きの電車の中で出会った、ある農家のおじさんがいたから。そのおじさんは、朝さんたち母子が車窓から見える青森のリンゴの木々に「あっリンゴ!!」と興奮していたのを見て、「ここに東京の住所を書きなさい」と言って、本当に朝さん宅に大量のリンゴを送ってくれた。

一日を大豆15粒で過ごさなければならない時代で、普通なら「これだけあれば◯日食べていける!」とまず自分のぶんを確保するだろうに、朝さんは「あの人にも、この人にもあげたい!」とリンゴを配って歩いた。

行商が繁盛してお札や小銭が貯まったときも、キリスト教信者の朝さんのお母さんに「たくさん献金していいわよ」と言うし、子どもたちと高齢の母を一人で見るだけで忙しいだろうに、東京から青森に食べ物を調達しに来た人に「米を炊いてほしい(おにぎりにすると腐るので、当時の人は米のまま運んでいたそう)」と言われれば無償で炊いた。生活をどうやって回していたのだろうかと驚く。

ここで言いたいのは、ギブすることは素晴らしい、ということだけじゃない。

私は朝さんのエッセイを読む少し前に、『世界最強の商人』という本を読んだ。私の好きな『奇跡の本屋をつくりたい くすみ書房のオヤジが残したもの』という本で紹介されていたからだ。

浅はかな私はその本で「世界一お金持ちになる方法」がわかると期待して読み進めたのだが、「商売で得た利益の半分を、常に貧しい人たちにあげなさい」という意味の文が出てきて、「そんなことできたら理想だけど、現実的に無理よね…」と、モヤモヤしながら読了した。

でも、朝さんの生き方を知って、もしかするとあの本が伝えたかったのは「世界一豊かな人になる方法」だったのかもしれない、と思ったのだ。

朝さんは、生涯を通じてずいぶんとお金に苦労したようだけど、不思議なことに、突然家族で大豪邸(洋風のおしゃれな家とは別)に住むことになったり、息子のおかげで世界中を飛び回れたり、老後に友人夫婦の誘いでサンフランシスコの邸宅に住むことになったりと、いつも「誰かの計らい」で、お金持ちと変わらない体験や経験をされていた。

朝さんが周りに惜しみなく分け与える人だったから、おんなじだけのものが返ってきたのだ。そこに「人とのつながり」や「愛」までついて。

朝さんは、人間関係で大切なのは「正直でいること」と語っている。失敗も包み隠さず、見栄をはらない。そうやって、おせっかいで優しい友人・知人、子どもたちに囲まれて生きた朝さんの人生は、本当に豊かなものだったのだろうな、と思う。私もそんな人生を生きたい。

私はこれまで、悲しいことに、人とのつながりを大切にできるタイプではなかった。でも今、少しずつ朝さんの真似をしていて、生きるって楽しいかも、と思える日が増えてきたところだ。

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