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満場一致の「おいしい」は、多分ないけれど

ツカノマチャイとして発信をする時、自分が提供するものに関して「おいしい」という言葉を使わないようにしている。

もちろん「おいしくない」ものを提供しているわけでは決してない。今まで試してきた中で一番だと思うレシピで淹れているし、自分の中では「これが最高においしい」と自信を持って言えるチャイをお出ししている。

ただ、「おいしい」かどうかというのは、味わう人の主観によるところが大きいものだと思う。

甘い味、しょっぱい味、辛い味…はあるけれど、「おいしい味」の定義はきっとない。辞書で「おいしい」を引いてみると『食物などの味がよい。美味だ。』と書かれている。(抽象的だ…)

以前、「うま味調味料が存在するということは、おいしさも数値化や客観視できるのか?」と思って調べたことがあるが、うま味調味料の「うま味」というのは「おいしさ」とは異なるもので、基本味(=独立した5つの味。甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)の一つとのことだった。

いつかの朝食。

「おいしい」かどうかには、その人の味覚の感じ方や、過去の食体験が影響するのだと思う。

まず、当たり前だけれど、味覚や嗅覚の強さには個人差がある。甘党や辛党という言葉があるし、例えば同じケーキを食べても、「すごく甘い」と感じる人もいれば、「そんなに甘くない」と思う人もいる。

私はラーメンが大好きでよく食べ歩くのだけれど、どんなに評判の良いラーメン屋さんでも、「自分的にはおいしいと感じられなかった」とレビューを残す人は必ずいる。おいしいと感じるかどうかは結局、食べる人の味の感じ方や好みによる。

また、何かを食べた後に体調が悪くなったことがあると、その食べ物を受け付けなくなる、という話もよく聞くし、自分にもそんな経験がある。

私は元々ひどい偏頭痛持ちだったのだが、中学生の時にたらこパスタを食べた直後に発作が起きて病院送りになり、それ以来たらこパスタに強い苦手意識がある。

十年以上経った今なら食べられるのかもしれないけれど、当時のしんどい記憶が思い起こされてしまうので、進んでで食べようという気にはならない。ちなみにこれには「味覚嫌悪学習」という名前が付いているらしい。

この記事を書いた日に十数年ぶりに食べたら、おいしく食べられた。

身近な人の好き嫌いから影響を受けることもあると思う。

私の母は栗が苦手で、モンブランの上にのっている栗は食べないし、栗ご飯も我が家の食卓には登場したことがなかった。給食で栗ご飯が出た時にはなんとなく食べる気になれず、栗を全部よけて栗好きの友達にあげていた。

大人になってから初めて食べた栗ご飯のおいしさに感動したのを覚えている。そういえば母も元々は栗が好きだったが、食べすぎてお腹を壊したせいで嫌いになってしまったと言っていた気がする。

あとはおそらく、食べた時の環境や条件も関係してくると思う。
少し前に、ずっと気になっていたお店にランチに行った時のこと。かなり混み合っていたせいか店員さんの機嫌がよろしくなく、無愛想な対応に気持ちがしゅんとしてしまい、純粋に料理の味を楽しめなかったということがあった。

そんなこんなで、「おいしいかどうか」はその人の主観によるところが大きいよなぁと考えていると、「これはおいしいチャイです」と こちらから言うことはできないな、という気持ちがある。

おいしいか、おいしくないかは、あくまで味わった人が決めること。スパイスを使う料理や飲み物は特に好みが分かれるので、なおさらだ。

ツカノマチャイでは、元々チャイが好きな人にはもちろん、初めてチャイを飲む人にも楽しんでいただけるように、スパイスの配合やミルク感・甘さのバランスを大切にしている。けれど、ツカノマチャイのチャイを好きだと思ってくださる方もいれば、「自分の好みではないな」と感じる方ももちろんいると思う。

チャイ屋を始めた当初、お客さんが帰った後に半分ほど残されたチャイを見て「口に合わなかったのかな」と悲しい気持ちになっていたけれど、今では「仕方ない、そういうこともある」と割り切れるようになった。(ありがたいことに、そういうシチュエーションはほぼ無いに等しいけれど)

100人中100人がおいしいと言うものなんて、多分ないんじゃないか。諦めではなく、そういうものなのだと思っている。

それでも、できる限り多くの人に「おいしい」と感じていただけるように。チャイを味わうひとときを、楽しんでもらえるように。

そんな想いを込めながら、これからも自分が心から「おいしい」と思うチャイを、届け続けていきたいと思っている。


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