桜は何を揺らがすのか(後編)
二
高橋英夫『西行』((株)岩波書店 平成五年)を読む。本書では西行と桜との関係性を大変抒情的に綴られており、詩的な表現に惚けてしまっていた。以下は前書の「第一章 桜に生き、桜に死す…」からの引用である。
小林秀雄『本居宣長(上)』((株)新潮社 平成四年)を読み始めているところであるが、本書からは宣長が七十一歳である寛政十二年の秋半ばから冬の初めにかけて、桜の歌を三百首も詠んだとある。また、本書はその人柄があらわれていると宣長の遺言状についてから書かれている。以下、前書からの引用である。
こうした二名の死後と桜の結び付きから、桜の蠱惑的なところを私は見つめている。ある種の妄執を、桜は人間へ生みつけているように見えるのは、私の錯覚であろうか。
自然の美に魅かれ、芸術へ浮かばせると言えば、確かに日本の自然美を詠んだと収拾がつく。しかし、桜は何か特別であろう。日本人の死生観との結びつきか、それとも私たちは桜から生まれたのだろうか。
風土は人間を育てる。気候が、自然が、文化を生むのであれば、桜の根差すものは思うよりずっと深いと見える。焦がれる思いは、昨日今日に育まれたものでは無い。ずっとずっと遠くからやって来た、魂を深く深く染める存在。
「桜とは、何であるか」、この漠然とした問いに、明確な文章による解を見出すには私はまだ人生を染め上げていない。きっと、来年も桜を見るだろう。願わくば、この抱えきれない桜への思いを僅かでも言葉に出来ることを…。