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花のにほひもげにけおされぬ---”光源氏の再来”維盛
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朱雀院50歳の祝賀、かの光君が舞った恐ろしいまでに優雅で美しかったといわれる「青海波」、時代は下って後白河法皇50歳の祝宴、法住寺南殿で披露した「平家の秘蝶」維盛である。
前年から入念な準備と予行が繰り返し行われた。それは光源氏の再来といわれるほど優艶きわまりないものだったと今に伝わる。
青海波とは舞楽の曲名で、輪台という序と、青海波という破の二楽章からなり、いずれも中国西域の地名に由来し、青海(現中国青海省)から唐を経由して日本に伝わった。以来様々に改編され、のちに純日本風(国風)の舞楽となった。
このとき、維盛は上席の西の舞人、東の次席は成宗(鹿ケ谷事件で配流ののち誅殺されたあの成親の次男)だったとされる。
冷泉隆房が記した「安元御賀記」には、身に纏った華美絢爛な衣装と、流麗な波の舞の様子が詳細に描かれているが、「似るものなく清ら也」とある。”清ら”は”清げ”を凌ぐ「美しい」の最上級の言葉である。
「右京大夫日記」には、維盛の追憶の段にかえて、この青海波のことが綴られている。<光源氏のためしも思ひいでらるるなどこそ、花のにほひもげにけおされぬべく>。光源氏の再来と思えるほどの美しさで、花が圧倒され委縮しているようだったという。
公事興行を至上とし、有職故実に口さがなく、平家に距離をとり、むしろ不心得だった摂関家上卿兼実ですら「優美なり、なかんづく維盛は容顔美麗、もっとも歎美するに足る」と記している。
絵巻や史料から、いったいどれほどの舞だったのだろうと想像するが、しかしこれが維盛の人生の絶頂だったことを思うと、かえって悲痛な思いが「波立つ」。この青海波の舞から8年後、維盛は出家したのち、最愛の妻子を都に残したまま那智の沖で入水、不帰の客となった。落日の道行きのなか、一門にあって肩身が狭かった小松家の嫡男にして「権門春の夜の夢のごとし」、あまりに短い華車、25歳だった。
烏帽子に桜と梅の枝を挿し”桜梅少将”と賞された維盛以来今日まで、「光源氏の再来」と謳われた人はいまだ現れていない。