建礼門院平徳子のこと
もっとも興味深い歴史的人物のひとり、建礼門院平徳子。清盛の娘であり、高倉院の中宮であり、安徳帝の母であり、のち壇ノ浦で入水し、源氏の武士に熊手で髪を掬い上げられ生け捕りにされる。その後、一門を弔うため出家して尼になった。かつては誰も手の届かないまさに雲井の人でありながら、最後は死期不明のままひっそりと泉下の旅に赴いた。その人となりや発言を記した史料はほとんどなく、まったく謎の人物である。
手掛かりは右京大夫の日記と平家物語、そして反平家で辛口だった兼実の「玉葉」しかないが、「平家」のいわゆる「大原御幸」に徳子の人間が一瞬垣間見える件がある。
ところで、この大原御幸とは後白河院が、徳子が隠棲していた寂光院を密かに訪れたことをいうが(一説には「性的野心」を携え、一門を葬ろうとしたともいわれる)、そもそもこの後白河院はきわめてやっかいな人物だった。それは院政という政治システムの複雑さによるものだが、しかし院政には決まりもしきたりもあったものではなく、いわば気分の無法地帯といえるものだった。
院政の当初の狙いは、それまで権勢を誇った藤原摂関家の荘園を取り締まることだったが、源平の武士らの台頭、門閥争い、養子縁組や婚姻政策、さらに院の政治無能力にくわえ芸術趣味や男色趣味により、統制なく乱脈きわまるものだった。そしてついに院は、平家討伐の院宣を下す。これは法皇の絶対至上命令であり、これによって、徳子にとって後白河院は最大の敵(かたき)となった。
平門滅亡の後、後白河院が大原寂光院を訪ねた際、徳子は侍従をともなって裏の山に花と蕨をとりに出かけていた。この侍従とは、南都焼き討ちのかどで被斬された重衡の妻であり(文武に優れ、高い教養と美貌をもった魅惑の公達、重衡についてはまたいずれ書いてみたい)、同じく壇ノ浦で「掬われた」藤原輔子である。いずれも花苑たるかつての大貴族だが、それが寂しくも自らの手で採取のため山にはいっていた。
ちょうど山を下りてきたとき、二人は後白河院の姿をとらえる。このとき徳子は山に隠れることもできず、また下りて院に会うこともできず、立ちつくしたままただただ泣いていたと伝わる。落飾しているとはいえ、黒染のみすぼらしい姿を見られたくないという恥じらいもあったことだろう。あるいは敵である院への錯綜した想いがあったことだろう。でもこの様子は、過去がどうあれ、またいかなる身分であれ、いかにも人間らしい生身の在り方であるような気がしてならない。身動きがとれず、言葉なきまま、ただひたすらに涙するのは赤子のごとき、まったき自然で赤裸々な人間のふるまいではあるまいか。
徳子は、そうしてみれば、ここに至って、わたしたちと何ら変わらぬごく坦々な一女性として在ったのではないかと推察する。想像を絶する豪奢と有閑美を尽くし、また同じほどの惨苦と凄惨を忍んだひとりの人間の、まったくもって最終的な自然な姿があるように思う。
「俗世をはなれたのだから、さぁ行きましょう」と輔子にそっと慰められ、徳子は山を下りていき、法皇としばしやり取りを交わすが、この真偽は定かではない。むしろ私は、立ち止まったまま泣きつくす場面に、徳子なる人間の「あまりに人間的な」人間を見るのである。
以来およそ800年のときを経た今日まで、徳子が過ごした庵と陵を訪ねる人が絶えないという。