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メタスタシス (1954) ――静的弁証法、静けさの先に

2022年の今年、現代作曲家クセナキス(1922-2001)生誕100年を記念して、世界各地でコンサートが開催されている。ここでは作曲家の事実上のデビュー作、管弦楽作品「メタスタシス (1954)」を少し取り上げてみたい。

冒頭、60のヴァイオリンが同じ高さの音を同時にグリッサンドして始まる。それは西洋近代音楽の伝統への宣戦布告かのようである。クセナキスは、その中心であったドイツとフランスから距離を置き、いわばその周縁で自らの音楽を追求した。これはその第一声である。

グリッサンドによる音の持続は、音の属性のひとつである離散を克服し、連続することで何らかの目に見える形をつくる。2つの点だけがある場合、われわれはそれを別個のものと捉えるが、しかしこれを線で結んだとき、そこには距離という概念が生まれる。この線がいくつも重なるとそれは面を形成し、今度は密度という概念が生じる。この音楽的な時間的な距離は、直接的に空間とも連動する(相対性理論は線という概念を利用しているといわれている)。このグリッサンドによる連続というアイデアによって、音楽はこうして目にみえるものとして提示される。ここに音楽はひとつの視覚芸術となったのである。

このメタスタシスを聴いて、「ホラー音楽?」というものもいるが、あながち間違いではない。音が滑らかに高さを変えながら重なっていき、ときにバラバラに下降していく様は、今まで見たことのない世界を描き出している。かのミラン・クンデラはこれをして「人間通過以前、あるいは以後の非人間的な美しい世界」と評したが、そこにはわれわれの知らぬそんな「美の形」があったのだ。

この帰結部のスコアは、2群のストリングスが重なり、下降しながら一点に収束していく様子がよく「見える」。そのあいだ、小さなグリッサンドが発生していることも分かる。まさにこの楽譜が、音楽で目にみえるようになった。「目に見える」とは、visual ということであり、ならばこのメタスタシスをして、クセナキスを「元祖ヴィジュアル系」と呼ぶことができるだろう。

ところで、タイトルのメタスタシスとは、meta - static から来ている。これは static, つまり「静的な状況を越えたその先に」というやや哲学的な意味だが、激しいグリッサンドによる音の動きのなかに、またその連続性の重なりの果てに、言語以前、あるいは以後の、全く新しい世界が見えてくるのである。

※新約では「はじめに言葉ありき」となっているが、クセナキスのこの世界には神も人間も、すなわち言葉というものがないように私には思われる。おそらくクンデラが「非人間的」と言ったのは、人間の非在、つまり言語の不在ということではなかっただろうか。

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