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最後まで無念不幸だった一葉

ある一葉研究者は、「一葉は死ぬ前に文才が世間に知れたことを自覚して亡くなったという意味で幸せな小説家だった」と言うが、これは迷妄きわまりない曲解である。これで研究者というのだから、某のほうがよほどおめでたい。

一葉が小説家を志したのは、ひとえに生活を支えるためであった。女戸主として老いた母と妹を養わねばならず、歌塾での姉弟子(田辺花圃かほ、のち思想家の三宅雪嶺せつれい夫人となった三宅花圃)が、日本文学史上小説で原稿料をもらった初めての女性だったことに大きな刺激を受け、いわゆる職業小説家を目指した。その動機も目的も専らこのためであった。

最晩年、世紀の傑作を一年のうちに書いたことで「奇跡の十四カ月」といわれ、確かに名声と評判は世に知れたが、そのことを本人はきわめて煩わしく思っており、手にした微々たる原稿料では生活が立ち行かなかった。これは一葉にとって、幸せどころか不幸そのものだった。

当時のいわゆる相場は、一葉が住んだ本郷丸山福山町(現在の根津)の家賃が月6円、一葉小説の原稿料は1枚40銭、いわゆる最下層の人々の生活費は月6円(車夫や針仕事、夜鷹といわれた最底辺の女郎)、ちなみに漱石の第五高校教員の月給が100円ときている。小説などでとても食ってはいけなかった。

一葉が求めた幸せは、現代の人々らが「数」を競っては求めてやまない承認欲求なるそれとまるでちがって、家族のため家のため、親のための糧にあった。あれほどの作品を書いても決して手にすることができなかった。一葉ほど世に見放された女性作家はいないのである。

病に臥し、もうほとんど起き上がることができず、それでも書き続けた日記は途中でちぎれたように途切れている。その欠文の余白には幸せの破片すらなく、その空白をみるたびに、私はわななきたいくらい胸がつぶれる思いがする。



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