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「濹東綺譚」読後
荷風の傑作のひとつとされる「濹東綺譚」、読後これといって何も残らない。作中の「わたし」は大江という初老の男で、「失踪」と題した小説を書いている。この小説の主人公は作家として取材を重ね、雲隠れを試みる大江そのものであり、これは当の書き手である閑人を自認する荷風でもあり、ここに三層の構図が見て取れる。
物語はなんのことはない、素性を隠した大江と若い娼妓のいっときの痴話にすぎない。往時の東京は墨田の様子と、いままさに晩夏から初秋の風景の巧みな描写以外、これは景色の移り変わりに抒情をのせる荷風の筆勢の真骨頂だと思うが、その他は特にこれといったものはない。
が、なんとも言えない何かが読後に宿る。互いに歩み寄ってもう一歩というところで、もう二度と会うことがない人、決して再会することがないと初めからお互いに分かっている人、その偶然の出会いと別離。これまで自分も数えきれないくらい体験した、頭で分かっていても割り切るにわりきれないその心の揺らめきが、あらためて心に残る。いともあっけなく幕切れになる最後がなおのこと余韻を残していく。
それは生きている限り、あの人も彼の人も、好きも嫌いも、帰らぬ哀切のオブラートに包まれて、ずっとずっと残っていく。