華美絢爛"ブレない男"頼盛
金箔や銀箔をふんだんに撒き、金銀の鍍金(メッキ)や水晶による精緻な細工を施すなど、平安芸術の粋を結集した日本最高の装飾経といわれる「平家納経」。そのなかでもひときわ美しい第十二巻「提婆品」は、平頼盛によって書写された。平家一門都落ちに同行せず、のちに頼朝の厚遇を受け、平家没落史の汚点とも裏切者ともいわれた。
しかし頼盛の手になるこの経文は華美絢爛、あまりに見事だ。金字、銀字、群青字、緑青字が数文字ずつ交差して書き分けられている。これを金泥や銀泥で書くのは途方もない作業だが、最後まできわめて繊細丁寧に仕上げている。女人成仏を説いた法華経ではこの提婆品が重要視され、頼盛は完成の結びの一語まで細心の神経と集中を注いだに違いない。
清盛と、その異母弟である頼盛との関係は複雑なものだった。頼盛の生母池禅尼は忠盛の死後も正室の地位を守り続けた。若い頃の清盛はこの継母の世話を受けて頭が上がらず、よって頼盛にも一目置いていた。しかし嫡男の重盛を失ったあとの清盛の眼には、頼盛は本家を脅かす分家と映ったに違いない。治承三年のクーデターの際に、解官され所領を没収されている。翌年以仁王謀反では、八条院に親しい頼盛は窮地に立たされる。女院に睨まれながら、以仁王の子を捕えざるを得なかった。しかしその後立場は好転し、福原遷都では山荘を内裏として提供し信頼を得ているが、それもつかの間、今度は頼朝謀反によって足元を掬われる。母・池禅尼は平治の乱にて13歳だった頼朝の助命減刑の嘆願をした経緯があり、この慈悲がこうして頼盛にも一門にも裏目に出てしまう。頼盛の一門とのわだかまりはいかばかりかと推察するが、それは最後の都落ちの際、山科へ出陣していた頼盛にこの旨を知らせなかったことにまで及ぶ。そして頼盛はひとり離脱を決意した。二転三転目まぐるしい政争になすすべなく巻き込まれた頼盛には彼なりの事情があったはず、それは決して裏切り行為ではなかった。
美しさきわまりないこの写経には、右往左往する頼盛の姿はない。一意専心、まるでブレることなく正確で端正な字を刻んでいる。
平家滅亡後、朝廷に出仕するもこれまでの振る舞いを理由に院側に疎まれて孤立したのち、落髪して法体となった頼盛は、ほとんど姿を見せなくなり、誰にも知られることなくひっそりとこの世を去った。気にかけるものは一人もいなかったという。
この「提婆品」の題箋(表紙の左上のタイトル部分)の墨書の上には、清盛が日宋貿易で手にしたといわれる貴重なガラスが装飾として被せられている。平家納経全三十三巻のうち、このガラスがついているのは頼盛によるこの一巻のみ、唯一のものである。現代にまでこの美を遺した頼盛に、名巻の利益、写経の功徳があって欲しいと、私は思いたい。
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